ぽっきんあいす

常磐灰 楸

ぽっきんあいす

 「ね、輪藤と雨音って、付き合ってるの?」

 まだ暑さの残る九月の終わり、半開きの窓から流れ込む生ぬるい風を背に受けながら、箒片手に談笑していた私は、思考の裏面を突くような、思いもしない質問に思わず素っ頓狂な声で返した。

 「へ!? 」

 ひっくり返った間抜けなセリフが放課後の教室にこだまする。

 「お、その反応はもしや…?」

 夏希がにやにやと顔を寄せてくる。

 「えっと…輪藤って、怜太のこと?」

 どれだけ考えても私の知り合いには、輪藤という名字を持つ人なんて怜太しかいないはずだ。

 「あったりまえじゃーん!いまさらとぼけるの?」

 「い、いやとぼけるなんて…。」

 あまりにも自信満々の回答につい言葉を濁してしまう。

 「で、どうなの? つきあってるよね?」

 ぐいぐいと詰め寄ってくる夏希に押されてつい目をそらしてしまう。

 「いやだって…。」

 夏希の箒が動きを止める。

 「まーた幼馴染?どんな仲いい幼馴染だって、保育園から小中高と一緒で、しかも毎日一緒に帰ってるけど付き合ってない、なんてどう考えても異常だって!」

 不満げに夏希はまくしたてる。

 「えー。」

 私の回答が気に食わないのだろう、夏希は不満顔で口を尖らせる。

 「いくら幼馴染とはいえ、異性なんだよ?男子と女子!そーんな毎日一緒にいて、なんっにも思わないわけ?」

 夏希の、珍しくまじめなトーンのセリフに、一瞬、言葉に詰まる。

 「っだから!怜太とは何にもないの、幼馴染!ほら、いい加減に掃除しよ、掃除!」

 「えー。」

 ぼやきながらも箒を動かし始める夏希。

 掃除も終わりかけ、机を戻す頃。

 「おーい雨音、かえろーぜー。」

 少し低い、背の高い声が三人だけの教室に響いた。

 私は振り返って、いつも通りの返事をする。

 「あっ、怜太。すぐ終わるから玄関行ってていいよー。」

 

 タン、タン、タン、タン。

 他より狭く薄暗い階段に、普段は気にならないはずの靴音が高らかに響く。

 階段を下りるごとに一つに括った髪がふよふよ揺れる感覚が面白い。

 ひゅうっという音に思わず振り返ると、涼しい風が乱雑に交差して、青っぽい光の差す踊り場に涼しいままでうごめいているのを肌で感じた。

 (どうしてこんなに音がよく響くんだろう。)

 階段では声を出すのに少し躊躇してしまう。

 でも、この雰囲気が私は好きだ。

 タン、タン、タン、タン。

 「よっ!」

 踊り場を曲がってくだろうとした所に、怜太はいた。

 「あれ、先行ってていいよって言わなかったっけ?」

 怜太はうんざりしたような顔をする。

 「人多いし暑ちーし長くいたくはねえんだよ、あそこ。」

 よく見てみると、ワイシャツのボタンを二つも開けたうえに、額には汗の跡が線になって残っている。

 「あー、確かに暑いもんね。」

 怜太の性格では、あんな人の多い場所、一秒だっていたくはないだろう。

 「それに、お前ここ通るだろ?」

 教室から玄関に行くには少し遠回りの階段。だけど私はいつも、この階段を通って帰っている。

 自然光と、冷房装置なんてないのに涼しい風の吹く、この階段が私は好きだ。

 「ふふ、よくご存じで。」

 横に並んで下の階へと歩みを進める。 

 「いつものことだろ、それに付き合いは無駄に長いしな。」

 「ははっ、そーだねー。」

 いつも通りのくだらない雑談に、思わず口角が上がる。

 (やっぱり、この感じだ。)

