@kimpachan

第1話


 外は静かに雪が降り出していた。


 もう少しで消えてしまいそうな弱々しい暖炉の火は、ロッキングチェアでまどろむには丁度良い温度だった。

男はそこに腰をゆっくりと下し、暖炉の火をぼんやりと眺めながらパイプから煙を燻らせ始めた。彼が深く息を吐くと煙は滑らかに上に昇り、部屋一面に立ち込めるコーヒーの香ばしい香りと共に空気に馴染んでいった。彼にはこの時間が至福のひと時だった。一人で静かに煙草を蒸す、この穏やかな時間が。

 こんな時間を過ごすのはいつぶりだろうか。こうして、買い物帰りの妻をコーヒーを淹れながら待つのは新婚以来かもしれない。

 それにしても、と男は本棚の写真立てに目をやった。そこには笑顔で映る男と男の妻、そして赤ん坊が写っていた。彼は写真立ての埃を払いながら、今よりもずっと健康的で美しい妻の笑顔を暫く眺めた。はて、この写真を撮ったのは一体いつ頃のことだったか。確かこの写真を撮る時坊やが泣きじゃくってしまい、機嫌を取るのに妻と必死にガラガラを振ったなぁ、と彼は写真の中の幸せな思い出に浸りながら目を細めた。

 物思いに耽っていると、鋭いブーツの足音とカラカラと乳母車の音と共に男の妻が玄関から姿を表した。男は大きなため息をつくと、相変わらず写真の方を見ながら「お帰り」とだけ呟いた。

 妻は一瞬男がいる事に驚いた様な顔をしたが、「最近は仕事が早く終わるのね」と嬉しそうに微笑み、「まぁね」と男は力なく微笑み返した。

 「寒かったでしょう、さ、ママとお風呂に入りましょう」そう言って妻はベビーカーから愛おしそうに抱き抱えると、鼻歌を歌いながらバスルームへ向かった。その様子を横目に男は妻に何かを言おうとしたが、思い直して口をつぐんだ。

 いつからこうなってしまったのだろうか。出産後、育児に家事と忙しかったとは言え、たしかに妻の注意不足だったかもしれない。だが、仕事があるからと言って全てを彼女に任せ、彼女が満足に眠る時間すら与えず疲弊させてしまったのは紛れもないこの自分だ。そう男がいくら悔やんでも、過ぎてしまった過去は変えられなかった。


 雪が少しづつ積もり始め、喧騒をかき消すかの様に街を覆い始めた。


 「さっきまで気づかなかったけど、もうこんなに重くなったのね、子どもの成長は一瞬ね」と言いながら妻がバスルームから出てきた。「風呂上がりだけさ、時期元に戻るよ。いつもそうじゃないか」男はやりきれない気持ちでそう返した。「暖炉で乾かしてあげなさい」

 妻は大人しくそれに従い、暖炉のそばで頭を拭いてやり、服を着替えさせ始めた。

 「それにしても、今日はひどい寒さね」

 「そうだな」

 「あなたのそのコート、そろそろ買い直したほうがいいんじゃないかしら。だいぶ古くなってきてるし、今年の冬はいつもより冷え込むそうだから、より厚い物を買いましょう」

 「いや、それよりお前のコートを買い直しなさい。体があまり強くないんだから」

 「いやね、それはもう昔の話よ。最近ではもう平気よ、それより」妻は少し悲しそうな顔をした。

 「坊やまで病弱な子に産まれてしまうなんて…」男はおむつを変えてやっている妻の手が少し震えている事に気づいた。

 「あたしのせいだわ」

 「お前のせいじゃないさ」男は妻に歩み寄り、優しく彼女の骨張った手を包んだ。

 「この子はいつ様子が急変してもおかしくないのに…!あの時だってあたしがうたた寝さえしていなければ…!」

 「もう終わった事だ、忘れなさい」そう言って男は妻を抱きしめた。

 「でも、もう少しで坊やが死んでしまうところだったのよ!」

 妻のその言葉に、男は心が締め付けられるような思いだったが、「お前のせいじゃないさ」と沈んだ声で取り乱しそうな妻を嗜めた。

 「これからは2度とあんな事が起こらない様にするわね」

 「大丈夫、絶対に起こらないから」

 男の言葉に安心したのか彼女は肩を撫で下ろし、男にキスをした。男もキスを返したが、新婚の頃の様に愛おしくてそうした訳でもなく、ただ、彼女に愛している素振りを見せる事で、後悔と自責の念から逃れるための免罪符の様なものだった。

