第25話 人のセックスを嗤うなⅢ
会社から電車に乗って四十分ほどの場所に、早苗のアパートはある。セキュリティのしっかりした女性専用の小綺麗なアパートだ。
美智子が共有スペースに設置されているインターホンで部屋番号を押してしばらく待つと「ちょっと待ってね」という声がスピーカーから響き、ほどなく自動ドアのロックが解除された。
美智子は階段で二階に上がり、向かって二番目の部屋のチャイムを鳴らす。
「はいはーい」という声と共にドアが開かれると、動きやすそうな灰色のスウェット姿の早苗が顔を出した。額には冷却シート、口元には大きなマスクを付けていた。
「これ、差し入れ」と言って美智子が手に持ったスーパーの袋を掲げる。
「ほんとに嬉しー。ちょっと汚いけど、入って入って」
美智子は招かれるまま早苗の部屋に入って行く。まるで新築のような綺麗なフローリングの先には、十畳ほどの部屋があった。
壁際にはベッドがあり、部屋の中央には二人掛けのソファがある。ソファの前にあるテーブルには、食べ終えたカップ麺の容器やスポーツドリンクのペットボトルが置きっぱなしになっていた。
「体調、大丈夫なの?」
テーブルの惨状を見て、美智子が尋ねる。
「大丈夫、大丈夫。薬飲んで汗かいたら熱は一気に下がったから。まだだるさは少し残ってるけどね」
そう言って早苗がソファーに勢いよく腰掛ける。美智子は早苗と対面するような形で、テーブルのそばにあったクッションに腰掛けた。
なんとなしに部屋を見渡すと、白を基調としたタンスの上には、乱雑に化粧品が並べられていた。どれも結構値段の張るブランド物のようだ。
「それより、アンタこそどうしたの? わざわざインフルの人間を訪ねてくるだなんて。……あ、わかった。みっちゃんもしかして休みたいからってインフル
早苗が可笑しそうに眼を細める。
「そんなんじゃないわよ」
早苗の言葉を美智子は鼻で笑って返す。
「じゃあなんなのよ? 仕事の話? やーだー。いま仕事の話なんかされたらまた熱が上がっちゃうよ」
早苗がわざとらしく手をひらひらと扇ぎ、おどけた声を出す。そんな早苗の姿を見て、美智子はなぜか泣きそうになり、ぐっと奥歯を噛み締めた。
「……え、なになに? ほんとに仕事の話なの?」
美智子の複雑な表情を見て、早苗が思わず身を乗り出す。
「……私、何かミスってた?」
不安げな早苗の目の前に、美智子はこっそり持ってきた顧客情報を置いた。木下を含む怪しい履歴を持つ顧客のものだ。当然、個人情報の持ち出しは厳禁のため、それは美智子にとっても大変なリスクのあることだった。
「……これ」
資料を一目見るなり、早苗の表情が変わった。
「……こ、これがどうかしたの?」
平然を装ってはいるが、明らかにその声は震えている。その言葉と声を聞き、美智子は心の中で「あぁ……」と声を漏らした。
「それを見て、何か感じない?」
美智子は訴えかけるように早苗に問いかける。その言葉には一抹の希望を込めていた。
「な、なにかって?」
この期に及んでシラを切る友人に対して、美智子はどこか心の中の糸が切れる音を感じた。
「どうして? ……ねぇ、早苗! ほんとのことを言ってよ!」
つんざくような美智子の叫びに、早苗の肩が大きく跳ねる。美智子の目からは、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちていた。
「ねぇ、早苗。お願い。ほんとのことを教えてよ。……知っててやったの?」
早苗は美智子に目を合わせることも出来ず、ただ手に持った資料を見ていた。いや、資料を見ているように見えるが、その焦点はどこにも合っていないように思えた。どこか魂が抜けたような、そんな空虚な表情だった。
「……何がいけないのよ」
しばらくの沈黙のあと、ようやく発せられた早苗の一言に美智子は驚愕した。
「……何がって」
「……これはそんなに悪いこと?」
