六畳一間の棺桶

睦月紅葉

六畳一間は、広いか、狭いか。

 五月。僕は趣味に合わない真っ黒な服を身にまとい、叔母の家に滞在していた。二十年前に建てたというこの家は、今回のように人を呼ぶことを見越してなのか、あるいはただの顕示欲からなのかは分からないけれど、少なくとも叔母夫婦が二人暮らしをするには些か不釣り合いな大きさで、僕はこの家を初めて見た時、漠然とした嫌悪感を感じた。事実として叔母夫婦はこの家に住めているのだから、それに足る地位や収入はあるのだろうけれど。

 僕にあてがわれているのは二階の部屋で、シンプルなベッド以外何もない、殺風景な部屋だった。まあ、来客用の部屋にごちゃごちゃ物を置くのもどうかとは思うが、逆に客が来なければ全くもって何の役割も持たないこの六畳ばかりの空間に、少しばかり憐憫の念を覚えた。

 昨日この家に来てから、僕はそのための役割しか持たないこの部屋を慰めるように、居間にも降りずずっとこの部屋で過ごしていた。僕がそうしていたのは、単純な話、叔母と話す気になれなかったのと、かつて僕が母と暮らしていた家とこの部屋とを重ねて見ていたからだ。我ながらナーバスな精神だと自嘲気味に笑いが漏れる。別に普段からこうだというわけではないのだが、こんな日なら仕方もあるまいと自分を納得させ、ぼんやりと座り込んでいた。今日は母の十三回忌である。

 外は霧雨が降っていた。水滴は撫でるように窓を濡らしていて、触れられてもないのにこそばゆさを感じる。居心地が悪くなり、僕はカーテンを閉めた。薄いカーテンではあったが、厚い雲に遮られて薄くなった陽光をシャットアウトするには十分だった。

「雅人」

 部屋の外から、女性の声がする。叔母だ。

「なに?」

「時間よ、降りてきなさい」

「わかった。すぐに行くから、先に降りてて」

 答えると、叔母の気配は遠ざかっていった。僕は叔母が嫌いである。少なくとも僕だっていい大人だからそれを表に出したりはしないけれど、叔母はきっと僕に好かれていないことを察しているだろう。いつもにこやかな彼女が僕に話しかけるときだけは目を合わせようとしないし、僕もそれを受け入れていた。親族だからこそわかり合える物事と、親族だからこそ許せない物事というものは、確かに存在する。僕はのそりと立ち上がり、部屋を出た。ずっと薄暗い部屋にいたせいか、廊下の電気がとてもまぶしく感じる。機嫌の悪いむっつり顔にならないように最大限気をつけながら目を細め、階段を降りた。


 居間には叔母はもちろんのこと、僕の親戚らしい壮年の男女が数人おり、すでに法要の準備は整っていた。

 僕は用意された座布団の最前列に座り、姿勢と服装を正す。正直な話、ろくに話したことも無い親族の視線に背中を晒しておくのはあまり気持ちの良いものでは無いのだが、故人が母である以上僕は前に座らなくてはならないので、やれやれと零しかけたため息を胃のいちばん奥に押し込んだ。

 五分も待たないうちに、叔母が僧侶を連れてくる。温和そうな人だった。先ほどまで静かにざわめいていた居間は僧侶の登場によって完全に沈黙する。叔母は全体を見回しそれを確認すると軽くうなずき、んん、と軽く咳払いをして話し始める。

「本日は皆様ご多用のなか、ご列席いただきましてありがとうございます。それでは、これより法要を執り行います」

 堅苦しい挨拶を参列者へ向けて行い、つづいて僧侶への挨拶を済ますと、叔母は僕の左となりに座る。僕は横目で叔母を見たが、叔母はブリキ人形のようにかっちりと前を向いているだけだった。目を開きながら外界の情報をシャットアウトしているようなその瞳には、光の当たっていないガラス玉のような不気味さがある。僕はなるべく叔母の方を見ないようにしながら居住まいを正し、僧侶が遺影の前の馬鹿みたいに分厚い座布団に座るのを眺める。僧侶は二言、三言口の中で何やら言葉を転がすと、先ほどまでの柔和な雰囲気とはまるで違う、ある種迫力さえ感じられる太い声で読経を始めた。

