第27話 人のセックスを嗤うなⅤ

 人気のない暗いフロアに、パソコンの明かりが灯った。


「早くしろ……。早くしろぉ……」


 男は苛立ちを隠せない様子でマウスを忙しなくクリックする。パソコンは未だに起動中のようで、企業名のロゴマークが表示されている画面から動かない。


「クソ! 冗談じゃない! まさかアイツらが逮捕されるなんて」


 男はブツブツと悪態を吐きながら、パソコンの画面を睨みつけている。そしてようやく目的のソフトを立ち上げると、ログイン画面に自身のIDとパスを打ち込んだ。

 気持ちを込めるようにバチンとエンターキーを押した男だったが、すぐさまその動きが止まった。


「ん? ……なんでだよ」


 画面には打ち込まれた内容が間違っているためログインが出来ないという表示がされていた。


「クッソ、こんな時に限って」


 男は改めてIDとパスを入力する。しかし、何度入力してもログインが出来ないという表示が現れる。


「……どうなってるんだ?」


 男が呟いたその瞬間、フロア全体の照明が灯された。突然のことに男は大げさにその身体を跳ねさせた。


「……やっぱり、あなただったんですね。落合課長」

「き、君は……」


 脂汗でテカった顔を向け、落合はそこにいた美智子に驚きの声を上げる。


「ど、どうしたんだね、一体。……僕は忘れ物を取りに戻っただけでね。ははは」


 流れ落ちる汗をハンカチで拭いながら、落合は取り繕うように乾いた笑い声を上げた。薄くなった髪の毛が情けなく顔に垂れ落ちている。


「……忘れ物ってこれのことでしょうか?」

 美智子が手に持ったUSBメモリを落合に見せつける。


「……なんだね、それは」

 落合が目を細めて食い入るように美智子の手元に注意を向ける。


「早苗が担当した顧客のリストです」


 その言葉に、落合の表情が変わる。初めは驚きの表情。そして事態を理解したのか、すぐさま凶悪な目付きで美智子を睨みつけた。


「お前、何を知っている」


 それは普段の猫背で声の小さい落合の姿からは想像も出来ないような、低く、威圧感のある声であった。


「早苗がすべて話してくれました。……あなたのことも」

 美智子の言葉に落合は強く奥歯を噛み締める。こめかみが盛り上がり、血管が浮き出ている。


「そもそも、あなたがグルなんじゃないかというのは早い段階で推測出来ていました。早苗がいくら隠そうとしても、報告書はあなたに上げないといけない。そうなれば確実に顧客情報の不審な点に気付くはず。それがすべて承認が下りていたということは、あなたが率先してこの悪事に手を染めていたことに他ならないわ」


 美智子も負けじと落合を睨みつける。


「だから、源さんが情報システム課に話をつけて課長のIDとパスを初期化したんです。……まあ、かなり無茶を通したみたいですが」


「なあに、ちょっとした交渉だよ」


 ふいに声が聞こえたかと思うと、美智子の後ろから源と三上が姿を現した。


「間に合ったみたいですね」

 三上が安堵したように呟いた。


「大方、ニュースを見て飛んできたんだろう? 川島に犯愚裏威を逮捕したって情報をメディアに流すようにお願いしてたからな。そして案の定、ネズミが引っかかった」


 源は落合を指さしにやりと笑った。落合は全身に力を込め、ぷるぷると震えている。が、ふと何かを思いついたかのように三人に向け笑顔を見せた。


「そ、そうだ! その情報を隠してさえくれれば、キミたちにもいい思いをさせてやろう。なぁに、犯愚裏威の後ろ盾がなくても私たちが手を合わせれば上手くやれるさ。な? それがいい」