突如として資料から顔を上げ、美智子に視線を向けた早苗の目は真っ赤に充血していた。
「早苗、おかしいよ」
「おかしくない。……ねぇ、美智子。アナタはそれでいいの? 毎日まいにち人のセックスの話を聞かされて、やれ『あっちが悪い』だの『こっちは悪くない』だの。頭おかしくなりそうにならない? ふざけた仕事よ。セックス保険なんて」
早苗はそう言って口角を上げ鼻を鳴らす。美智子は見たことのないその邪悪な早苗の表情に少しばかり寒気を覚えた。
「で、でも早苗……」
「お金が欲しいのよ!」
部屋中に響く大声で早苗が叫ぶ。美智子は突然のことに驚きのあまり言葉を失ってしまう。
「お金が欲しいのよ。……いいじゃない。少しくらい。下衆い仕事をしてる会社から、少しだけおこぼれを貰ってるだけよ」
そう言って早苗はどこか開き直った表情で腕を組み、美智子から目線を外した。
「……早苗」
美智子は次の言葉が出てこない。友人のあまりの変貌に思考が追い付かないままでいる。
――どうして? どうしてよ、早苗。
感情と思考がショートして、頭の中が真っ白になっていく。無意識のうちにその瞳からは涙がこぼれ続けていた。
「……そうだみっちゃん。……みっちゃんも一緒にやろうよ。あの人達に紹介してあげるから」
ふいに早苗が身を乗り出し、美智子の右手を両手で包み込むようにして掴んだ。病み上がりのせいか、その手はひどく熱く感じた。
「ね?」
早苗が俯いたままの美智子を覗き込むようにして同意を求める。その潤んだ瞳の奥の感情がどういったものなのか。美智子には理解出来なかった。
「……ダメだよ。早苗。……違うよ」
美智子が絞り出すように言葉を発する。力なく首を振り、早苗の勧誘を拒否する。
「どうして! なんでよ!」
早苗は握りしめた手を美智子の太ももにドンドンと当て、金切り声を上げる。
「ねぇ、美智子! 私が間違ってるっていうの? 私が。なんで! いいじゃない! お金が稼げるんだよ? バカな会社と、バカな社会から。私は間違ってない! 間違ってない!」
狂ったように大声を上げ、間違っていないと繰り返す。普段の姿からは想像もつかないその醜態に、美智子は恐怖し息を飲む。
「間違ってない、間違ってない、間違ってないよ!」
「間違ってるよ!」
突然の美智子の叫びに、早苗の動きが止まる。目を見開き、驚愕の表情のまま固まっている。
「間違ってるよ、早苗。ダメだよ。……私も最近まではくだらない仕事だなって、変な仕事だなって思ってた。でもね、早苗。それでも、うちに相談してくる人はみな悩んで、時には苦しんで、救いを求めて電話を掛けてくるの。色んな人生があって、背景があって。中には風俗に通ってばっかりの人とかもいるけど、それでも立派な人生よ」
美智子が早苗の目を見て訴えかける。
「青臭い言葉かもしれない。でも、私のそういうところが良いって言ってくれたのは早苗だよ? ……ねぇ、早苗。私たちは人の人生に関わっているのよ? そういう仕事をしているの。そんな人たちを利用してお金を稼いでも、虚しいだけだわ」
美智子の言葉を聞きながら、早苗の全身が小刻みに震えている。
「……どうすればいいのよ。……私はどうすればいいの? どうすれば……」
早苗が独り言のように呟き続け、前のめりになって頭を抱えた。
「どうすればいいのよ。……どうすれば。……あぁぁぁぁぁ!」
両手で髪を鷲掴みにし、大声を上げて泣き叫ぶ。
「謝ろう? 早苗。……まだ間に合うよ。罪を償うの」
美智子が早苗の肩に手を置き、優しく声を掛ける。
「お願い、早苗。私が付き合うから。隠してること、全部話してちょうだい」
美智子はうずくまって頭を抱えている早苗に覆いかぶさるように身体を寄せると、震える早苗の身体を優しく両手で抱きしめた。
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