第三部 琥珀色の明日

第1話 澪と澪つくし

 ミオなんて女みたいな名前だが、俺はれっきとした男だ。漢字は『澪つくし』の澪。

 琥珀亭というバーを営む両親によると、澪は『水脈』とも書き、水の緒という意味らしい。船の通行にぴったりの底深い水路とか、船の通った跡をさす言葉だ。


 琥珀亭と同じビルでバイオリン教室を営んでいた凛々子さんは俺のお守りをしながら、こう言ってくれた。


「澪や、お前の名前はバーテンダーにぴったりだね」


 幼かった俺は、口を尖らせて抗議した。


「やだよ、凛々子さん。だって女みたいな名前だってからかわれるんだ。ただでさえ顔も女みたいなのに」


 すると、彼女が笑う。


「言わせておくといい。十年後に笑うのは、お前だよ」


「どうして?」


「いずれわかるさ」


「ふぅん。凛々子さんは、俺の名前、好き?」


「あぁ、大好きさ」


「......なら、いいや」


 嬉しくなった俺を、彼女が優しく撫でてくれた。細められた目はどこまでも優しく、その髪はいつも良い匂いがした。普段はクールで哀愁漂う彼女が、俺の前でだけは凪いだ大海原のように穏やかだった。

 俺の祖母であり、母であり、姉であり、親友。そして、彼女こそ俺の『澪つくし』だったんだ。俺を叱り、励まし、導いてくれた人。それが凛々子さんという人だ。


 誰もが『お凛さん』と呼んでいたが、それは彼女がそう仕向けていた気がする。

初めて人に会うとき、よく「お凛さんと呼んでおくれ」と言っていたから。


 彼女の本名は三木凛々子。『凛々子』と呼んだ人は琥珀亭の創業者とその妻だけ。

つまり、俺のひいじいちゃんとひいばあちゃん。なんでも、凛々子さんはひいじいちゃんに惚れていたらしい。おまけに、ひいばあちゃんとは親友だったって聞いたときは、なんだか可哀想だった。


 だけど、凛々子さんは死んだ旦那さんに出逢えたからいいんだよって笑ってた。そして、俺にだけこっそりと若いときの写真を見せてくれたんだ。その白黒の写真には、うら若い凛々子さんと旦那さんの寄り添う姿があった。凛々子さんがあまりに綺麗なんで、びっくりしたもんだ。


「ばあちゃん、綺麗だね」


 その頃の俺は彼女を『ばあちゃん』と呼んでいた。父方の祖母は遠くに住んでいたし、母方の祖母はいなかった。

 なんでも、母方の祖母という人は、お袋が小学生のときに男と家を出たらしい。

お袋は今でも許せないらしかった。

 琥珀亭のあるビルに住む凛々子さんが実の祖母のように俺に接してくれたのは、そういう経緯もあった。


「旦那さんはばあちゃんのこと、何て呼んでたの?」


「ん? そうだねぇ。お前になら教えてもいいかね」


 彼女は旦那さんとの思い出をなかなか口にしない人だ。だけど、いつでも俺にならこっそり教えてくれた。それが誇らしくもあり、嬉しかった。


「結婚するまでは『お凛ちゃん』だったんだけどね、夫婦になってからは『凛々子さん』だったよ」


「どうして『さん』なの?」


「そのほうが大事にしてる感じが出るからって言ってたね。あの変わり者は」


 俺は小さく「凛々子さん」と口にした。


「......俺もそう呼んでいい?」


「え?」


「だって、俺もばあちゃんのこと一番大事だもん」


 すると、彼女はたまらないといった顔で嬉しそうに目を細めた。


「......あぁ、いいとも。澪に呼ばれるなら、いいともさ」


 生まれて初めて、願いが叶う喜びを感じた。

 なんてことない、ただの呼び名。だけど、とても大事なことに思えた。それは凛々子さんがそれだけ大事な存在だったってことなんだろうけど、当時の俺はそんなことを考えるほど大人でもなかったっけな。


 彼女は琥珀亭で必ず一番奥のカウンターに座るらしかった。琥珀亭の隣にあるバイオリン教室で教鞭をとったあと、彼女はいつでもそこで飲んでいた。


 ただ、俺が小さいときはずっと傍にいてくれた。俺にいろんなことを教えてくれた。特に音楽の嗜好は彼女の影響が強いと思う。

 凛々子さんは滅多にクラシックは聴かなかったが、俺にはいろんな作曲家の曲を教えてくれた。ときどき、彼女はバイオリンを弾いてくれることもあった。彼女が弾くバッハの『無伴奏バイオリンのためのソナタとパルティータ』を聞いたとき、俺はバイオリンを習うことを決めたんだ。

 凛々子さんは俺にとって厳しくも優しい師匠だった。バイオリンの、そして人生の。


 いつしか彼女は体力に限界を感じ、バイオリン教室を孫の大地君に譲ってしまった。

 俺が中学生の頃だったと思う。彼女は息子夫婦と同居することになり、琥珀亭のあるアンバービルを出て行くことになった。


「やだよ、俺、もっと一緒にいたいよ。バイオリンはどうするんだよ?」


 年甲斐もなく泣きじゃくる俺の髪を撫でながら、彼女は言った。


「なに、バイオリンは私の友達が見てくれるから大丈夫。それに、引っ越したってすぐ近くじゃないか。遊びにきておくれ」


 そして、こう言った。


「大丈夫、私はお前といつでも一緒だよ」


「本当?」


「あぁ、この凛々子さんが嘘をついたこと、あるかい?」


 首を横に振り、俺はやっと泣き止んだ。俺は凛々子さんのいないアンバービルから高校へ通い、いつしか三年生になっていた。

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