* 6 *


 藤本さんは「でも、私の気のせいですね」と付け加える。


「それでは、ごきげんよう。私、明日に向けてちゃんと勉強してきますね」

「え、えぇ。期待しないでおくわ」

「もう! 将校様も、ごきげんよう」


 彼女は私と中尉殿、それぞれに頭を下げて迎えに来た車に向かっていく。私は自分の頬にそっと触れていた。


 表情を曇らせていたつもりなんて、なかった。でも、昨日、中尉殿の瞳の色が澱んだときから、何だか不安でたまらない。立ち尽くしていると、背後から中尉殿が近づいてきたのが分かった。


「さ、私たちも行きましょう。トクさんがお帰りをお待ちですよ」

「えぇ」


 助手席に座り、私がシートベルトをするのを車は緩やかに走り出す。


「良かったですね、お友達が出来て。正直なところ、私もヒヤヒヤしてたんですよ」

「余計な心配をおかけしたみたいで、申し訳なかったですね」

「本当に良かった。仲の良い友人がいると、何かと心強いことも多いですよ。……私もそうでしたから」

「……中尉殿にもご友人がいるのですね。本国にいらっしゃるのかしら?」


 彼は小さく息を吐き、遠くを見つめながら呟いた。


「いいえ、皆死にました。南方で起きた、セントルイナ海戦で」


 私は息を飲む。いつも柔らかく微笑んでいる彼の表情は、この時ばかりはとても悲しそうに見えた。彼の視線の先にあるのは、きっとあの南方の戦闘なのだろうと私でも察しが付く。私は口を噤んで、膝の上にのせている手をじっと見つめるほかなかった。



***



 その夜は、眠ることができなかった。どうしても気になってしまって、夜更けに寝室を抜け出して、小さなろうそくを片手に書斎に向かった。書斎には、お父様の蔵書がまだたくさん残っている。そこにはもちろん、戦時中の事が書かれた本もあった。


 ろうそくのあかりで照らしながら、私は背表紙を一冊ずつ確認していく。


「……あった」


 私は一冊の本を手に取り、椅子に座る。火が小さくて本の文字が読みづらかったけれど、私は指でなぞりながら【セントルイナ島の海戦】の項目を読みふけった。


 全戦全勝、波に乗っていた陽本国軍が遂に敗北を喫した大規模な戦闘であったというのは私も知っていた。ハノーヴ国を含む連合国軍の攻撃は凄まじく、陽本国軍は防戦するもあえなく敗戦。この戦闘を境に、陽本国軍は敗北するばかりになり、最終的には無条件降伏を受け入れることになった。


 でも、私が知っていたのは……この国の歴史だけ。私はもう一つの側面から、この戦争の事を学ばなければならない。そう思った。


 私は、歴史を紐解いていく。

 セントルイナ島を不法に占拠していた陽本国軍を退去させるために、連合国軍による攻撃が始まった。戦力として一番大きかったのは、ハノーヴ国の航空母艦と戦闘機だった。しかしながら、陽本国軍の反撃は想像を絶するもので、航空母艦に戦闘機のまま突っ込む攻撃まで行われていた。連合国軍は辛くも勝利を収めたものの、被害は尋常ではなかった。


「……戦闘に参加したパイロットの約八割が、命を落とした」


 私の小さな声は、しんと静まり返る書斎に溶けるように響いていく。


 この亡くなったパイロットの中に、カーター中尉殿の友人もいたのだろう。いつも明るい彼の事だ、きっと友人だって多かったはずだ。


 私はそっと本を閉じて、ろうそくの火を消す。目を閉じなくても、目の前は真っ暗になる。


 胸に手を当てると、忙しなく脈打っている。私は真っ暗な空間の中で、彼の感じた……大切な人を失った痛みを思った。けれど、それは私が想像する以上に悲しくて、痛烈なものだったに違いない。

 

「恨んでいらっしゃるかしら……この国の事を」


 陽本国は――私の国は、彼の友人を奪った国、大事な人の仇だ。恨まないはずがない。


 きっと、彼がこの婚姻について了承したのは……私というこの国の皇女に近づいて、敵討ちをしたかったからかもしれない。いや、きっとそうに違いない。


 ずっと近くにいたはずの彼の存在が、遠ざかっていくような気がしていた。

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