第5話


 明日の朝まで爀火かくびが戻らないのを知っている藍水は、仕方ないので宰相の執務室に戻ってきていた。王の承認が必要のない仕事を優先させようと、机に向き合う。

 けれども心ここにあらずで、彼は諦めて深く椅子に腰かけ、天井を見上げる。

浮かぶのは稲穂……そして長い黒髪の女性だ。


 六十年前、まだ宰相になる前、彼は人間に恋をした。

 彼女には好きな人間の男性がいて、藍水はそれが許せず、別の女性を使って彼を誘惑させ、彼女と彼を引き離した。

 人間の愛なんてこんなものだと、魔族の自分の元に来るように誘ったのだが、彼女は彼の目の前で命を絶った。

 とても弱い女性で、そんなことをするなんて想像もできない女性だった。

 血に濡れた彼女の体は田圃に沈み、その周りの稲穂が揺れていて、彼を嘲笑うようだった。


 稲穂が嫌い。

 人間界に行くことはほとんどなくなり、見ることはなくなったが、藍水は稲穂を憎んだ。

 なのに、助けた少女に稲穂と名付け、その髪が揺れる度に、憎しみではない感情が生まれた。


「人間など……」


 助けた自分が愚かだと思った。

 屋敷にまで連れ帰り世話をした自身が……。

 手放したときはほっとした。

 けれども再会して大人びた彼女を見て、何かが変わる気がした。


「帰してしまおう。二度と戻って来られないように」


 彼女が魔界に来られるのは魔力のあるせいだ。

 あの魔力をすべて奪えば彼女は二度と戻って来られない。 

 藍水はそう決めると、珍しく自ら彼女の元へ向かった。


**


「宰相様!」


 部屋を訪れた藍水に驚いたのは稲穂だった。


「どうぞ。どうぞ。すぐにお茶入れますね」


 彼女は彼に椅子を勧め、宙に手をかざそうとする。


「私が用意させましょう」


 それを止め、藍水が手を叩く。すると召使いがティーポットとクッキーのセットを持ってきた。

 積極的にこうしてお茶に誘われるのは初めてで、稲穂は嬉しくなって微笑む。彼は少しだけ苦笑いをして、召使いをすぐに追い出した。


「私がお茶を入れます」

「いや、私が入れましょう」


 稲穂を制して、藍水がカップにお茶を注いでいく。彼女の前と自分の前にお茶がたっぷり入ったカップを置いた。


「ありがとうございます」


 珍しく髪を結んでいない稲穂の髪。

 そして気が付いたことがあった。


「髪は切っていなかったのですね」

「はい。髪は女の命ですから」


 藍水に気が付いてもらったことが嬉しいのか、稲穂は再び笑みを浮かべる。それを見て彼の口元は自然と綻んでいた。室内に穏やかな空気が流れる。

 けれどもそれは長く続かなかった。

 藍水は表情を改め、稲穂に向き直る。


「稲穂。私は稲穂が嫌いなのですよ。あなたの髪色、瞳が嫌いだった。助けたことを後悔したこともありました。また戻ってくるなんて本当に嫌な人間ですね」


 部屋の空気が凍り付く。

 稲穂は何もいわなかった。言われたことに対して理解が遅れている。そう思ったのだが、彼女の瞳から涙がこぼれた。


「宰相様は、最初から私のことが嫌いだったのですね」

「ええ」


 氷の宰相。

 まさにそれを表す微笑を、彼が彼女に向ける。


「帰りなさい。そして二度と戻ってこないように」


 藍水はぎこちなく固まっている彼女に近づき、その唇に己の唇を重ねた。


「……どういうこと……だ」


 藍水は彼女の変化に驚いて唇を離す。

 力を失って倒れる彼女はまるで吸血鬼に血を吸われたようにやせ細っていた。

 魔力を奪うだけなら、このような変化は通常ないはずだった。

 嫌な予感がして、藍水は彼女がいつも着けている不自然な手袋を外す。

 手は真っ黒で、袖をまくると黒ずんでいた。


「……最後にいい思い出が、できました」


 床に倒れたまま、弱弱しく彼女は口を動かす。

 焦点のあっていない黄色の瞳はぼんやりと藍水に向けられている。


「私は、魔力があまり、ないのです。だから、命を魔力に、転換して、」

「そんな馬鹿なことを……」

「ごめんなさい。でも……あなたに…会いたかったのです。私は、普通の…人間だったから、こうするしか……。嫌われているのに……ごめんなさい。でも最後に、ありがとう……ございます」


 稲穂は最後に必死に微笑んだつもりだった。

 

「そんなこと許しません」


 藍水は彼女の首元に噛り付く。


「償ってもらいましょう」


 魔族が人間を魔族にするのは簡単だ。

 その血を啜り、己の血を代わりに与えるのだ。

 血を与えられないままであれば、死を迎えるだけ。なので魔族が血を与えるほど、その者を愛しているかどうか。それが重要となる。


「稲穂。私の血をあげましょう」


 藍水は自らで己の腕を噛んで傷をつけ、彼女の口元に当てる。

 生への本能なのか、そうすると稲穂は自然と血を欲して、傷口から流れだす血を啜る。すると一時はやせ細った彼女が元の姿を取り戻し、黒ずんでいた腕、手が元の色に戻っていく。


「……稲穂。これはあなたへの罰です。私をだました。長い時間ときをかけて償ってもらいます」


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