 僧侶の読経はつまらないし、うるさいし、それなのに眠くなるしと小さな頃の僕にとっては苦痛でしか無かった。けれど、時間というのは生きる者にとって平等なもので、十三回忌ともなればそれ相応の年月が僕の身にも過ぎていた。たとえば、親戚の家の居心地が悪くてもそれを口に出さないだけの分別を得られるくらいには。背が伸びて見える景色が広がったのか、あるいは心が擦れて言いたいことも言えなくなってしまったのかはさておいて、ともかく今の、二十七歳のこの僕にとってはある意味アウェーとも言えるこの空間で、僧侶が高らかに死を悼むこの瞬間が何より尊く感じられていた。


 僧侶の読経はいつしか僕の意識を相手のいない対話へと招いていた。思えば。いや、思わずとも浮かぶのは母の顔と声だ。記憶の中の母はいつも同じような服ばかり着ていて、いつも髪がぼさぼさで、いつも笑顔だった。母は僕を愛してくれていたし、僕も母を(照れくさくて結局最期まで伝えられなかったけれど)愛していた。たとえ父親がいなくたって、たとえ食事がいつも貧相だったからって、僕たち母子が幸せであることに疑いは無かった。


 母の葬式が行われるまでは。


 母が生きていた頃、僕たち母子が暮らしていたのは六畳一間のワンルームマンション。キッチンにはコンロが一口しか無かったし、トイレはどれだけ払ってもいつの間にかわらじ虫が巣を作っていた。学校生活こそ不自由なく送っていたものの、子供心に家計に余裕が無いということは察していたため、母がもし死んでしまったら、という妄想はいつしか寝る前の日課になってしまっていた。

 それが最悪の形で実現してしまったのが、十二年前の今日の出来事だ。パート先で倒れた母はそのまま病院へ搬送され、そのまま退院することなく死亡した。死因は過労と栄養失調による慢性的な体力低下だったらしい。あまりに唐突、あまりに遠いところでの出来事に、僕は母の死という事実をなかなか認められなかった。僕は母を看取ることも出来ず、最期の言葉を聞く事も出来なかった。僕の覚えている母の最後の記憶は、家を出るときに見た母の「いってらっしゃい」といういつも通りの笑顔なのだ。実は母は死んでなどおらず、ちょっと遠くに出かけているだけで、明日の朝にでも起きたらいつも通り「おはよう」と優しく声をかけてくれるのだと信じて疑わなかった。実感がなさ過ぎて、涙すら出なかった。

 母が死んで数日経ち、葬式が執り行われた。喪主は母の親族。そこには、僕にとって叔母や祖母に当たる人間も参列していたが、全員初対面だった。混乱の波が収まらず、式場で沈黙する僕を気遣ってか、何人かが僕に声をかけてくれたがその言葉はみな僕の鼓膜を微かに震わせるだけで脳まで行き着くことは無かった。だのに、遠くで僕を巻き込まずに話していた声は、鮮明に僕の意識を震わせた。

「まだ雅人が小さいときに離婚して……」

「ずっと貧乏暮らしだったんでしょう……」

「あの子もきっと不幸だったに違いないわ……」

 ちょっと待て、と思うと同時に立ち上がっていた。自分でも何故かは分からないが、ただ座っていることなんて出来なかった。僕は衝動のまま会話していたグループに近づくと、開口一番

「どういうことですか」

 と啖呵を切っていた。自分でもどうしてこんな事をしているのか理解できないまま、冷静な自分はしかし燃え上がる自分を抑えようとはしなかった。会話していた女性が振り返り、怪訝そうな顔をする。

