第二話:生まれない実感

 翌日。

 春の陽気を感じさせる、暖かな晴れ空の元。


「行ってきまーす」

「気をつけて行くのよー」


 手短に母との挨拶を済ませた諒は、靴を履くと、家の玄関を出た。

 赤と黒のチェック柄のシャツの上からダッフルコートを羽織り、下はジーンズ姿。

 それは特に着飾ることもない、諒の普段の姿。


 家の玄関から門を抜け、少し寒そうに肩を震わせた彼は、最寄り駅である水宮みずのみやえきに向け歩き出す。


 そんな彼の後ろ姿を二階の自分の部屋で見つめていた、長い金髪をツインテールに束ねた私服姿の香純かすみは。


「……よし」


 何かを決意するように強く頷くと、ハンガーの掛けていた白いハンチング帽とコートを急ぎ手にし、足早に階段を降りていった。


* * * * *


 丁度何処の学校も春休みに入ったためか。

 平日にも関わらず、水宮みずのみや駅前えきまえは思ったより人が多いように見える。


 そんな中。

 どこか昔ながらの木造の建物を模した、ハイカラな駅舎の前にある案内板の脇に立ち、ぼーっとスマートフォンのツブヤイッターのタイムラインを眺めている諒。

 普段からそれで気になる情報を集めたり、面白い話を楽しんでいるのだが。今日はどこか上の空のまま、文字通り


 萌絵と話をするために、指定した場所はここ。

 待ち合わせの時間である午前十時までには、まだ二十分ほどあった。


 随分と早めの到着に思えるが。

 何かあって待たせてもいけないと気を遣い過ぎたのか。はたまた緊張が心を急かしたのか。実は九時半前にはもう、彼はここに立っていた。


  ──しかし……。本気で俺、なのか?


 一晩経った今も、未だに諒には実感が湧かなかった。

 霧島萌絵が、自分に告白してきた事が。


 本当に、間違いではないのか。

 そんな疑念からか。彼はぼんやりとしたまま、改めて昨日の出来事を振り返っていた。


* * * * *


 彼女は泣きそうな顔をしながら。


「私は! 青井……諒君が、好き、なんです……」


 何とか絞り出すように、そう、言葉を紡いだ。


  ──……へ?