 この距離、この空気、心地いい、この感じ。

 「な、帰りにアイス食ってこーぜ。」

 「いーよー、怜太の奢りね。」

 「はぁ? …ったく、しゃーねーな。」

 軽口のテンポが、しっくりくる。

 気楽で、落ち着く。

 「………。」

 「ん?どうした?」

 口をつぐんだ私に、不思議そうな顔をする怜太。

 「いや、怜太は大切な友達だなーって。」

 ふとこぼれた言葉に怜太が怪訝な顔をする。

 「どうしたんだ、急に。…何言われたって、高いアイスなんて奢らねーよ?」

 呆れ返ったような声に思わず笑い声が零れてしまう。

 「えー、けちー。言って損したー。」

 「浅はかなんだよ、ばーか。」

 怜太の声にも、軽い笑いが混じっている。

 タンタンと二人分の足音が響いていく階段。

 誰といるよりも落ち着く時間。

 「あ、玄関今人少なそうだよー!」

 広い玄関には、数人の生徒がいるだけで閑散としている。

 傾いた日が差し込んで、辺りは暖色に染まっている。

 「人が少ないのはいいけど、やっぱ暑っちーな。」

 コツコツとつま先を地面でたたいて玄関を出ると、むわっとした熱風に押し戻されそうになる。

 いまだ煩い蝉の声と、ぎらぎらと照り付ける日差し。

 ………景色が揺れて見える。

 (…なんていうんだっけ、こういうの。)

 逃げ水だったか、陽炎だったか。確かそんな感じだった気がする。

 「うわ、やっば。」

 怜太も思わず声を漏らしている。

 「………。」

 日光が痛い。外に出たばかりなのに、もう髪が焼けるように熱くなっている。

 (………スッ。)

 「お、どうしたん…っておい!」

 スッ、サッ。

 「おぃっ!お前…。」

 「…動かないで。」

 「は?…ってお前もしかして!」

 怜太が声を荒げる。

 身をよじる怜太の動きを追って私もピッタリと同じ動きを繰り替えす。

 「俺のこと日避けにすんなアホ!」

 「あ、ばれた?」

 「ったりまえだろ、アイスおごんねーぞ!」

 ぺしっ、と。

 いらだったように怜太が頭を小突いてくる。

 「えー、それは困る。」

 「だろ?ほらさっさと行くぞ。」

 「むぅ…ちぇー。」

 「ほら早く、焼け死にてーの?」

 「うわっ、それも困る!走れ!」

 「ったく…。」

 

 学校と家は歩いて十五分くらいの距離にある。

 怜太と家は隣同士。怜太のほうが二十歩弱だけ、学校から遠い。

 そしてその十五分の道から少しそれると、小さな駄菓子屋さんがある。

 最近はあまり見かけなくなってきたような、壁にスーパーボールくじの台紙が貼ってあったり、大きなプラスチック容器の中に真っ赤な酢イカが入っていたり、棚には十円の当たり付きガムが並んでいたりする、駄菓子屋然とした駄菓子屋さんだ。

