第四章 マーシャル遊撃戦1944

39 ラバウルの残照

 そこは、幾多の艦を呑み込んできた海だった。

 「鉄底海峡アイアンボトムサウンド」。

 羅針盤すら狂わせると言われるほどの膨大な鉄によって舗装された海峡。

 アメリカ合衆国海軍にとって、多くの艦艇と人員が失われた呪われた海域。

 その海上は今、星条旗を掲げた艦艇によって埋め尽くされていた。

 轟き渡る砲声。

 炸裂する砲弾の爆音。

 濃緑の島から立ち上る不気味な黒煙。

 それらすべては、一九四二年八月七日にも見られた光景であった。

 一九四四年三月五日、今再び、合衆国艦隊は日本軍の占領するガダルカナル島へと艦砲射撃を敢行していた。

 ルンガの大地から立ち上る濛々とした黒煙は、ソロモンでの連合軍の一大反攻作戦が始まったことを、天にいる神に知らしめようとしているかのようであった。


「ファイア!」


 合衆国海軍第七艦隊旗艦、戦艦ペンシルバニア艦橋で、司令長官のトーマス・C・キンケード中将は爆発の連続するガダルカナル島の様子を見守っていた。

 主砲射撃のたびに、艦は小刻みに振動している。彼女に後続するネバタ、ニューメキシコ、アイダホもまた、ガダルカナル島に対してその十四インチ砲弾を撃ち込んでいた。

 ルンガ沖の海面に、殷々たる砲声が轟き渡る。

 狭いシーラーク水道を単縦陣になって進む四隻の戦艦は、ルンガ沖を行き来しつつ日本軍の飛行場や陣地を爆砕していく。

 その周囲では、駆逐艦を始めとする護衛艦艇が警戒を続けていた。

 ガダルカナル攻防戦において、戦艦インディアナやコロラドがこの水道で水線下に被害を受け、沈没に追い込まれた記憶は、未だ生々しかった。その被害が魚雷によるものか機雷によるものかは結局判然としなかったが、どちらにせよシーラーク水道での警戒が必要なことに変わりはなかった。

 腹に響く砲声は、なおも途切れることなく続いている。

 かつてはジャップが使用していた、戦艦による陸上への艦砲射撃。

 その有効性を、敵ながら合衆国は理解していたのである。そして今、ジャップの編み出したその戦法を合衆国海軍は完全に自分のものとして利用していた。


「レーダー室より報告! 北西方面より接近中の機影を確認! 数は一機です!」


「ジャップの偵察機ですかな?」


 参謀長がそう言った。

 現在に至るまで、第七艦隊は日本軍航空隊による接触を受けていない。


「後方の護衛空母群に、戦闘機隊の派遣を要請せよ」


「アイ・サー!」


 キンケードが命じると、伝令の兵士が通信室へと駆けてゆく。

 第七艦隊にはエセックス級のような大型空母は配属されていないが、護衛空母は八隻を揃えている。搭載機数の合計は二〇〇機以上であり、艦隊防空と上陸支援のためだけであれば十分な数であろう。

 ソロモンにおけるジャップの航空戦力は、長く続いた南太平洋での通商破壊作戦によって補充不足に陥ってしまったのか、最近ではその活動は停滞していた。

 今さら第二次ガダルカナル沖海戦(日本側呼称:第四次ソロモン海戦)のように、戦艦部隊が航空攻撃によって大打撃を受けることはないだろう。

 キンケードは自らに与えられた艦隊戦力に、一定程度の自信を持っていた。


  ◇◇◇


 高空に、誉二一型発動機の轟音が鳴り響いている。

 如何にも空気抵抗の少なそうな、細長く洗練された機影。

 大気を切り裂くようにして南太平洋の蒼穹を駆け抜けるその機体の名は、「彩雲」といった。

 大日本帝国が誇る航空機メーカー、中島飛行機の開発した最新鋭の高速艦上偵察機であった。

 扱いの難しい誉発動機を使用しているものの、整備が万全であるならば、彩雲は時速六三〇キロ以上での飛行が可能であった。航続距離も、落下増槽を取り付ければ五〇〇〇キロ以上に及ぶ。

