傾国のアリス

タイラ

第1話 はじまりの少し前


「明日、アーサーが帰って来るよ」

「まあ、本当ですか、ニコラス様」


 無駄に広いテーブルで晩餐の席についているのは、この屋敷の若き主、ニコラス・オーウェン伯爵と私の二人きりだ。大きなドアの前に、老執事のテイラーが控えている。姿勢が良い彼の姿はまるで置物のようだ。


「アリス」


 大きなテーブルの向かい側に座ったニコラス様が私の顔をじっとみつめて、たしなめるように名前を呼ぶ。こんな時は、逆らってはいけない。

 私は淑女らしく微笑んで、小さく首を傾げた。


「ごめんなさい、ニコラス兄様」

「うん、それでいい」


 ニコラス様は満足げに頷いて、スープを一口飲んだ。

『兄様』と呼ばないと納得しないニコラス様だけど、こちらにも言い分がある。そもそも、私はニコラス様の実の妹ではない。ニコラス様の本当のご兄弟は、王都で第一騎士団に所属している弟のアーサー様、ただおひとりだ。


「いつまでも妙な遠慮をしていてはいけない。お前は正式な手続きを経てこの家の養女になったのだから。いや、手続きなどなくても、アリスは私の大事な妹だ」

「ありがとうございます、お兄様」


 あれは10年と少し前のこと。

 私は国境沿いの戦場で、今は亡き先代オーウェン伯ジェームズ様に拾われた。当時のことを、私はあまり覚えていない。暗いところに隠れていたら、突然明るくなって見知らぬ男性に助けられた……という記憶がうっすらとあるだけだ。名前を訊かれてアリスと名乗ったらしいが、今はそれすら忘れてしまっている。


「でも、珍しいですね」

「うん?」

「アーサー様が特に何もない時期に領地にお戻りになるなんて、初めてなのでは?」

「アリス」

「……アーサー兄様、なにか急な御用でもあるのかしら」


 アーサー様にも『兄様』をつけないと納得いかないらしい。なにくわぬ顔で言い直すと、ニコラス様と私は視線を合わせてにっこりと微笑みあった。兄様ってつけてもつけなくても、そんなに変わらないと思うんだけどな。ひょっとしてニコラス様って妹萌え? シスターコンプレックス? ええ、溺愛されている自覚はあります。だってほら、ジェームズ様は奥方様を早くに亡くされて、私が拾われて来た時には、この家は男所帯だったし。使用人のほとんどは亡き奥方様が雇ったベテラン勢だったし。子供二人は男の子で、二人ともそこそこ育ってしまっていたし。早い話、“萌え”のようなものが足りなかったのだろう。

 なんだか枯れていたのだ、この家は。


 そんな時期、突然当主が連れてきた幼女(つまり私だ)に、屋敷中の人間がメロメロになってしまったとしても仕方のない流れだと思う。

 得体の知れない孤児の私に、皆が優しく接してくれた。

 家人の中でも特に甘かったのは、何を隠そう目の前の長兄だ。


「あいつのことだ、アリスの顔が見たくなったんじゃないかな」

「アーサーさ……、アーサー兄様はそんなことでお仕事を休んだりしません」

「うーん、そうかな?」

「何事もないと良いのですけど」

「はは、あいかわらずアリスは心配性だね」


 ニコラス様は呑気に笑う。しかし、私には呑気に構えていられない理由があるのだ。


 そう、私は知っている。

 いずれニコラス様とアーサー様が敵味方に分かれ、骨肉の争いを繰り広げる未来があるということを……。




 最初に違和感を覚えたのは、今は亡きジェームズ様に連れられてはじめてこのお屋敷の門をくぐった時だった。美しく整えられたバラ園を、馬車で通り抜けているときだった。

 幼い私は、外を流れる景色を見て、何故かひどく懐かしく思った。おそるおそる首を伸ばして遠くを見ると、白い壁の大きなお屋敷が見えた。


 空を飛ぶ青い小鳥のイメージは、ほんの一瞬。

 このお屋敷、見たことがある。ほら、あのキャラたちの登場のムービーで。


 ……ムービーって、なに?



『さあ、もう安心していい。ここは私の家だ。そしてアリス、これからはお前の家でもある』


 屋敷の前で馬車が止まり、ジェームズ様が優しく笑った。なのに私は泣き出しそうになった。私はこのお屋敷を知っている。この世界を知っている。この先起こることを、知っている。だけど、それを口に出すことはできなかった。恐ろしかったのだ。私はまだ幼かった。


『アリス、私の息子たち……ニコラスとアーサーだ。お前の新しい家族だよ』


 紹介されたご兄弟の顔を見て、ぐるぐると眩暈がした。どうにかこうにか頭を下げて、子供なりに挨拶をしようとした……、そこまでは覚えている。それから大きな声がして、がちゃんと何かが落ちる音。そして、私は気を失った。

 長旅の疲れも災いしたのだろう、高熱が出て、3日も寝込んだ。


 4日目の朝、ふかふかのベッドで目を覚ました時には、私はすっかり思い出していた。このお屋敷への違和感、この世界への違和感。その理由。

 私はこの物語を知っている。ゲームだ、前世で何度もプレイした、マルチエンディングの、大好きだったゲーム。そう、私は生まれ変わってこの世界に来てしまったのだ!


 ジェームズ様は、ニコラス様が成人する前に亡くなるだろう。ゲームには故人として名前しか登場しなかった。ニコラス様は後をついでオーウェン伯爵となり、時の宰相の腹心となる。アーサー様は16歳で騎士団に入隊する。数年で第一騎士団の副隊長に任命され、いずれ第一王子付きになるはずだ。そして二人は、王位継承権を巡る王子たちの争いに巻き込まれ、敵味方に分かれて……、ああ、どうしよう。



『アリス、目が覚めたって?』


 部屋に現れたジェームズ様は、優しく声をかけてくれた。乱れた私の髪をそっと梳くように撫でてくれた。それだけで、また泣きそうになった。部屋の入り口には、心配そうに、けれど少し戸惑ったように私を見ている兄弟の姿があった。


(守らなきゃ)


 まったく分不相応なことを、私は決意していた。


(私が守らなきゃ)


 だって、私は知っているから。この家に起こることを、この国に起こることを。

 できれば、争いが起こらないように。争いが起こったとしても、この家の人たちだけはなんとか守ることができるように。まずは物理的に強くならなければ。


 まだ幼かった私は、そう決意したのだった。






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