善悪の天秤は宵の内に傾く

もぐら

第1話

暗い夜道を原付で駆け抜ける。

急いでいた。街灯がまばらな車道は、ひどく空いている。

「あのクソババア」

ふざけんなよ。何ヶ月も入院して、見舞った時はけらけら笑っていたくせに。

死にそうだから、会いに来てくれ、だと。

「マジメに、正直に、誠実に」

そう生きれば、きっと良い事がある。

そんな何の役にも立たない教えを俺に擦り込んで、どうなったと思う。

周りが、ふざけてやった駄菓子屋の万引き、何が面白いのか流行ったピンポンダッシュ、諸々の子供のイタズラの類に、仲の良い友達から誘われても全て断った。

誰の陰口も言わず、イジメがあれば先生に告げた。

そんな俺は、小学校から高校までの間、周囲から悉く孤立した。俺が想いを寄せた人は、俺とは正反対の、髪を下品に染めて仲間と群れる男に惹かれていった。

その反動として、俺は周囲を見下すことで辛うじて自尊心を保ち、大学受験に賭けた。

医者か弁護士になるんだ。なんでもいい。社会的地位の高い職に就く。そうすれば、救われる。

結果、過度なストレスから心を病んだ俺の話を、親身に聞いてくれる友人などいなかった。

受験は諦めた。高校を卒業して、バイトを掛け持った。

信号待ち。腕時計を見る。23時30分。

俺はあと30分で二十歳になる。

20年、何一つ、良い事なんて無かった。

さらに急ぐ。原付は俺の思いを乗せて、スピードを上げる。

「死ぬなよ。ババア」

一発、ぶん殴ってやるからよ。


それは、あまりに唐突だった。

街路樹の陰から、何か飛び出してきた。

人だ。

ブレーキは間に合わない。原付を倒す。

しかし、スピードが上がりきった原付は、倒れながら滑るようにして、人に衝突した。

俺は、自分の身体に激痛が走るのを構わず、倒れている人に駆け寄った。

おそらくは、酔ったOLだろう。スーツ姿の女性が頭から血を流している。

携帯電話を取り出して、震える指で番号を押した。

パトカーと救急車が到着し、パトカーは俺を、救急車は女性を乗せて走り出した。

時刻は丁度、0時だった。


落ち着く為に、目を閉じた。

深呼吸。

数度、吸って吐いてを繰り返し、目を開けた。

俺は、パトカーの中にいたはずだ。

無数の星々が見える。

いくら灯りが多い都会と言っても、夜なのだから星くらいは見えるだろう、とか、そんな次元の話ではない。

都会だろうが、田舎だろうが、通常、星は空だけにあるものだ。

こんなことは、ありえない。

まるで、とてつもなく大きな球体の中を浮いているかのように、俺は虚空に立っていて、上を見ても、下を見ても。どこを見ても。星、星、星、星。

「なんだ」

自分の声が、わけがわからない空間の中にこだまする。

すると、俺の疑問が天に届いたのか、予兆など感じさせずに、そいつは目の前に現れた。

男だ。と思う。

そいつは、男にしては長めの黒髪、白いシャツに黒いベストを合わせている。

憎らしいほど整った顔、透き通るような肌。

そいつは、俺を見て、微かに笑った。

「お久しぶりです。いや、初めましてと言った方がいいですかね」

あからさまな棒読みは、予め用意してた原稿があるかのようだ。

「貴方とは10年前に会っているのですが、覚えていないでしょうから、やはり、初めましてが良いでしょう」

男は両手を広げて、さらに続ける。

「これから、貴方の10年を査定します」

もはや、意味が分からないどころではない。

頭が痛くなってきた。

夢を見ている。そうに違いない。

「そうですよ」

俺の考えを読んだかのように、こちらを覗き込んできて、男が言う。

「貴方の夢の中にお邪魔してるんです」

もう我慢、出来ない。

「なんだお前は」

いきなり続け様に言葉を投げられたら腹が立つ。それが理解が出来ない言葉なら尚更だ。

怒りをぶつけられた男は、不思議そうな顔をした後、

「おかしいですね」

どこから取り出したのか、分厚い書物をぱらぱらと捲りだした。

「貴方はそんな言葉遣いをするような人間ではないはずですが」

書物をパタンと閉じて、俺に差し出してくる。

背表紙を見て、腰が抜けそうになる。

そこには「斉藤裕一」と記されていた。

俺の名前だ。

「なんだ」

なんだ、この本は。

ページをめくる。出生から現在に至るまでの、斉藤裕一の全てが、そこにあった。

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