 焦げ茶色の木の外装には、うっすらと緑色の苔が生えて、何時でもしっとり湿っている。

 店の中には日焼けして黄ばんでしまった、年季の入った扇風機一台しかないのに、なぜだか夏でも涼しい。

 「おじーさん、アイスいっぽーん。」

 怜太が店の奥のほうへと声を張ると、少し掠れた、穏やかな声と共に優しげな笑顔をたたえたおじいさんが出てくる。 

 「まいど。何味だい?」

 「りーんーごー!」

 私は怜太よりも一歩遅れて、そんな大声とともに店へと駆け寄っていく。

 「ふぁー、涼しー。」

 簾の間から店内へと入ったとたん、ピニール紐のくくられた扇風機が風を当ててくる。

 「はは、雨音ちゃん、いらっしゃい。」

 「こんにちはー!」

 この駄菓子屋には、もう十年もお世話になっているだろう。

 小学校三年生のころだろうか、十円玉を握りしめて怜太と怯えながらも二人できたのが初めてだっただろうか。

 「てことでリンゴ味ください!」

 おじーさんはは、と笑いながら、

 「今日は怜太くんの奢りかい?」

 と聞いた。

 「うん、そーなの!」

 そう答えるとおじーさんは目を細めて、

 「いつも仲が良いねぇ。」

 と頬を緩めた。

 「ただの腐れ縁ですよー!」

 「はは、そうかね。」

 私とおじーさんが話している間に、怜太は財布から百円玉を一枚、取り出して、会計を済ませていた。

 「はい、どうぞ。」

 といって、おじーさんは一本の黄色いポッキンアイスをそのまま手渡してくれた。

 「ありがとー、また来るねー!」

 いつものあいさつにも、おじーさんは皺の寄った顔にさらに皺を寄せて、嬉しそうに

 「まいどありー。」

 と言ってくれた。

 簾の間から外へ出ると、照り付ける日差しに当てられる。

 右手に握ったアイスが気持ちいい。

 「はい!」

 「ん、」

 怜太にアイスを渡すと、短く返事をして受け取ってくれる。

 今ではもう見慣れてしまった、こともなげな手つきでアイスを二つに折る様子は、蝉や祭りなんかよりもずっと、私にとっては夏らしい風景だ。

 「ほい。」

 「ありがとー。」

 手渡された半分のアイスはこの暑さで少しだけ柔らかくなっている。

 ベンチにつく前に、プラ容器から溢れそうになっている黄色い雫をぺろりと舐めた。

 「んーーー、甘っ!」

 思わず感嘆符がこぼれる。

 「ほら、さっさと座ろーぜ。」

 アイスの片一方を持った怜太が手招きしてくる。

 おじーさんの駄菓子屋さんの裏には、店内が狭くて日の当たる外でしか友達とお菓子を食べれないのはかわいそうだと言っておじーさん自ら設置してくれた、薄い板で作られた小さな屋根のかかったベンチスペースがある。

 ベンチ一基分の日陰スペースの下には、駄菓子屋の外壁と同じように、焦げ茶色の、ところどころ苔の生えたベンチが据えられている。

 怜太のいるほうへ駆け寄って、ベンチへとゆっくり腰掛けた。

 「ふぁぁぁぁーーー。」

 涼しい日陰と落ち着く居場所に、思わず脱力してしまう。

 背もたれに全体重を預け、空を仰いだ。

 半透明に波打つ屋根から透ける空は、どこまでも青くて、なぜだかくしゃみが出そうになった。

 熱いのは嫌いだけどここで浴びる日差しは嫌いじゃない。

 「おい、溶けるぞ。」

 「ん、嫌だー。」

 むっくりと体を起こすと、少し溶けたアイスが容器からこぼれる寸前だった。

 「わっ、あっぶな…。」

 アイスをそのまま口に突っ込むと、リンゴ風味の鼻を抜けるすっきりとした香りと濃い甘さと共に、口の中の熱が一気に奪われる。

 「んんーーーーっ。」

 心地よい冷たさとあまさに、暑さにやられていた体が一気に目を覚ます。

 「おぉー、蘇った?」

 「よみがえったーー!」

 思わず叫んでしまうほどに、炎天下でのアイスは悪魔的だ。

 シャリっという音が涼風を運んでくる。

 「はは、変わんねーな。」

 「お互い様でしょ。」 

 怜太のアイスを見ると、強く噛み過ぎて容器の上のほうがくたくたになっている。

 これは、怜太の昔からの癖だ。

 ガジガジ、と口の中でアイスを溶かしてゆく。

 きらきらと日光を受けて黄金に輝くアイスは、まるで宝石のようだ。

 ふぅ、と一息ついて、ぼんやりと怜太のほうを見た。

 (改めてみてみると、やっぱり、男の子なんだなぁ。)

 薄いワイシャツから伸びる小麦色に焼けた長い手足には、筋肉が浮いて見える。

 骨ばった関節、短くカットされた黒髪、昔よりもがっしりとした肩に頭一つ分高い身長。

 数年前では見られなかっただろう、「男の子」な部分は、いつの間に…と言いたくなるくらいに長い間、意識にすら上ってこなかった。

 (夏希があんな話したからかな…。)

 いつも通りに話せなくなりそうで、それがどうしようもなく怖くって、勢い良く頭を振った。

 やり過ぎてしまって頭がふらふらしたが、ちょうどよく目的は果たせただろう。

 (うーーー。)

