神母坂いげさか常若とこわか様──にございますね?」


 突然の訪問者は、麗しき見目に似合わない仏頂面でそう問いかけてきた。

 天花──いや、奈落が俺のもとを訪れてから、一月程経とうとしていた頃だったか。今となっては不思議な程音沙汰がなくなった俺の日常に入り込んできたのは、鞆音ともねと名乗る性別不詳の麗人であった。

 聞けば、鞆音はかつて奈落の下僕を自称していたらしい。彼女と共に俺の住み処を捜していたとのことだったが、奈落の訪問とほぼ同時期に主が失踪したという。


「ご主人様は、作り物のような美しさを有したお方でございました。誰にもなびかず、いつも冷静沈着で……。他人になど一欠片の興味もないと言いたげなご主人様が最初から最後まで執心したのは、貴殿だけかと思います」


 奈落とは異なり、鞆音は俺の出した茶や菓子に直ぐ様手を伸ばした。そして、不機嫌そうな顔をしながら語る。

 鞆音いわく、奈落は無二の恩人らしい。見世物小屋にいたという鞆音を買い取り、情報収集という役目を与えて側に置いた。温かな食事や屋根のある家、そして名前を与えてくださったのだと、鞆音は誇らしげな顔をして言った。


──あの天花が、人を養うような真似をしていたとは。


 鞆音の語り口に嘘はなさそうだったため、俺は素直に感心してしまった。あいつは、どちらかと言えば世話をされる方が板についている印象があったから。

 この七年間、天花は何を思いながら過ごしたのだろう。今更ながら、俺はかつて共に過ごした少女のことを思った。


「……しかし、ご主人様をおとしいれ、苦しめたお方が、こうまで呑気に暮らしていらっしゃるとは。てっきりもう死んでいらっしゃると思っていましたので、意外も意外にございます。ご主人様がお許しになったのならわたしに口出しする権利はございませんが、その辺りはどう思っていらっしゃるのです? 神母坂常若様」


 茶請けに出した草餅を飲み込んでから、鞆音はじっとりと俺を見る。

 鞆音の言う通り、俺は奈落に生きることを止められなかった。去り際に彼女が刺したのはどうやら針の先に塗られた少量の眠り薬だったようで、後日医者にかかっても特にこれといった異常は見受けられなかった。俺が悪夢を見ていると言ったから気を利かせたのか、それとも逃走を確実なものにするためだったのか……。今となっては、憶測を巡らせることしか出来ない。

 奈落は、俺を恨んではいなかったのだろうか。あれほどの仕打ちを受けて尚、彼女は俺を許すというのだろうか。


「──もし、神母坂常若様?」

「……っ、すまない」


 ぼんやりと物思いにふけっていたところ、鞆音から白眼視された。甘い微笑みのひとつでも浮かべようものなら、様になるだろうに──と、これは野暮だろうか。口には出さないでおこう。


「……恐らく、奈落は最初から俺を殺す気などなかったのだろう。気付いたのは、彼女が去ってからだったが」


 少しでも解釈が違えば殴りかかってきそうな程の威圧感をかもし出す鞆音を見つめながら、俺は奈落の姿を想起する。

 喜怒哀楽をあらわにすることもなく、抑揚のない平坦な声で淡々と俺に話しかけていた奈落。過酷な生活から感情を失ってしまったのだろうか──とも思わない訳ではなかったが、きっと奈落の根本的な部分は変わらないのだと思う。だって、そうでなければ過去とまったく同じ響きで俺のことを若君、と呼びはしないだろう?

 天花は死んだ、と奈落は言った。しかし、実際のところ彼女は成長しただけなのだと、そう俺は考えている。その成長の過程において、天花が奈落になっただけなのだ。


「かつての奈落は、あまりにも世間知らずだった。世間の闇を知ったからか、そのやり方は少しほの暗くもあったが……。誰よりも俺のことを見ていた彼女のことだ。きっと、俺のもとに顔を出して、一度その様子を見ておきたかったのだろうさ」

「あら、あら、うふふ。それはのろけにございますか? のろけにございますね? ご主人様に置いてゆかれたわたしの前で、よくもそのようなことがおっしゃえますこと」

「お前を煽るつもりはない。第一、俺とお前では関係性が違いすぎる。対応に差が出るのも致し方ないことだと思うが」

「うふふ、やっぱりわたし、あなたのことは好きになれる気が致しません。もう、ご主人様は誰のものでもないはずなのに……いつまでも保護者面をして。気に食いません、本当に」


 鞆音はそう言って、口をへの字にした。成熟した外身に、内面が追い付いていない。意外と幼い人なのだろうか。

 何はともあれ、奈落は姿をくらませた。下僕を自称する程に忠誠を誓っていた鞆音すらも置いて、たった一人で何処かへ行ってしまった。

 寂しい、と思う。少なくとも俺は、奈落が側にいないということに寂しさを感じている。

 かつての天花は、独り寂しく死ぬことは嫌だと口にしていた。どれほど美しい場所であっても、ひとりぼっちで死ぬのは寂しいと。誰かに寄り添っていて欲しいと、その頑是がんぜない眼差しは訴えていた。