 落合は両手を広げ必死に三人に訴える。


「……最低」


 美智子は顔をしかめ、汚物を見るような目で落合を睨みつける。


「ははは。なんとでも言うがいいさ。お前たちもいつか分かる。この年になっても万年課長。これ以上の昇進は見込めない。毎日毎日同じような仕事の繰り返し。そのくせ成績が悪くなると詰められる。こんな会社にも、仕事にも、愛着なんて無いんだよ。分かるだろ? おれたちはもう夢見る年は過ぎたんだ。だったらどうする? 目の前にあるチャンスを! 金を! 掴まなきゃ! 悪いことか? 違う。これは対価だ! おれの人生を搾取した会社に対する、正当な要求さ! いつか分かる。お前たちにもいつか分かるんだよ!」


 落合が血走った目で唾を飛ばしながら自分の正当性を訴える。必死であれば必死であるほど、美智子の目にはそれは滑稽で醜悪なものに思えた。


「私はそうは思いません」

「思うんだよっ!」


 美智子の言葉を遮るように落合が叫ぶ。


「思うんだよバカ野郎! 人のため? 社会のため? あぁ? ちゃんちゃらおかしいね! みんな大切なのは自分だけだよ! そうだろ? そうじゃなきゃいけないよ。この世の中は弱肉強食なんだ。おれはそれに気付くのが遅かった。……優しい人間ほど搾取されるんだよ! だから! いいじゃないか! 人のためになんて考えなくて! 自分だよ自分! 自分のことを考えて生きるべきなんだ!」


 落合はもはや舞台上で演説をする俳優のように、大きな身振りを伴って叫ぶようにまくし立てた。


「どうして……そんな」


 いつしか、美智子の目に涙が浮かんでいた。様々な感情が胸の中で渦巻いている。それは同情か、諦めか、悲しみか、ふがいなさなのか。ただ、落合の言葉のどこかに、少しだけ共感してしまいそうな自分がいて、それを受け入れまいと心の中で抗っていた。


「人のために生きるのが、悪いことだとは僕は思いません」


 美智子の隣で、三上がはっきりと告げた。


「人の生きる意味なんて大きなことを言うつもりはありません。しかし、僕はこの仕事をして様々な顧客に出会ってきました。中にはキツイ言葉や汚い言葉で罵ってくる方もいらっしゃいました。でも、お客様のために動き、そして感謝のお言葉を頂くとまた頑張ろうという気持ちになります。明日を生きる活力を貰えます。事実、僕はある人からそれを貰いました。そうやって人のことを思いやることは決して悪いことではないと思います」


「……三上さん」


 三上の言葉に、美智子の涙腺は完全に崩壊しぼろぼろと大粒の涙が止めどなく溢れている。それは、自分自身が葛藤していたこの仕事に対するやりがいや意義を代弁してくれたように感じたからかもしれない。


「ふん! だーかーらー! まだ若いんだよ! お前は! お前もおれくらいの年になるときっと後悔するよ。あの時課長の話に乗っておけばってな! 後悔するんだよ! 会社は、仕事は、何も守ってくれねーぞ! その時になって後悔しても、遅いんだからな!」


「……後悔しないように、一生懸命生きていきたいと思います」


 三上はまっすぐな視線で落合を見つめる。その瞳には確かな決意が宿っていた。


「へっ。いいねぇ。熱い男だ、三上ちゃん」


 源がからかうような声を出す。


「あぁぁぁ! もう! クソ! クソガキどもが! とにかくそのデータを寄こせぇ!」


 狂ったように頭を掻きむしった後、落合が勢いよく美智子に突進してきた。


「きゃっ!」


 驚いた美智子が身体を強張らせるが、落合の魔の手が美智子に届くより先に、三上の拳が稲妻のような速さで落合の腹部に突き刺さっていた。


「ぐぇぇっ!」


 落合はあまりの衝撃と痛さにその場で崩れ落ち、嗚咽を漏らしながらもんどりうつ。美智子は初めて見るその三上の姿に目を見開いて驚いている。


「……残念です」


 三上は芋虫のような動きで悶絶している落合を見下ろし、少し寂し気に呟いた。

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