 冷たいアイスの温度差と水分不足気味で振り回した頭のせいだろう、数分経ってもふわふわする。

 景色が大きくなったり小さくなったりする感覚に酔いそうだ。

 「なぁ、雨音。」

 怜太の声すらもぼわんぼわんして聞こえる。

 「ふぇー、…なにー?」

 背もたれに体を預けたまま、怜太の呼びかけに応える。

 いつもより、少しだけ低いトーンの真面目な声。眼だけを動かして怜太のほうを窺ってみたが、微妙に反対を向いているようで表情は計り知れない。

 ただ、私の気の抜けた返事は、どうやら不本意だったらしい。そんな感じが、する。

 「…………。」

 いつもとは違う、ざらつくような短い沈黙。

 「え、どし…」

 体を起こしかけた瞬間。

 「あのさ。」

 背もたれと背中が離れかけた状態で、いつもよりご気の強い、怜太の声が頭に響いた。

 「俺、お前のこと、好きなんだけど。」

 「へー…え?」

 怜太の声が神経に届く前に、声が出た気がする。

 変におなかに力が入った、不安定な体制からの声だったせいで、ひっくり返っているのにやたらと響いてしまった。

 「ごめん、えっと…なんだっけ?」

 日本語が一つすらも入ってこなかった気がする。

 怜太は信じられないというような顔をした。

 「いや、おまえ、あほ?」

 「へ?」

 何も呑み込めずに声だけ返してしまう。

 「っクッソ…。」

 頭をガシガシと掻き毟ると、怜太は赤い顔でこっちへと向き直ってくる。

 「…俺は、雨音のことが好きだ。」

 いつになく真剣な顔に気圧されてしまう。

 「えっと…幼馴染として…?」

 慣れない空気に、怜太の声に、つい目を逸らしてしまう。

 「違う、こっち向け。」

 肩を掴まれ、怜太のほうを向かせられる。

 すごく真剣な瞳。

 怜太の両手がとても大きくて、力が強くて。触れてしまった「男の子」の部分に妙に緊張してしまう。

 これくらいのコミュニケーションは、今までだって普通にあったはずなのに。

 「れっ…」

 「俺は、お前のこと女子として好きだ、異性として人として、愛おしく思ってんの。」

 「いとっ!?」

 あまりにも耳慣れないフレーズに思わず反応してしまう。

 「付き合いたいし、触れたいし、お前のこと超好きだ。幼馴染じゃなく、恋人になりたい。俺と、付き合って。」

 話しながら、怜太の両手が私の肩から離れていってしまう。

 消えていく温度に、心がざわつく。

 「…………。」 

 「あの、返事…ほしいんだけど。」

 (…………。)

 …何も、言えない。

 今まで何にも考えてなくて、あまりにも突飛すぎて。

 今は驚きしかないけれど、軽い気持ちで返事なんてできない。

 しちゃいけないとおもった。

 「っと…わたし……っ。」

 なんていえばいいのかわかんない。

 震える唇に、自分でも戸惑ってしまう。

 「ごめん…、少しでいいから、時間が…ほしい。」

 「そっか…はは、ごめんな。」

 私は終始俯いていた。

 炎天の下、吹いてくる風が妙に冷たい。

 乾いた声で笑う怜太の顔を、私は見ることができなかった。


(結局あの後一言も話せず帰ってきちゃった…。)

重すぎる心を抱えて一人、ベッドへと倒れこむ。

 「ゔぁぁぁー…はぁ…。」

 おたけびとも断末魔ともとれるようなため息が、どっと溢れた。

 もどかしいというのとはなんか違うけど、なんだか体の中で大きな石がごろごろとぶつかり合っているような感覚。

 「狼と七匹の子ヤギ」の狼はこんな感覚を味わっていたのかもしれないな、なんて。

 どうしようもなく名前の付けられない感情に脳が思考を止めてしまいそうだ。

 (…「好き」かぁ………。)

 その二文字を、そういう意味で。

 誰かからぶつけられたのは初めてだ。

 「しかも怜太だもんなぁ…。」

 あまりにも非現実的すぎて、何度口に出してみても実感が持てない。

 白昼夢でも見ていたんじゃないかとさえ思ってしまう。

 耳から入ってきたその二音は、心に落ち着けずふわふわと彷徨っているようだ。

 答えを出す、というところまで頭が回らない。

 幼稚園からずうっと一緒で、家も近くて。幼馴染、友達、なんて言葉を使うよりは家族というほうがしっくりくるような、そういう関係だと勝手に思っていたけど…。

 いつも一緒に帰る道程も、たまにどちらかの家に呼ばれあう夕食も、暇だと言って家に上がり込んで興じるゲームも、怜太は私とは違う感情を持って過ごしてきたのだろうか。

 (そう考えると…。)