 今の彼女は、どう思っているのだろう。ひとりぼっちにも慣れてしまったのか、あるいは寂しさを埋めてくれる相手を見付けたのか。後者だったのなら、少し──いや、かなり複雑な気分になる。


「……結局のところ、ご主人様に対するわたしの──いいえ、執着は、一方通行でしかなかったのだと思います」


 ぽつり。

 鞆音が静かに告げる。睫毛まつげをけぶらせながら、物悲しげに笑う。

 嗚呼、この者も俺と同じだ。鞆音も、奈落を支えているつもりで、彼女にすがっていたのだ。


「きっとご主人様の見る世界とわたしの見る世界は違っていたのでしょうね。わたし、最初はご主人様があなたを殺したい、報復したいと思っているのだと、そう考えていて……。しかしながら、ご主人様はあなたを生かした。あなたに非道いことをされたというのに、同じ目に遭わせようとしなかった。……憎いという単純な感情だけでは、動いていなかったのやもしれませんね」

「……ああ、そうかもしれないな。あいつから憎悪を感じることはなかった。ずっと、ずっと無表情で──その本心を探ることそのものが、浅ましく恥ずべきことのように思えて仕方がなかったよ」

「ご主人様は、一体何を考えていらしたのでしょう。その複雑なご心境も知りたかったのに、半ば強制的にわたしを独り立ちさせるのですから」


 まあ今更嘆いても仕方ありませんが、と鞆音は諦めたように苦笑する。

 本当に、奈落は何を思い、俺を捜し求めたのだろう。俺を気遣う優しさを持っていながら、あいつは数多の人を冥土に送っているのだ。優しいんだか冷酷なんだか、俺には到底わからない。

 一方では俺を慰め、鞆音を養い、もう一方では他人を容赦なく抹殺する。恵みも渇きも与え、陰陽のどちらにも当てはめられる、二面性を秘めた存在。


「……本当に、名前通りの女だな、まったく」


 気付けば、俺はそううそぶいていた。

 鞆音はうふふ、と密やかに笑いながら、違いありませんね、とうなずく。

 天花。天上界の花。

 奈落。毒を持ち、地獄花とすら形容される花。

 どちらでもあったのだろう、彼女は。時と場合によって、その役割を切り替えて、様々な環境を渡り歩く存在だった。隣で咲いてくれと願う者がいたから、彼女はそれに合わせていたのだろう。

 ならば、ずっと──環境を超えて共にいられる者など、そうそういまい。あいつはのだから。寄り添える者は、この世にごまんといるのだ。

 俺たちが求めていた唯一の席など、何処にもなかった。俺たちはただ、それぞれに適した席を見付けて座れば良かっただけだった。


「……お茶とお菓子、ごちそうさまでございました。ご主人様との関係性をのろけてくる点は本当に苛立たしい限りでございますが、あなたとお会い出来たことは幸いであったと思います」


 丁寧に礼をしてから、鞆音は立ち上がる。これ以上話すつもりはないらしい。

 見送るべきか。そう思い俺は後を追おうとしたが、鞆音は直ぐ様「お見送りは結構でございます」と告げた。そして、俺に背を向けたまま立ち止まる。


「……神母坂常若様」

「なんだ」


 呼び掛けられたため、相槌を打つ。言葉を交わしておくべきだと思った。

 鞆音は俺の方を見ることなく、先程よりも迷うような──何処か頼りなさげな声で問うた。


「……あなたは、これからどのように暮らすおつもりでございますか。ご主人様のことを、追いかけられますか」

「いや、たとえ追いかけたとしても、常にあいつは俺の先を行くだろう。それゆえに、今まで通り商人として働くつもりだ。俺にはこの方が身に合っているし──それに、いつかあいつがふらっと立ち寄るかもしれないからな。無理をして追いかけるよりは、己が身に合った立場でゆるりと待つさ」

「……うふふ、同感です。わたしも、そう思っておりました」


 それではごきげんよう、と告げてから、今度こそ鞆音は去っていった。

 あいつもまた、己に見合った立ち位置を模索するのだろう。もしかしたら、既に見付けているかもしれない。

 嗚呼、そうだ。好きに歩めば良かったのだ。

 ずっと横を歩かせて、天花には無理をさせた。あいつにはあいつなりの歩幅があったというのに、無理に並走させてしまった。

 天上界でも地獄でもなく。真に自由になった彼女が歩むのは、果たして如何なる道だろうか。


「──望むように咲けると良いな、天花」


 もう此処に、かつて恋した純粋な少女はいない。能面のような顔をした、玲瓏れいろうな女も同様に。

 好きに咲き、好きに枯れれば良いのだ。それこそが、花のあるべき姿なのだから。

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