 あり得ない相手から、人生で初めての言葉を耳にして。


 瞬間。

 諒の時間が。思考が。止まった。


 呆然とする彼がゆっくり振り返ると。

 訴えるように、萌絵は必死に言葉を繋ぐ。


「わ、私! 幼稚園の時に初めて逢ってから、ずっとあなたを見てたんです!」

「よ、幼稚園、から!?」

「は、はい……」


 先程までの落ち着きは何処へやら。

 改めて彼女に向き直りつつ、狼狽うろたえながら聞き返す諒に。萌絵は顔を真っ赤にしたまま、恥ずかしそうな上目遣いで、申し訳無さそうに視線を向ける。


「私、青井君と同じ学区に住んでて。小中と学校もずっと一緒だったんですけど……。覚えてない、ですか?」


 不安そうに尋ねられ、彼は視線を逸し少し考え込むも。


「……ごめん」


 結局そう返すことしかできなかった。


 諒は今まで、あまり女子と絡んだ経験がなく、余程でないと心に残ってはいないのだが。残念ながら、萌絵はその一人ではない。


 これでも一応、一度は女子を好きになったこともある。

 だが。中学一年で経験した初恋も、勇気を持って学校帰りに告白して玉砕。

 それ以降、彼はより、女子との距離を置くようになってしまった。


 理由は単純。

 失恋の心の痛みほど、辛いものはなかったから。


 人を好きになったせいで、これだけ辛い気持ちを味わったのだとしたら。

 それならもう、恋なんてしなくていい。


 そう思うようになってから、異性との人付き合いを避けるようになったのだが。

 思春期の色恋話は、必然的に同性の会話にもつきまとい始めるもの。

 会話に交じる恋の話は、振られた傷の痛みに染みるようになり。気づけばそれすら避けるように、男友達とも距離を置くようになっていた。


 唯一親友だったあおいはそれでもずっと側にいたわけだが。彼は彼で、中学時代にはもうイケメンオーラ全開でモテモテ。

 そのため、彼に告白したい女子が仲介役として諒を頼ってくる事も増え。人付き合いがかなり面倒になったというのも、ひとつ大きな一因なのは皮肉なものか。


 とにかく。そうやって人付き合いを避け続けた結果、彼は他人にあまり興味を示さなくなっていた。そんな中で萌絵を覚えているかと言われれば、相当有名でなければ難しい。


「え〜っ。青井君ってこんな美少女が同じ学校だったのに、本当に覚えてないの~?」


 呆れるように日向ひなたが割って入るも。


「ご、ごめん……」


 諒は困ったように、直面した現実に俯くしかなく。


「仕方ないよ。私、中学までずっと、影薄かったし……」


 合わせるように、萌絵もまた困ったように視線を落とす。


「それよそれ! いっつも思うけど、あり得なくな〜い?」


 唯一それに納得いかなかったのは日向ひなただ。


「だって萌絵ってこんなに可愛いじゃん。それなのに影が薄くて誰も見向きもしないなんて。ありえないでしょ?」


  ──まあ確かに、可愛いけど……。


 彼女らしいストレートな言葉に、諒も心の内では同意する。


 実際、自然に清楚さを振りまく萌絵は、とても可愛らしかった。

 その可憐さが十分男子の心を引きつけるものがあることは、あおいではなく自分への告白だと知ってから、彼が強く胸の鼓動の高鳴りを感じる程なのだから、間違いはない。


「あの……それで……」


 と。萌絵は夕日に染まっていても分かるほど顔を真っ赤にし。

 またももじもじとしながら、ちらちらと諒を見る。


 その愛らしい仕草に、彼ははっと、己に突きつけられし現実を思い出した。


 そう。

 諒は告白されたのだ。

 であれば、答えを返す必要がある。


 まるで天に祈るように、未だ手を胸で組んだまま、じっと答えを待つ萌絵を見て。彼も気持ちを切り替えようとした。


 失恋から三年程。

 環境も変わり、歳も取り。随分と時間も経った為だろう。

 諒も流石に少しは大人になり、人付き合いや恋にも寛大になった。

 しかし、そのせいだろうか。より色々と、余計な事を考え込んでしまう。


  ──こんな可愛い子が、本気で俺を好きなのか?


 それが事実なら、勿論嫌ではない。

 だが。


  ──ドッキリじゃ、ない……よな?


 最初にまず疑ったのはそこだった。

 冴えない自分がこんな美少女に告白されるいわれはない。となれば、揶揄からかわれていると感じてしまっても、不思議ではないだろう。


 とはいえ。萌絵の真剣な顔や日向ひなたの反応を見る限り、諒には何故か、それはないように思えた。


 となれば、素直に受け止めればよいかといえば。

 彼の何処か冷めた心が、そうさせなかった。


  ──でも俺……霧島さんのこと、ほとんど何も知らないんだよな……。


 そう。

 学年でも人気の美少女。

 それは知っている。


 だが、悲しいかな。

 彼は彼女を知らなかった。


 クラスメイトだからこそ、萌絵と多少は話した事もあるし、華もある彼女だからこそ、はたから見た印象位は持っている。


 だが。異性同性問わず、彼女達二人は友達に囲まれる機会も多かった為、彼が学校の事務的な会話以外で話をした記憶はなく。

 また、残念ながら諒は、今まで強く萌絵を知りたいと思うほどの興味は持っていなかった。


 では、断るべきか。

 そう考えた時。


  ──「あの……申し訳、ございません。わたくし……」


 ふと、諒の脳裏に過ぎった想い出と共に、心に強い痛みが走った。

 それは萌絵でも、日向ひなたでも、香純かすみでもない女子が、困ったように口にした一言。


 それこそ、数年前に彼が経験した初恋であり、失恋の想い出。


  ──俺が同じこと言ったら……。霧島さん、あの時みたいに傷つくのかな……。


 ここで断れば、彼女が同じ気持ちを感じてしまうのでは。

 そんな同情と不安が、彼の心を惑わせる。


 初めて告白された今。

 どうすればよいか分からず、堂々巡りの迷路に入った思考の中で。必死に答えを探すべく、諒はひたすらに悩んだ。


 そして。

 彼が最後に出した答え。それは……。


「あの、さ。明日……二人で少し、話せないかな?」


 答えの先延ばしだった。


* * * * *


 そんなこんなで今日、二人っきりで会って改めて話をすることにした訳だが。

 彼の行動が意気地いくじなく映ったのか。

 あの後日向ひなたには


「萌絵がここまで勇気出したのにさ~」


 と、かなりぶーぶー言われたのを覚えている。


  ──はぁ……。困ったな……。


 自分で今日の場を選択しておきながら、諒はひとつため息を漏らす。

 気分は未だ空のようには晴れず。五里霧中と言わんばかりに、心すら定まらない。


 考え事をしていたにも関わらず、待ち合わせはまだ十五分ほどある。

 残り時間を使い心を落ち着けようと、彼は一度目を閉じ、大きく深呼吸しようとした。

 その刹那。


「あ、青井君?」


 戸惑うような澄んだ女子の声に、彼の息が、止まった。

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