 「寂しい…な。」

 好きって、なんだろう。

 今までみたいに友達として、遊んだり話したりするんじゃだめなのかな。

 返事をすることでどちらにしろ、気まずくなっちゃうのが一番いやだけどそれは、あんまりにも我儘が過ぎる気がする。

 怜太のことは、好きだ。

 一緒にいて楽しいし、落ち着くし。気の置けない関係なんて、本当の意味では怜太くらいしかいない気がする。

 それくらいに、私にとって怜太は大切だ。

 でも知ってる。

 それが恋慕ではなく、親愛であることを。

 だからこそ、こんなにもつらいんだ。

 怜太の気持ちに応えられないことが。

 怜太のことを、どんな形であれど拒否してしまうことが。

 それなのに、こんなにも苦しいのに。

 私は怜太の気持ちに、応じることができないって、なんとなく気付いている。

 ぼんやりとした感覚を信じることができてしまうくらいに、私達の付き合いは長かったから。

 帰り道の怜太は、いつもと違う雰囲気で、なんだか少しだけ怖くって。

 座りの悪い、いやな感じ。

 私の大好きな、あの感じが恋しい。

 前までみたいに、前まで通りに。

 大切な幼馴染として付き合っていくことってできないのかな、なんて。

 現実逃避してしまいそうになるけれど、それはきっとあまりにも。

 あまりにも…我儘が過ぎるんだろうな。

 こんな風に思うことはきっと、怜太に対してとても、失礼なんだろう。

 私の知らない感情を、怜太はきっと知っているのだから。

 (怜太、今何してるんだろう…。)

 ふと、気になってしまって。

 十メートルも幅のない、外気越しに隣同士の怜太の部屋。

 いつもならカーテンの細い隙間から、何かしているのがうかがえてしまうほど近い距離。

 いつもならそんなことしないのに、足を忍ばせて窓に近づいてしまう私がいる。

 気づかれないように、音をたてないように、

 そっとカーテンをずらして外を覗いてみる。

 まだ十時だというのに、いつもは時計の針がてっぺんを回っても明るいままの怜太の部屋からは一筋の光も、人の気配さえも感じられなかった。

 「寝てるのかな…。」

 どこまでもいつもと違う、イレギュラーなこの状況がどうしても心許なくて、ベッドへと潜り込んで布団を抱き寄せてみた。

 いつもなら落ち着くこの動作でさえも、今の私の頭を冷やすことはできなかった。

 怜太は今、何を考え、どうしているのだろう。

 明日が来てしまうのが、どうしても怖くって。いつまでも今が続けばいいなんて叶いもしない妄想に縋り付いてしまう。

 だけど、受け入れることができないとわかっているのに返事をずるずる伸ばすなんて馬鹿らしいことでは、何の解決にもならないのだろう。

 私がぐずぐずと決心をつけられないでいるということはつまり、怜太を傷つけることに他ならないのだから。

 答えの出ない問題と、答えの出せない弱い自分が情けなくなって、私は意味もなく手足をばたつかせつづけた。

 ぼふんぼふんと埃が舞って、ベッドサイドのぬいぐるみが、冷たい床へコテンと落ちた。

 夜はいつだって、瞬く間に去っていってしまうのだ。


 「天音!学校遅刻するわよ!」

 ………寝てしまった。

 結局、決断することすらできずに寝てしまった。

 (どうしよう…。)

 外から聞こえる雀の鳴き声がやかましい。

 「…あ!急がなきゃ!」

 私はぐちゃぐちゃになった布団から飛び起きて一階への階段を駆け下りた。

 「もう!怜太君待ってるんでしょ?さっさと行きなさい!」

 お母さんの小言を尻目に、手早く髪を括り、テーブルに出ていたパンを口に押し込んで家を飛び出る。

 (あー、怜太待ってるよね…。)