 「そう言えば」

 男は窓の外を見ると、案外雪が積もっている事に少し驚きながら言った。

 「最近ご近所さんとはどうだ」妻はその言葉に顔をしかめ、「相変わらずだわ」とつっけんどんに返した。

「今日も坊やと買い物に行ってたら皆すごい目であたしを見てきて、陰でヒソヒソ言ってたわ。人を腫れ物みたく扱って、まったく、一体私が何をしたのかしら!」

 男をそれを聞いて納得せざるを得なかった、と同時に分かりきっていたことをわざわざ聞いた事に後悔さえしていた。

 「そうか」とだけ言うと、男はまたロッキングチェアに腰かけた。

 「可哀想に、坊やも嫌だったわよね?あんな風にされるなんてね」と妻は話しかけたが、返事は当然無かった。

 「まだ坊やには難しいわね。良いのよ、あなたは何も知らなくて。何があってもあたしが守ってあげるからね」

 妻はゆりかごに丁寧に寝かせると、子守唄を歌い始めた。こうして甲斐甲斐しく世話をする妻の背中を見ていると、男の心は今にも張り裂けそうだった。

 もう、全て終わりにしてしまおうか。妻の写真の中の時と変わらず美しく慈悲深い歌声が、自分の過ちを全て赦してくれるような気がして男の心は揺らいでいた。これ以上妻をこのままにしていたら、それこそ後から絶望させてしまう事になるんじゃないか。

 男はロッキングチェアの手すりを握りなおすと意を決したように立ち上がり、妻の方へ向き直った。

と、その時写真立てが本棚から落ち、派手な音を立ててガラスが散らばった。

 「どうしたの?凄い音がしたけど」と妻が振り向いた。

 「なんでもないよ。小物入れが落ちて割れただけさ」

男は咄嗟に嘘をついて素早く写真立てを片付けた。

 「それにしても、本当にこの子動じないのね。今の音でも全然起きないんだから」妻はしげしげとゆりかごの中を眺める。

 「どうしてだろうな」肩を震わせながら男は返した。

 「誰に似たのかしら。最近は本当に大人しくなったわね。なんて良い子なんでしょう、あなたに似てきたのね」彼女はクスクスと笑った。

 「将来、どんな子に育つのかしらね。」妻はゆりかごに手を伸ばし、愛おしそうに頬の辺りを撫でた。男は今にも冷静さを欠こうとしていたが、何も気づかない妻は続けた。

 「きっと、あなたに似て真面目で仕事熱心でーー」

 「やめろ」男の声は震えていた。

 「今日みたいにこうして奥さんの帰りを待っていてくれるような、優しくて素敵な大人にーー」

 「やめろと言ってるんだ!!!!!!!」

 「ちょっと、一体どうしたのよ!坊やが起きてしまうじゃないの!」

 「あり得ないことを言うな!!!!!」男の中で、何かが切れてしまった。あの日から一年の間、騙しに騙していた自身の感情が今ここで爆発したようだった。

 「なんなのよ…」

 夫の豹変ぶりに怯える妻をよそに、ついに限界を迎えた男はツカツカとゆりかごの方に歩み寄り、中から乱暴に抱き上げると、思い切り暖炉の中に投げ込んだ。消えかかっていた火は、一気に息を吹き返したかのように轟々と燃え始めた。

 「全部俺が悪かったんだ…。あの時自分のことばかりでお前を疲れ果てさせてしまった、この俺が…」涙ながらに男はぶつぶつと呟いた。

 しかしそんな夫の言葉も耳に入らない妻は、悲鳴をあげてまっしぐらに暖炉へ飛び込んだ。「坊や…!坊やが…!」自身に火が燃え移りながらも、妻は燃え盛る炎の中で我が子を必死に守ろうと抱え込んで動かなかった。

 「何をしてるんだ!!!!!!」我に帰った男が急いで汲んできた水を暖炉へとぶち撒けると、明かりをこの暖炉に任せていた部屋は真っ暗になった。

 暗闇の中、我が子を助けようと抱き抱えたまま憔悴しきった妻の泣き声と共に、虚ろな男の声が部屋に響いた。

 「もうそのぬいぐるみを離すんだ」


雪はあたりを白銀の世界に染め上げきって満足したかの様に止んでいた。

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