いやはての大図書館
しの
序
時の忘れ物亭の扉を開くと、橙色の光に包まれた。緩やかに流れてくる音楽と温かな空気。そして、マスターの「おかえり」の言葉。
アルドたちにとって、ここはもう一つの帰る場所と言ってもいいほどに、和やかで安心できる場所になっていた。
慣れた様子で酒を頼み、その場でグイッとあおるサイラスを横目に、エイミが「いいわよね」と呟く。
「いいって、何がだ?」アルドが尋ねると、エイミはカウンターに腰掛けて頬杖をつきながら答えた。
「ほら、大人って仕事終わりの一杯を楽しむでしょ。サイラスもいつも幸せそうに飲んでいるし。あぁいう頑張った自分へのご褒美みたいなものってそうそうないじゃない?」
「あぁ…言われてみればそうかも?」
同意しながらアルドも座る。隣にはちゃっかりフィーネも座っていた。
「エイミもあんな風に酒を飲んでみたいのか?」
重ねて尋ねながらサイラスを見る。既に二杯目のグラスも半分まで減っていた。楽しそうな様子を見ると、確かに羨ましいような気持ちになるのもわかる気がした。
「別にお酒を飲みたいとか、そういうわけじゃないわよ」
エイミは少しだけ唇を尖らせた。その様子を見ていたマスターはおかしそうに笑った。
「それじゃ、そんなエイミに一つ、大人気分を味わえるようなサービスでもしようかな」
そう言うと、マスターはシェイカーを手にとった。棚からいくつかの瓶を選ぶと少しずつ注ぎ、それを手早くシェイクした。シャカシャカと軽快な音が響く。
すっかり目を奪われた三人はマスターの挙動一つ一つをじっと見つめていた。
お洒落なグラスに注がれたオレンジ色の飲み物がエイミの目の前にスッと出される。
「さぁ、どうぞ。こちらはシンデレラというカクテルだよ」
「…えっ!でも私、お酒はちょっと…」
戸惑うエイミを見て、マスターはくすっと笑った。
「大丈夫。これはアルコールが入っていないんだ。お酒が飲めない人や未成年でも安心して飲めるカクテルだよ」
「そうなんだ…」
エイミは僅かに頬を紅潮させながらグラスを見つめた。おずおずと手を伸ばし、少しだけ舐めるように飲む。柑橘の爽やかな香りが鼻腔を抜け、甘酸っぱさが口の中一杯に広がった。
パッと顔を上げたエイミは満面の笑みを浮かべた。
「すごくおいしい!」
「それは良かった」マスターが満足げに頷く。
最初の躊躇いはどこへやら、エイミは一口、二口とシンデレラを飲んでいる。それを見ていたフィーネが「お兄ちゃん!」と言いながらアルドの袖をグイッと引っ張った。
アルドが振り向くと、フィーネがずいっと顔を近づけた。
「どうしたんだよ、フィーネ?」
「私も飲んでみたい!」
「えぇっ?俺に言われても…」
困り顔でマスターを見ると、マスターはまた何かをシェイクしていた。それをエイミに提供したそれとは違う形のグラスに注ぐ。最後にスライスしたオレンジが添えられた。
「はい、お待ちどうさま。こちらはプッシー・キャット」
どうやらフィーネ用だったらしい。フィーネは瞳をキラキラさせてカクテルを見つめている。
「あっ、ありがとうございますっ!」
フィーネは宝物を扱うように恭しく手に取ると、顔を近づけた。シンデレラと似たような色合いのカクテルだった。
「甘くていい匂いがする!」
「飲み口もフルーティで飲みやすいと思うよ」
「いただきます!」フィーネが小さな唇をグラスにつける。こくりと喉が鳴った。
みるみるフィーネの頬が赤くなる。それを目の当たりにしたアルドが慌ててマスターを見た。
「フィーネの顔が赤くなったけど、お酒が入ってたんじゃ…?」
「はは、そこはご心配なく。だけどフィーネは雰囲気で酔っちゃう子かもしれないね」
当の本人は「おいしい」と幸せそうにしている。傍目には酔った時のサイラスに似ていなくもなかった。
エイミもフィーネもすっかり「大人気分」を味わっているのか、心配するアルドのことなど気付いてもいないようだった。