 全力で地面を蹴る。

 この曲がり角の先に、いつも怜太が待ってくれている自販機がある。

 眠い目をこすって、缶コーヒー片手に。

 それがいつもの、当たり前にある風景だったし、今日も同じように一日が始まると思っていた。まさかそれがなくなるなんて、考えたこともなかった。

 全力ダッシュで角を曲がって。

 「怜太!ごめ………っ。」

 と、いつもならそこにいるであろう幼馴染へと声をかけようと目をやる。

 開けた視界の先に、いつもの景色なんてありはしなかった。

 「あ、あれ…。」

 あ、あぁ。そうだった。

 いないよな。そりゃあ。

 あんなことあったし。私もこんなんだし。

 「ま、まぁそうだよね!はは、知ってた!そりゃそーだ!」

 妙に自分の声が響いて聞こえる。

 そりゃあいないだろう。むしろ失念していた私が可笑しいんだ。

 「あ、あはは、ははは、ははっ。………はは。」

 なぜだか笑いが止まらない。心がざわざわする。

 自分の声が自分の声じゃないみたいだ。

 ひとしきり笑って、笑い続けて、止められなくて。

 頬を伝うぬるい感覚に、思わず蹲ってしまった。

 「う、うぅ。うぅぅ…。」

 なんでこんなに悲しいのか、苦しいのか。

 私にだってわからない。

 ただ、大切にしていたものがガラガラと崩れていく音がした。

 体調崩したとか、寝坊したとか。

 こんなこと、今まで何回だってあったはずなのに、今日だけは。

 とても重く感じてしまって、私ってバカだな。

 涙が溢れて、止まってくれなくて。

 頭の中がぐちゃぐちゃで、考えたりできなくて。

 冷静に、なんて夢のまた夢だった。

 もう戻れないのかな。

 思考を止めた脳内は、昨日の夜から幾度も幾度も繰り返していたその一つの言葉だけで埋め尽くされた。

 私が怜太のこと拒否したら、ずっとこのまんまなのかな。

 受け入れたって、戻れないよな。

 私がなんて言おうと、どれだけ願おうと、関係は変わってしまうのだ。

 否、もう変わってしまったんだろう。

 100メートルと歩いていない、一人ぼっちの通学路はやけに寂しくて、がらんとしていて。

 恋か友情か、なんて語りつくされて擦り切れたような問いに、ここまで悩まされることになるなんて思ったこともなかった。

 押し殺しても溢れる嗚咽に押し戻されるように、私は家に帰った。

 今の状態で誰かに会うことなんてできる気がしなかった。

 


 

 遠くでギャアギャアと、鴉が鳴いているのが聞こえる。

 暗い部屋に、傾いて怪しい色をした陽光が差し込んで。

 ダークオレンジに染まった部屋に一人、私は蹲っていた。

 一日、泣いていた気がする。

 いや、一日寝ていたんじゃないかとも思う。

 家に帰ってきてから今までの記憶がすっぽりと抜け落ちてしまったようで。

 どうしようもない喪失感が、狂おしいほどに憎らしくて。

 思考力が逃げて行ってしまった。

 私が悪いんだ。

 大切な人にもらった好きを返すことのできない冷たい私が。

 そのくせ現実から逃げて、ひどく失礼な態度をとっている私が。

 答えの出せない臆病で我儘な私が。

 一度だけ、お母さんが心配して様子を見に来てくれたっけ。

 こんなとこ見られたくなくて、つい、荒い言葉が出てきてしまって。

 それ以降、声をかけられることはなかった。

 私、最低だ。

 帰ってきてから、部屋に籠って、何もしていない。

 何時間も、何時間も、涙が止まらなくて困っているのに、どうしようもできなくて。

 涙が枯れるなんてないんだと知った。

 あんな言葉、嘘っぱちだ。

 私も干上がって、何もでなくなってしまえばいいのに。

 何も飲んでいないのに、どこから涙が出てくるんだろう。

 私の何かが、溶けだしていってしまっているんだろうか。

 そのまま溶けて消えてしまいたい。

 「う、うぅ…。」

 ヴー、ヴー。

 (………………。)

 ヴー、ヴー。

 (電話だ…。)

 今は、誰とも話したくないな…なんて思って。

 出る気なんて一切ないのに、チラ…とつい画面を窺ってしまった。

 【 輪藤 怜太 】

 ………え?