「どういうこと、って?」

「僕は不幸なんかじゃありません。勝手に人の幸せを決めつけないで下さい」

 言い返した自分の頬が熱くなるのを感じる。女性はすぐさま切り返してきた。

「けど、姉は貧乏だったでしょう。あまり良い生活は……出来なかったはずよ」

 自分が誰に話しかけていたのかも気づいていなかったが、この女性は叔母であった。叔母の言葉に僕はさらにヒートアップする。

「はずってどういうことですか。僕と母さんの生活を全部知ってたって言うんですか」

「そりゃあ全部は知らないけれど、大体察する事は出来るでしょう」

「そんなことで」

「そんなこと? 間違っているわけじゃないでしょう」

 端から見たら、つまらないことに噛付く子供と、それに対し躍起になって言い返す成人女性というひどく滑稽な絵面だっただろう。それを自覚しても、僕の怒りは収まらない。今日初めて出会ったような人間に、母との生活を勝手に想像されたくなかった。綺麗なはずの思い出に土足で上がりこまれたような気分だった。

「だからと言って、僕は不幸だったなんて思いません。母もきっと……」

 そうだ、と言おうとして言葉が喉につかえた。

 叔母はどちらかと言えば怒りの割合が多い表情で話す。

「あなたたちにはひどく同情しているわ」

「じゃあ……どうして助けてくれなかったんですか!」

 声を荒げた。突き動かされるように立ち上がってから、ずっと自分が何をしているのか分からなかったが、この台詞は飛び抜けて訳が分からなかった。助けてくれなかった。それは暗に、助けてほしかったということではないのか。ではそれは何からだというのだろう。当然、母と暮らしていた時の生活に他ならない。ならば、なぜ叔母の言葉にあんなにも自分はいきり立ってしまったのだろうか。熱したヤカンを氷水に入れるみたいに、急速に自分が冷めていくのを感じる。

「それは……」

 叔母も言葉に詰まっている。だが、これ以上言葉を投げかけようという気にはなれなかった。これ以上の発言は刃物だ。柄が無く、触れたものをみな、自分さえも例外なく傷つけてしまう厄介な刃。僕は叔母にそれを突きつけているようで、実は自分に向けてもいた。母の死を、不幸な生活を、認めたくないという細い想いをなんとかして寄せ集め、作り上げた心を守る繭を、己の手で壊そうとしていた。

 気づけば僕は床にへたり込んでいた。叔母は肩を震わせている。結局、あるのは事実だけだった。母は死に、僕はこれから生きていかなくてはならない。叔母や祖母、母の親族は母を助けなかったし、僕の見ぬ父親は葬儀にさえ現れなかった。それが、事実。

 式場は沈鬱の雲に覆われていた。


 不意に、左肩への衝撃を感じて意識は現実に引き戻される。焼香の順番が回ってきたようだ。僕は叔母から焼香台を受け取り、三度、灰を額に掲げ、その後に黙想した。

 母と僕の生活は不幸だったのだろうか。少なくとも、あの時の叔母のように、一般論として相対的に判断するのなら、不幸だと結論づけることは出来るだろう。だが、あるのは事実だけである。僕が母にかけられた微笑みや、僕を撫でてくれた温かい手のひらの感触。それら全部を引っくるめて、僕は母との生活を幸せだったと断言できる。

 今となっては、母と自分の生活を助けてくれなかった叔母や母の親族に対して良い印象がある訳ではないものの、抱いた怒りの念は見当違いであったと自分を納得させられる。   

 ただ一つ、気がかりなのは母である。母は自分との生活をどう思っていたのだろう。親と子の価値観、養う側と養われる側の価値観は当然違う。僕には母の気持ちを知る由もないけれど、願わくば僕に向けられた微笑みが心の底からのものであってほしい。

 あの六畳一間の狭い部屋が、母にとって広すぎて、早すぎた棺桶でなかったことを祈るばかりだ。

 僕は焼香台を右隣の人に回した。

 僧侶の読経はまだ続いている。

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六畳一間の棺桶 睦月紅葉 @mutukikureha

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