「…まぁ、二人が楽しいならいいか…?」
「アルドはどうする?」マスターに問われ、アルドは再度エイミとフィーネ、それから向こうの方でひっくり返っているサイラスを見た。
「うーん…俺はミルクでいいかな…」
「そう言うと思ったよ」
言うが早いか、目の前にミルクの入ったグラスが提供される。
「客のことはなんでもお見通しって感じだな」
「バーのマスターは伊達じゃないからね。それより、今回の旅はどうだった?エイミたちの様子を見るに、なかなか大変だったようだけど」
「あぁ、うん」
アルドはこれまでのことを順を追って話し始めた。
「…というわけでさ、今回は未来と過去と現代と、行ったり来たりで本当に大変だったんだよ」
「君たちの旅は一筋縄ではいかないだろうとは思っていたけれど…本当にお疲れ様。それなら休める時にはしっかり休んで英気を養っておかないとね。ところで、ミルクのおかわりはいるかな?」
指摘されてグラスを見る。気付けば空になっていた。お腹に手を当ててどうしようかと思案する。ミルクの飲み過ぎもあまり良くないだろうが、もう少しマスターと話をしていたい気持ちもあった。
「…それじゃあ…」
何か別の物を、と頼もうとしたところで、マスターの表情が硬くなった。いつも穏やかに弧を描いている唇が、きゅっと引き結ばれている。マスターの視線が右へ左へと動く。
何かあったのだろうかとアルドも椅子から立ち上がった。マスターがそうしているように辺りの様子を伺うのだが、変わったところは何もない。
「何かあったのか?急にそわそわして…」
「いや、何か…いつもとは違う空気が…」
アルドの問いかけにマスターが答えたその時。
ズン、と空気が揺れた。そして、ぐらりと全てのものが揺れる。
「うわっ?!」
フィーネの足元で大人しく丸まっていたヴァルヲが飛び起きた。怯えているのか、体がぶるぶると震えている。
「お、お兄ちゃん!」
「アルド!なんなの、これ!」
突然のことに辺りが騒然とする。眠っていた者も、のんびりと談笑していた者も、誰もが飛び上がった。
しばらくして揺れが収まると、思い思いの場所で過ごしていた面々がアルドの元へとやってきた。
「アルド。今のはもしや、時震ではあるまいか?」
すっかり酔いが覚めたのか、サイラスは神妙な面持ちをしている。
「俺もそうじゃないかと思う。リィカはどこだろう?何か観測してないかな」
「時震か…」マスターがポツリと呟いた。
「マスター、何かわかるのか?」
アルドが尋ねると、マスターは「いや」と言葉を濁らせた。
「本来、ここでは時震なんて起きるはずがないんだ。何せここは次元の狭間。どの時代からも忘れられ、切り取られた片隅だからね」
「それじゃあ、時震ではなかったということ?」
エイミが尋ねると、マスターは首を横に振った。
「わからない。だが、もしもあれが時震なのだとしたら、本来は起こり得ないことが起きたということだ。逆を返せば、何が起きてもおかしくない状況にある、とも言えるね」
マスターの言葉を聞き、不安になったのだろう。フィーネはアルドに身を寄せると、じっとその顔を見つめた。
アルドは腕組みをしながら思案していたが、しばらくして「ひとまず」と切り出した。
「外に出てみよう。他のみんながどうしているかも気になるし」
「賛成でござる。まずは情報を得ないことにはどうにもなるまい」
四人は頷くと、時の忘れ物亭を出た。その背中を「気をつけて」と見送ったマスターはカウンターに転がってしまったグラスを手に取った。
と、その手がつるりと滑り、グラスを取り落とす。床に投げ出されたグラスは粉々に砕けている。
「…不吉の前兆でなければいいのだが…」
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