幕間:終わらぬ初恋
その日の夜。
風呂を済ませ、既に浴衣に着替えた椿は、自身の部屋の縁台に腰を下ろし、庭をぼんやりと眺めていた。
彼女が今住まう母方の祖父母の家は、しっかりとした和風建築の豪邸。
庭には石庭や池もあるが、月明かりに照らされた夜桜が、丁度そよぐ春風に乗り、綺麗に舞い散っている。
彼女は、ふわりとなびく黒髪を気にする事もなく、じっと舞い散る桜を切なげに見つめていた。
──私は、諒様を傷つけていたのですよね……。
心に浮かぶのは、初恋の相手だった彼の事。
椿は転校した後も、今日までずっと彼を想い、後悔していた。
祖父母が日本に戻ると聞いた時。最近日本でのアーティスト活動も増えたからと、共に日本に戻りたいと申し出た。
だが、それは表向き。
日本に戻れば、もしかしたらまた諒に再会できるかもしれない。
そんな淡い期待と恋心があった。
帰国子女の受け入れも積極的だった
転校の手続きを進める中。自身が元々いた中学出身の生徒がいないかを伺った時。偶然同じ学校に諒がいると知り、心の高鳴りを覚えた。
だが。
転校生として紹介され、少し大人びた諒と視線が合った時。
まだ彼は失恋したままだったと思い知った。
まるで転校前に見せた時と同じように、視線と心を逸らしたのだから。
今でも思い返す、中学時代の後悔。
告白された日に素直に答えを伝えられなかった。
彼が自身の返事に、まるで縁がないのだと、哀しそうに笑ったのを見て、本当に胸が強く痛んだ。
雨の中、自分の呼びかけに止まることなく走り去った諒。あれが最後の別れの言葉になるなど、思ってもみなかった。
あの日の行動が、彼を沢山傷つけたのだと後悔した。
だからこそ、自分は彼と結ばれてはいけないと、想いを断つべく長い髪を切った。
そして。
未練を断ち切り海外に渡ったはずなのに。
結局、忘れられなかった。
独り孤独で、どうすればよいか分からなかった日々を変えてくれた彼。
『希望の翼』を歌い、応援し、笑みをくれた彼。
文化祭のライブで、思いの丈を歌に乗せた時。最後に彼の姿を見つけ、微笑み返してくれた彼。
そんな彼にもう一度、逢いたかった。
ずっと心で想い続けた、初恋の相手に。
願いが叶い、そのせいでまたも彼を傷つけてしまったのに。
──諒様はそれでも、お優しかった……。
そんな彼を想い、寂しげに笑う。
初恋は終わったと言われたのに。
それでも変わらぬ温かさを感じせてくれた彼に。
己を責める自分を、許してあげてほしいと言ってくれた彼に。
ありがとうと言ってくれた彼に。
椿は、やはり惹かれてしまった。
やはり彼が好きだと、気づかされてしまった。
「……きっと、許されぬのでしょうね」
目を細め、思わずぽつりと口にする。
確かに、友達であろうとした。
ただそれは、彼を側で見守ればそれでよいという気持ちだっただけ。
しかし。友達として彼の側に残ろうとしてしまった裏に、
もしかしたら、また振り向いてくれるかもしれない。そんな淡い期待も、なかったとは言えない。
──私はやはり、酷い女ですよね……。
彼女は切なげな顔で、ぐっと唇を噛む。
側にいたらまた傷つけるかもしれないのに、側にいようとした自分に。
萌絵という告白した女子が側にいるのに、図々しくも、側にいようとする自分に。
沢山想い、後悔し。
わがままに生きてしまったと思うからこそ。
──せめて、側にはいさせてください。その代わり……。
舞い散る桜の花を見ながら、椿は心にある覚悟を決めた。
出来る限り、彼への想いは隠そうと。
彼が傷ついた分、耐えようと。
彼が誰かと幸せになったら、祝福しようと。
──
あの時勇気をくれた彼に、何時か勇気を返したい。
諒が幸せになる為に、心から応援してやりたい。
それこそが、皆に歌えるようになり、今も歌い続けられる自分の使命なのだと。
そう、心に決める。
未だ続く、終わらぬ初恋。
そんな淡い想いを心の奥に仕舞うと、何かを思い立ったのか。足早に部屋に戻ると、本棚より一冊のノートを手に取った。
そして、畳の上に敷いた座布団に正座すると、座卓にノートを置き、そこに何かを書き始める。
きっと諒とその仲間との友達生活は、時に辛い事もあるかもしれない。
だが、それでも。気まずく、傷つくだけの生活ではないはず。
そこに書き綴られていったのは、そんな想いを
初恋の相手。
同じ想いを共有した友達。
その未来に夢があるように。
想い人が幸せとなれるように。
そんな彼等との新たなる日々を想像しながら、彼女はどこか寂しげに。しかし楽しそうに。言葉をそこに書き続けた。
複雑な胸中。それでも、皆と希望ある未来を夢見て。
* * * * *
数年後。
のちに発表された、彼女の代表曲のひとつ。
『友達であれたからこそ』
恋と友情。
その楽しさと、切なさと、感謝が綴られたその歌が世に広まるのは、もう暫く先の話となる。
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