* 2 *
「どうやら、今日も皇女殿下の機嫌は斜めな様子だ。素晴らしいものを持ってきたから、それで少しはご機嫌を直してくれるといいのだけど」
彼の名は、ギルバート・カーターと言う。私が暮らす陽本国から遠く離れた、ハノーヴという国出身の、異国人である。
彼は座っていた一人かけのソファから立ち上がり、その背後に隠してあったものを取り出した。それは、百合の花束だった。それを抱えて私に近づき、恭しく差し出すので私は受け取る他ない。私がそれを胸のあたりに抱えると、彼はにっこりと笑う。
「どうぞ、皇女殿下。気に入ってくれたかな」
「またこんなもの……いつも申し上げてますが、贈り物は控えていただけないでしょうか? 一国の皇女が、他国の将校から何かをいただいているばかりだと、よからぬ噂がたってしまいます。第一、あなたはただの家庭教師としてここに来ているわけで、いちいち私のご機嫌を窺わなくても……」
彼は、私の家庭教師の一人である。今や世界共通語となっているハノーヴ語を教えるために、皇太子である兄の紹介でやってきた。
そう、ただの【家庭教師】なはずなのに、彼は毎週末ここに来るたびに、何やら私に贈り物を持ってやってくる。今日みたいに花束を持ってくることもあれば、ハノーヴ国名物のお菓子やお茶、あちらの国の言葉で書かれた本。彼が来るようになってから、私の部屋は彼から贈られたもので溢れかえりそうになっていた。
彼は決まってこう言う。
「私の大事なお姫様に喜んでいただけるまで、私はやめるつもりはありませんよ」
そう、とても涼しげな顔で。
「せっかく頂いたのだから、あまりイケズな事はおっしゃらないでくださいよ、百合子様。さ、いけてまいりますから貸していただけますか? その百合の花束」
「ユリ?」
トクに花束を預けると、彼は驚いたように目を見開いている。鮮やかな若葉色が零れ落ちてしまいそうなくらい。
「この国の言葉では、その花は【ユリ】と言うのですか? という事は、もしかして、皇女殿下の名前もその花と同じなのでしょうか?」
「え、ええ、そうですが」
この国の皇族に生まれた女子は、必ず花の名前を付けられる。一番上の姉は【蘭】、二番目の姉は【桜】、そして私は【百合】である。
「それは存じ上げなかったな」
彼は感心するように何度も頷いていた。トクは花束を持って、客間から離れて行った。きっと花瓶に生けて、私の部屋にでも飾るのだろう。私は彼と二人、客間に残されてしまった。ニコニコと笑っている彼から視線を外して、私はまたため息をついた。
彼が私の元に来るようになった理由――それを語る前に、私の人生とこの国の歴史を少しさかのぼる必要がある。
***
私はこの国を治める――陽本国皇帝の三番目の娘、第三皇女として産まれてきた。
ほんの数年前までは、私は家族と一緒にこの【珊瑚樹宮邸】で暮らしていた。その生活が一変してしまったのは、お母様が早くに亡くなってしまった事に加え、【あの戦争】に原因がある。
陽本国が他の強国を相手に戦争を始めたのは、今から十二年ほど前、私が四歳になった頃。
その頃の皇帝はお父様ではなく、父の兄……私の伯父にあたる方だった。
当時の皇帝は権力のある人の意見ばかり聞いたり、長いものに巻かれてしまうような性質があった。それが悪かったのか、国力増強と国土拡大を図っていた政治家や軍人たちに乗せられるまま、一人息子である皇太子と共に戦争という愚かな行為にのめり込んでいってしまったらしい。この国は海に囲まれる島国だったから、採れる資源や産業、土地にも限りがあった。だからこそ、豊かな資源やもっと広い領土が欲しかったらしい。
私のお父様は終始戦争に反対の立場だった。けれど、皇位継承順位が低く、順当にいけば決して皇帝にはなることができない皇帝の弟という立場であり、【珊瑚樹宮】という名を冠しただけの、ただの宮家当主にすぎなかった父に政治や軍に介入する権力は与えられなかった。
それに、たとえ口を開いたとしても、戦争という野蛮な行為に溺れていった人たちは父の言葉に全く耳を貸さなかっただろう。
戦争が激しくなっていくにつれて、皇帝陛下の意に背く私たち一家の待遇はどんどん悪くなっていった。皇居の隅に設けられた珊瑚樹宮邸から満足に外出することも出来なくなり、食事も細々としたものになってしまったり、姉たちや兄のところに毎日のように来ていた家庭教師も月に一回だけになってしまったり。
中でも最もひどかったのが、割り当てられていた医療費が削減されてしまった事だった。もともと体が丈夫ではなかったお母様は、私を産んで以降具合が悪くなってしまっていたのだけど……十分な医療が整わず、さらに病状が悪化していってしまった。きっと、ちゃんとお医者様に診ていただいたなら、少しは良くなっていたかもしれない。けれど、お父様がどれだけ頼んでも来てくれることはなかった。
そして戦争が始まって六年経った頃、お母様は本格的な夏が始まる前に……私たち家族に看取られながらひっそりとこの世を旅立っていった。
それから二か月ほど経った後、戦争は終わった。この国が【負ける】という形で。
当時の私はまだ幼いという事を理由に、あまり戦争の事を教えてもらっていなかった。だから、のちに本や学校の授業でそれがどんなものだったのかを知った。
開戦した当時、我が国はずいぶんと調子が良かったらしい。連戦連勝で、近隣にある他国をどんどん支配していった。けれど【ある大敗】をきっかけに、この国はどんどん連合国軍に追い込まれていってしまう。陽本国にはない資産力と圧倒的な武力に押され、気づいた時にはどう戦っても玉砕せざるを得ない状況に追い込まれていた。
気づいた時には国力は貧しくなっていて、国の周囲には敵国の艦隊に囲まれるようになっていた。いつしか抵抗するすべもなくなり、敵国の本土上陸も間もなくとなったとき……ようやっと、皇帝は自分の意志で、連合国軍に降伏することを決めたのだ。
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