無償の愛

仕黒 頓(緋目 稔)

雨夜の月

第一話 愛など見えない

 愛など知らない。

 だって私の周りには、愛なんて、これっぽっちもなかったから。

 だから、この腹にあるものが何なのか、今になってもよく分かっていない。

 それでも走ったのは、何故だろうか。

 いつ殺されても仕方のないような命しか持っていなかったけど、今はまだ、死ねないと思った。

 だから走った。

 今までで一番、後ろぎたなく足掻いた。

 生き延びるためなら、退屈だとのたまうあの悪魔に屈することだって、もう厭いやしない。




       ◆




 俺は、母に憎まれていた。


 理由など知らない。どんなに愛情を求めても、返されるのはいつも敵意さえこもるような眼差しだけだったから。

 だから傭兵に志願できる十四歳になると、母が隠していた金をありったけ握り締めて家を飛び出した。以来、人を殺すことで糊口ここうをしのいだ。戦がない時には賞金首を狙うこともあったし、それもなければ野盗紛いのこさえした。

 だから、その手配書に出会うのもまた、あるいは必然と言えた。

 傭兵崩れや破落戸ごろつきたぐいが立ち寄るような、大通りから外れた潰れかけのような酒場だった。金がなく、力と苛立ちばかりが有り余った連中が集まるような店で、半分近くが劣化のために破れていたが、手配書であることはすぐに分かった。

 恐喝、詐欺、押し入り強盗、貴族殺し。罪状には、ありとあらゆる悪行が書いてあった。だが何よりも目を奪ったのは、猛禽のようにぎらついた目と、こけた頬、女とは思えない程に凶悪なその人相――母だった。


 刹那、脳裏に蘇る声があった。


『それは、愛されていないのじゃないか?』


 それは子供の頃の一時期に知り合った、行きずりの旅人の言葉だった。名前も知らず、顔も忘れてしまったが、体中の傷や痣を見咎められて、少しだけ母が怖いということを相談したら、苦笑交じりにそんな風に返された。

 旅人に悪意はなく、きっと小汚い餓鬼とそんな会話をしたことさえも覚えていないだろう。

 けれど当時の俺は、頭を鈍器で殴られたくらいの衝撃を受けた。


「賞金首、だったのか……」


 長年の疑問が解けたと、俺は一人得心した。

 母は、人目から逃げるように山奥で俺を産んだ。そしていつまでも人目を嫌って山奥に籠り続けた。必然的に、俺の世界は母と二人だけの狭いものとなった。

 認めたくはないが、母が全てだった。


 当然、俺は子供の本能に従うように母に愛されようと努力した。

 物心ついて最初の記憶は皿を片付けているところだったし、三歳の頃には畑の野菜採りも俺の仕事だった。勿論寝起きも着替えも既に一人で出来ていたし、四歳には火も包丁もそこそこ扱った。

 俺は、いつだって母の命令に忠実だった。用事が終われば、最後にはびくびくと報告に行った。それはやはり逆らいがたい本能であったかもしれないし、執拗に希望を捨てきれないだけかもしれなかった。


 だがどちらにしろ、それらは無駄な努力と言えた。

 母が俺を見る時は、いつも厄介者を見るような目付きをされたし、どんなに良いことをしても軽蔑された。子供が嫌いという話以前に、俺を産んだこと自体を後悔しているようにしか思えなかった。

 それを裏付けるように、母は頑ななまでに俺の目を見なかった。

 たとえば失敗を咎めるように一瞥をくれた時でさえ、やはりすぐに目を逸らされた。視界に入れたことが失敗だったとでもいうように。

 そのくせ小暇しょうかあれば、枝切れで烈火のごとく叩かれた。


『やられたらやり返せ』

『死にたくないなら反撃しろ』

『いつまでも泣いたまま飽きめるな』


 あまりに理不尽な仕打ちに、毎日亀のように体を丸めて堪えるしかなかった。叩かれるのも、薪小屋に閉じ込められることも、真冬に外に放り出されることも、空腹さえも、堪えるしかなかった。

 だが最も大事なのは、泣かないことだった。泣くと、その声を聞きつけて母がやってくるからだ。その足音は恐怖だった。

 けれど同時に、懲りずに少しだけ期待してしまうのだ。

 もしかしたら、今度こそ心配して駆け付けてくれたのではないか、と。

 けれどそれは、目を見開き口を堅く引き結んだ表情で見下ろされる段になって、やはり違ったのだと気付かされるだけだった。

 そしてまた、怒られる。


『泣き声が耳障りなんだよ』


 頭から布団を被せられ、その上からまた叩かれる。

 ごめんなさい、もうしません、と訴えれば、簡単に屈するなと体罰は更に酷くなった。酷い時には、泣きながら気を失った。朦朧とする意識の中、もう泣かないから、次はもっと頑張るからと、いつも心の中で誓った。

 その時に見る夢は何故か決まって、見たこともないような優しい母さんに抱きしめられながら、黒い靄に包まれるというものだった。いい加減、幻想など闇に葬れという生存本能からの訴えだったのかもしれない。

 その夢から覚める度に、俺は母を恋しがる自分の弱さに絶望した。


「……結局、親がクズなら餓鬼もクズになるのは当然、ってことか」


 酒場の隅、明かりもろくに届かない場所に貼られた、忘れ去られた手配書に吐き捨てる。

 俺には詐欺で稼ぐ知恵はなかったが、戦に出れば敵兵を片っ端から殺したし、略奪もした。罪状だけを並べ立てれば、大差はない。

 血を引いているだけのことはあると思うと、途端に興味が失せた。折角の酔いも醒めた。

 声をかけられたのは、残りの酒を一気にあおって席を立った時だった。


「アサナトス?」


 傭兵時の通り名を呼ばれ、俺は慎重に振り返った。

 そこにいたのは、別の席に座った三人のうちの一人だった。酒杯を軽く持ち上げるその手には剣だこが目立ち、腰には短剣と長剣が吊るされている。顔に見覚えはないが、その荒んだ目は同業者のようだ。