 その一機が今、ガダルカナル島へ向けて飛行していた。

 抜けるような青空に立ち上る、一筋の黒煙。

 どこがガダルカナルであるのか、遠くからでも一目瞭然であった。

 操縦桿を握る上飛曹は、即座にその方向に機首を向けた。スロットルを開き、速度を上げていく。


「敵機の襲撃には注意しておけ」


 機長である少尉が言う。


「宜候、警戒します」


 誉発動機は、快調に回っていた。ラバウルの熟練整備員は、完璧にその仕事をこなしてくれていたようだ。

 片々と浮かぶ雲を隠れ蓑にしつつ、彩雲はその高速性能を活かしてガダルカナル島へと突き進んでいく。

 徐々に色濃く見えてくる黒煙。

 そこはすでに敵地だった。

 三名の搭乗員の表情に、緊張が走る。

 彩雲の速度は、すでに六〇〇キロを超えていた。誉発動機は、調和の取れた轟音を奏で続けている。


「少尉、見えました!」


 操縦手である上飛曹が興奮の叫びを上げた。

 かつて何度となく日米が激闘を繰り広げたルンガ沖の海面、シーラーク水道に無数の白い航跡が流れている。その数は十や二十では足りない。

 上陸用の輸送船団に、それを護衛する無数の艦艇。

 まさしく、アメリカの大艦隊であった。

 この一年以上の間、帝国海軍が支配していた海域を、彼女たちは我が物顔で突き進んでいた。

 だが、それを忌々しく思っている暇は、彼らにはなかった。


「ルンガ沖に輸送船及び大型艦多数だ。直ちにラバウルに打電しろ!」


「はっ!」


 機長の叫びに、電信員が応ずる。


「敵機来襲!」


 だが、電信員が電鍵を叩き終わらない内に、彩雲は米艦隊の放ったF6Fヘルキャットの襲撃を受けた。


「水メタノール、使います!」


 操縦手が叫び、彩雲の速度が一気に上昇する。増大したGと共に、搭乗員たちは座席に押し付けられる。

 エンジン出力向上のための水メタノール噴射装置により、彩雲は一時的に急加速したのだ。


「敵機、五時方向距離五〇〇!」


 水メタノール噴射装置は上手く扱わないと発動機を破損させてしまうが、今はそのようなことを気にしても仕方ない。とにかく、敵機から逃れることが最優先なのだ。

 最悪、この場を逃れれば例えエンジンが故障したとしても、ニュージョージア島やブーゲンビル島に不時着して友軍の救助が望める。


「撃ってきたぞ!」


 機長には敵機の両翼が光るのがはっきりと見えた。

 曳光弾の火箭が、彩雲をかすめて飛んでいく。

 弾道直進性の良いブローニング機銃の弾丸で構成される、六本の不気味な輝き。それが連続して、この細長い偵察機に襲いかかる。

 だが、操縦手の上飛曹は不用意な旋回運動はしなかった。そうなれば速度が落ち、確実にグラマンに捕まってしまう。

 この彩雲の高速性能に、三人の命を預けるしかないのだ。


「おい、十時方向に雲だ! 逃げ込め!」


「宜候!」


 機長の叫びに、即座に操縦手は応じた。

 彩雲はその高速を維持したまま、曳光弾に追われるようにして雲の中に突っ込んでいった。


  ◇◇◇


「ジャップの偵察機は、取り逃がしたようです」


 申し訳なさそうに、通信兵が報告する。


「無電を発するのは確認したか?」


「サー。ジャップの偵察機からのものと思しき通信は傍受しました」


 その返答に、キンケードは表情を引き締めた。

 これで、第七艦隊は空襲を受ける可能性が高くなった。

 防空戦闘には自信があるものの、流石に艦隊も輸送船団も無傷とはいかないだろう。LST(戦車揚陸艦)を始めとする上陸用舟艇は、すでに艦砲射撃の支援の下、ガダルカナルの海岸へと接近していた。