 怜太だ。

 …………。

 わからない。

 どうして、どうして、どうして。

 どうしよう。

 返事を出す勇気が、出せてない。

 なんて言おうか、決められていない。

 なんて言えばいいのかも、わからない。

 (出れないよ………。)

 怜太からの電話に出る勇気も、覚悟も、資格も。

 私にはないよ。

 ヴー、ヴー。

 (ごめんね。)

 私、どんどん不実になっていくな。

 こんなはずじゃなかったのに。

 ヴー、ヴー。

 ヴー、ヴー。

 ヴー、ヴー。

 (長いな…。)

 何かあるのだろうか。

 だけど…。

 (話せないし…聞きたくない。) 

 もう一度、頭から深く布団を被った。

 ヴー、ヴー。

 ヴー、ヴー。

 ヴー、ヴー。

 ヴー、ヴー。

 ヴー、ヴー。

 ヴー、ヴー。

 ヴー、ヴー。

 ヴー、ヴー。

 ヴー、ヴー。

 ヴー、ヴー。

 (うるさい。)

 頭は動かさず、スマホをとって電話を切ろうと画面へと指を滑らせた。

 …………。

 (はぁ。)

 まただ、私。

 やっぱり最低だな、私。

 『もしもし?』

 スマホから聞きなれた声が聞こえる。

 「えっ?」

 画面を見ると、通話状態になっている。

 間違えて応答ボタンを押してしまったことに気づくのに、十秒以上かかった。

 (………どうしよう。)

 『おい…つながってる?』

 いつもと大して変わらない、明るい声。

 でもその裏にいつもと違う響きがあることを、わけもなく感じ取ってしまう。

 (あぁ…。)

 もう戻れないんだな、なんて改めて実感してしまって、苦しい。

 「…つながってるよ。どうしたの。」

 自分でも驚くくらいに、普通に声が出た。

 『いや…さ、お前今日休んだだろ?学校。』

 「………うん。」

 『昨日のこと、気にしてんのかなーって。』

 「……………。」

 『いやさ、ごめんな。気にさせて。』

 さっき感じた違う響きがどんどん大きくなっていって、それが空元気なんだと気づいた。

 『そんなさ、気にしないでいいし。ってか嫌だったなら忘れてくれて…いーからさ。』

 末尾は、消え入りそうになっていた、怜太の声。

 私は、何も言えない。

 でも、その、怜太のつらそうな声の響きを感じて。

 (嘘だ。)

 と、感じた。

 気にしないでいいなんて思ってないじゃん。

 忘れていいなんて、思ってないじゃん。

 なんでそんなこと言うんだよ…。

 『っだから!普通にしてくれていーからさ。』

 怜太の、泣きそうな、笑うような声が苦しくて。

 何も言えなくて、少し、黙ってしまって。

 怜太の言葉が頭の中で何度も響いて。

 空元気のその声に込められているのは、気遣いなんだと気づいた。

 (あぁ、そっか。)

 私がつらいの、気づいて、考えて、ほんとはそんなこと思ってもないのに、「忘れていい」なんて。

 (あぁ、本当に。)

 優しいな…。

 小さい時から何度も何度も、怜太のその優しさに助けられてきた。

 すごく大切だから。

 だから、気を使わせてしまうことが、すごく苦しい。

 悪いのは、私なのに。

 (……………こんなんじゃ、だめだ。)

 私も、ちゃんとしなきゃ、だめだ。

 言わなきゃいけないことがある。

 誠実にしてくれた怜太に、私も、誠実にしなきゃいけないんだ。

 私の気持ち、話さなきゃいけないんだ。

 思ったこと、まっすぐ言おう。

 取り繕っちゃだめだ、カッコつけちゃだめだ。

 怖いけど、辛いけど、苦しいけど。

 怜太だって同じはずだから。

 いつまでも変わらないでいるのは無理でも、私は。

 大切な怜太と、これからも一緒にいたい。

 もう話せなくなっちゃうのも、全部だめになっちゃうのも嫌だ。

 だから。

 私の気持ちを話すんだ。

 ちゃんと、怜太みたいに、まっすぐに向き合って。

 私はもう、逃げない。

 『………天音?』

 心配そうな声が聞こえる。

 心の底から、心配してるのが声でわかる。

 (あぁ、やっぱり…。)

 「ありがと、大丈夫だよ。」

 『…………。』

 怜太の、黙り込む空気に感じるのはきっと迷いだ。

 (ごめんね。)

 今度は私が、ちゃんとするから。

 「あのね、怜太。」

 『…………。』

 薄くあいた窓から、ぬるい風が吹き込んでくるのを感じた。

 もう空は紺青に染まって、星が瞬いている。

 「明日さ、」

 『…………。』

 「…アイス食べて、帰らない?」

 画面越しに空気が変わるのを感じた。

 

 言わなきゃいけない、ことがあります。

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ぽっきんあいす 常磐灰 楸 @hisagi_tokiwai

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