「今度こそ死んだかと思ったが、やっぱり生きてたか。不死身の名前は伊達じゃねぇな」

「……あぁ」


 どうやら、半年近く前の小競り合いにいたらしい。

 元々、俺には名前がない。産む気がなかったのならもあらん。だから俺はずっと名無しで通っていた。

 不死身アサナトスの名前で呼ばれるようになったのは、戦場で深手を負い、そのまま打ち捨てられてからだ。

 傭兵は使い捨てだ。数があれば、助からない兵士は捨て置かれる。新人ならば尚更だ。

 だが俺は生還した。方法は分からない。目覚めた時、近くの村で手当てをされていた。

 その後も、度々そういうことがあった。部隊からはぐれ雪山で遭難した時も、火にまかれて逃げ場を失った時も、気付けば一命を取り留めていた。

 いつ死んでも構わないような命だったが、ゴミのように死ぬのだけは嫌だった。それでは、あの家にいるのと変わらない。

 だから、傷が治れば何度でも戦場に行った。お陰で一部からは悪魔憑きなどと気味悪がられているが、気にはならない。

 用はないと踵を返すが、その足はすぐに立ち止まった。


「殺すのか?」

「!」


 出し抜けの不穏な単語に、ハッと振り向く。心中を見透かされたかと思ったのだ。

 だが見返した顔は、壁に並んだ手配書を眺めて新しい情報でもないかと探る程度のものだった。


「……さぁな」


 情報交換をする気はないと、とっとと出口に足を向ける。

 だが男は、興が乗ったようにその口を回した。


「そいつ、結構狙い目じゃねぇか? 貴族殺しなら高値は決まってるし、随分古い手配書だから本気で追いかける奴もいない。しかも本人はもう老婆ばばあときてる」

「もうちっと美人だったら、すぐに追いかけてヤルだけヤッて首を獲るのによ」

「違ぇねぇ。目の輝きこそ気が強そうで好みだが、あの不健康そうな顔じゃ、きっと体なぞ、案山子かかしか枯れ木のようだしな」


 ガハハッと、同席していた他の男たちが下品な哄笑を上げる。

 この手配書が母でなければ、この下劣な会話に何の痛痒つうようも感じず混ざっていただろう。だがどんなに嫌っていようと、流石に不愉快に思うことは止められなかった。


「お前、まさか知り合いか?」


 それを、一人の男に見咎められた。


「……違う」

「知ってるなら居場所を教えろよ。最近平和で、稼ぎがないんだ」

「知らない」

「何だよ。独り占めする気か? ケチ臭いな」

「違う」

「なら……まさか、庇うのか?」

「……違う」


 妙にしつこい男に、苛立ちとともに返す。と、四人目の男がにやついた声で追い打ちをかけた。


「まあ、居場所なんて永遠に隠せるものでもなし、早晩誰かがその賞金を掠めていくだろうけどな。そうなる前に、どうせだから今までの恨みも込めて、お前が殺してしまった方が良いと思うがなぁ」


 暗がりのせいで判然としないその表情とも相まって、まるでその声は悪魔の囁きのようだった。悪心をそそのかすような言い方が、子供の頃に会った旅人の言葉を想起させる。


『お前が不幸なのは、母親のせいだろう?』


 顔はろくに思い出せないのに、その言葉の鋭さだけは肌が粟立つほどに覚えている。あの時の気付きは、俺にとって幸運だったのか、不運だったのか。


「……下らねぇ」


 最後まで顔が見えなかった男から視線を外すと、そのまま店を出た。体中に湧いた不快感を、飼い慣らせないまま。




       ◆




 翌日、仕事を探すためにもっと大きな町に行くはずだった足を反対に向けたのは、魔が差したか、ただの気の迷いだ。

 それでも次の日も、また更に同じ方向に進み続けた。

 そして半日も歩いた頃、街道の端に落ちた奇妙なものと出くわした。


「何だ、あれ?」


 最初、それが何かも分からなかった。干乾びた襤褸ぼろくらいにしか見えなかったからだ。しかし大して広くもない街道だ。引き返すには随分離れていたし、迂回すれば危険が上がる。

 仕方なく近付いてみると、あと数歩というところで襤褸が動いた。むくりと端の一部が持ち上がり、それに引っ張られるように麻縄のような紐がずるずると動く。


「……まさか、人間?」


 よくよく観察すれば、それが行き倒れた女のようだと知れた。耳を澄ませば、ひゅーひゅーと、死んでいないのが不思議なほどの喘鳴も聞こえる。

 だが、無視した。

 道端に落ちているのは、厄介事の種と決まっている。しかもどう見ても金はなさそうだ。拾う気など毛頭なかった。

 だが。


「どうやらついに隠れきれなかったようだな」

「?」


 ふとそんな声が聞こえて、横を通り過ぎようとしていた足を止めた。

 誰の声だ? 他に人の気配など、あったろうか。

 街道を振り返ってみると、


「おや、この顔、どこかで見たことがないか?」


 今度は反対側からそんな声がした。驚いて首を回すも、声の主は見当たらない。すると次には、半ば吸い寄せられるように足元の女に目が行く。

 視線の先にいる女は、その間にももぞもぞと街道から逸れるように道の端に向かっていた。まるで死にかけの野犬だ。一体どんな老婆かと、目を眇める。

 土で汚れた髪の下に、見覚えのある顔があった。


 母だ。


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