第四話:身から出た大声

「ちょ、ちょっとおおにい! 声が大きいよ!」


 慌てた香純かすみの声で、周囲の視線が集まったのに気づいた諒は、思わずバツが悪そうに周囲に頭を下げると。


「ご、ごめん」


 彼女にも同じように、頭を下げた。

 とはいえ。


「だ、だけどお前も悪いんだぞ。突然変な事言い出すから……」


 流石に彼女から口にされた一言の衝撃が大きすぎたせいか。何とも複雑な表情を返すことしかできない。

 そんな諒を見ながら、香純かすみは少し恥ずかしそうに両手を胸の前で組み、視線を落とす。


「いや、だって。おにいが知ってる女子と出掛けるんだったら、妹としても恥ずかしくないようにエスコートできるおにいでいてほしいし。それでなくてもおにい、霧島先輩と二人っきりになんてなったら、ガチガチになりそうでしょ?」

「そりゃ、そうかもしれないけど……」


 的を射た発言に、困った顔をする諒。

 だが、何処か煮え切らない雰囲気に「もう!」っと声を出した香純かすみは、正面に向き直り仁王立ちすると、目を瞑り、恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら、大きな声で叫んだ。


「だから! 私が霧島先輩の代わりに仮想の恋人になって、慣れてもらおうと思ったの!」


 瞬間。

 またも周囲の痛い視線が一気に二人に刺さる。

 気配の変化をはっきり感じた彼は、おもわず狼狽うろたえながら。


「ば、ばか! お前も声がでかい!」


 やや控えめな声で、香純かすみに現実を伝える。

 はっとして目を丸くし、周囲を見回した彼女も現実を理解すると……。


「い、一旦場所移動しよう!」

「お、おい!?」


 恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら、香純かすみは慌てて諒の手を掴んで無理やり走り出し、二人は逃げるようにその場を離れたのだった。


* * * * *


「はぁっはぁっ」


 二人がそのまま駆け込んだのは、駅の連絡通路南側を出てすぐにある芝野蔵しばのくら駅前公園。

 春の暖かさを感じる快晴の空の元、逃げるように全力で走ったためか。

 額に汗を掻き、折角整えた髪が乱れた香純かすみは激しく息切れをし。たまらず近くのベンチに腰を下ろし、前屈みになりながら、必死に呼吸を整えようとした。


 対する諒も同じく走ってきたものの、そこまで辛そうな気配はない。

 彼は園内をきょろきょろと見回すと、一度彼女の元から離れ、何処かへ歩いていった。


  ──何やってるのよ! あれじゃおにいにまで恥をかかせちゃうじゃない!


 荒い息を必死に収めようとしながら、頭の中では先程叫んだ自分の一言を反省していた。

 確かに。公共の場でなどと叫んだのだ。

 それは奇異の目を誘うのに十分過ぎる。


 しかも異性の前でと宣言したということは、諒も含むのは誰の目にも明らか。


 少しずつ乱れた息が整い、熱を持っていた気持ちも冷めていく。

 そして。残ったのは、


「もう……私の、バカ……」


 兄をもはずかしめに合わせた、自身への後悔だった。

 汗のせいか。春の日差しがあるとはいえ、そよ風すらも少し肌寒く感じ。悔やむように視線を落としたまま、思わず身を震わせる香純かすみ


 そんな彼女の頬に、突然ぴたりと何かが当てられた。

 布越しに感じる温かさもそうだが。


「まあ、確かに随分突拍子もない事思いついたよな」


 掛けられた声もまた、何処か温かい。


 ゆっくり顔を上げた彼女に映ったのは、ハンカチを巻いたホットの無糖の紅茶が入ったペットボトルを顔に優しく当ててきた、優しい笑顔の兄だった。


「せめて見える所位汗を拭いとかないと、この時期でも寒いぞ」

「……うん。ありがと」


 当てられた物達を受け取った香純かすみは、一度ペットボトルをベンチに置くと、額や腕などをハンカチで拭う。

 そんな彼女の隣に、諒はゆっくりと腰を下ろした。


「しっかし。仮想の恋人って、お前がやってたVRゲームでそんなのあったっけ?」

「あるわけないじゃん。大体私が恋愛ゲームやらないの、おにいも知ってるでしょ?」

「そういやそうだったな」


 軽く笑った彼に、


「はい。ありがと」


 すっとハンカチを返すとペットボトルを手にし、キャップを捻ると、想像以上に軽い力で開いた。

 それを見て、感じた香純かすみは思わず微笑んでしまう。


  ──おにいって、ほんとに細かいとこ、気が利くんだから。


 少しだけ先にキャップを捻り、開きやすい状態で手渡されたペットボトル。

 自分が好きなのを理解し、肌寒く感じるからこそ選ばれた、温かい無糖のストレートティー。

 そして。迷いなく汗を拭くのに差し出されたハンカチ。


 その細やかな気遣いが、口をつけた紅茶の温かさ以上の熱を、彼女にもたらしていく。


「おにいに、迷惑掛けちゃったね」

「別に。俺のこと思って考えてくれたんだろ? まあ、萌絵さんとはまだ友達なのに、いきなり恋人想定のプラン口にされたのは驚いたけど」

「確かに、そうだよね」


 こちらの顔を見もせず、俯いたまま気落ちする姿に苦笑する諒。

 確かに気が逸りすぎた気がして、香純かすみは反省し、後悔していた。

 だが。


「とはいえ。俺も、少しは変わらないとだし」


 彼の言葉にふっと顔を上げると。視線だけで自身を見ていた兄が、微笑む。


「お前に助っ人の手助けお願いしたのは俺だし、今日どうするかは任すよ。あんまり恥ずかしいのは勘弁だけど」

「……いいの?」

「ああ」


 おずおずと問い返すも、あっさりと了承する諒を見て、彼女は少しはにかむと。


「じゃあ、私は今日だけ恋人だからね。霧島先輩っぽい感じで振る舞うけど、年下だから、りょ、諒さんって呼んじゃうから」


 少し気恥ずかしそうに。しかし嬉しそうにそう宣言する。


「俺は、香純かすみでいいよな?」

「だ~め。霧島先輩にもさん付けなんだから。私にもそうして」

「まじで!?」

「そりゃね。呼び慣れない名前呼ぶのも慣れないとだもん」

「まあ、一理あるけど……」


 しまった、と言わんばかりの後悔した顔を一瞬するも。それもまた変わらねばならないと感じる部分。だからこそ。


「わかったよ。香純かすみ、さん……」


 そう言って、諒もはにかんだ……後。


「これ、案外恥ずかしいな……」


 思わず天を仰いで両手で顔を覆う。


「確かに恥ずかしい、けど……。今日だけ。今日だけだから」


 脇に座った香純かすみも、彼に向けた言葉を必死で自身にも言い聞かせながら、ただ顔を真っ赤にして俯く事しかできなかった。


 普段と違う呼び方が、二人の羞恥心を煽りつつ。

 かくして。恋人ごっことでもいうべき一日の幕が、切って落とされたのだった。

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