 艦隊だけが、空襲を避けるために後退するわけにもいかない。それでは、サボ島沖海戦(日本側呼称、第一次ソロモン海戦)の二の舞となってしまう。

 自分の率いる第七艦隊は、陸上でジャップが反撃を行った際には海上から支援しなければならないし、空襲から脆弱な揚陸艦や輸送船を守らなければならないのだ。


「各艦、対空警戒を厳とせよ」


 キンケードはそう命じた。


「護衛空母群にも、全戦闘機を以てジャップの航空部隊を迎撃するように伝達したまえ」


「アイ・サー!」


 去っていく通信兵の背中から、キンケードは目線をガダルカナルへと移した。

 濃緑の島のあちこちから、黒煙が上がっている。

 重砲による反撃程度は覚悟していたが、ジャップが撃ってくる様子はない。単純に、位置が特定されるのを恐れているだけか。

 やがて、LSTを始めとする上陸用舟艇が海岸に取り付き、船首の扉から戦車や兵員が吐き出されていく。ダグラス・マッカーサー大将率いる南西太平洋方面軍指揮下の第四十三師団主力が、ガダルカナルへの上陸を果たしたのである。

 昨年二月にガダルカナルを撤退して以来の、実に一年ぶりとなる太平洋での合衆国軍の対日反攻作戦の始まりであった。

 だが、多くの戦車や兵員が上陸し、彼らが海岸に橋頭堡を築いてなお、ジャップからの反撃はなかった。

 ガダルカナルは未だ、不気味な沈黙を守り続けていた。


  ◇◇◇


 空は、再び彩雲の放つエンジン音だけに包まれていた。

 操縦手はスロットルを絞り込み、ブースト計の目盛りを徐々に戻していく。爆音じみた発動機の轟音も、正常に戻っていく。


「発動機に異常はないか?」


「今のところ、ないようです」


 その遣り取りで、ようやく三人の彩雲搭乗員たちはほっと一息つくことが出来た。


「……アメ公も存外、とろい連中でしたな。お陰で、我々はこうして生きていられます」


「まったくだ。あんな太った機体に乗っているから、動きが鈍くなるんだろうよ」


 ただ一機で敵地に乗り込み、そして脱出を果たした三名の搭乗員たちは、孤独な空の上で軽口を叩き合うことで、生き残った実感を噛みしめていた。

 ソロモンの蒼穹を飛翔する一機の彩雲は、やがてラバウルのある北西方向へと消えていった。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 昭和十八年四月一日の戦時艦隊編制の改定により、ソロモン・ニューギニア戦線を担当する新たな艦隊、南東方面艦隊が創設された。

 麾下には基地航空隊である第十一航空艦隊、水上艦部隊である第八艦隊が所属している。

 南東方面艦隊の司令長官は、草鹿任一中将。第十一航空艦隊は草鹿中将が兼任し、第八艦隊は鮫島具重中将が司令長官として着任していた。

 一九四四(昭和十九)年三月五日、ニューブリテン島ラバウルに設けられた第十一航空艦隊司令部に草鹿任一中将以下南東方面艦隊司令部の人間たちが集結していた。

 高床式の木造建築の司令部は、それでもなお南方特有の暑気を建物内から追い出せずにいる。


「索敵機からの報告によりますと、本日〇七三〇時、米軍のガダルカナル上陸を確認したとのことです」


 参謀長の草鹿龍之介少将が報告する。この二人は名字を見れば判る通り、親戚関係にあった。


「つまり、連中は我が軍のガ島撤退の事実に気付いていないということですな」


 参謀副長の富岡定俊少将が言う。


「そうでなければ、我が軍のいない島に大量の砲弾を撃ち込むことはなかろう」草鹿長官は諧謔味の混じった声で応じた。「まあ、米軍が実戦的な上陸演習作戦をやりたいというのであれば、止めはせんが」


 司令部内に、かすかな笑い声が起こる。

 草鹿長官の言う通り、一九四四年三月現在、日本軍はソロモン・ニューギニアの各地から兵力を引き揚げていた。

 一九四二年九月にガダルカナル島飛行場を確保した日本軍は、海軍がニューギニア島東端のラビ攻略を目指してミルン湾上陸作戦を行ったものの失敗。ポートモレスビー攻略を目指した南海支隊も壊滅したため、その後のニューギニア方面ではガダルカナル島を確保したことによるソロモン海域での制海権・制空権の確立もあり、ニューギニア島北部のマダン、ウェワク、ニューブリテン島西端のツルブの線(つまりダンピール海峡以北)を保持して持久作戦をとる方針となっていた。

 一九四三年一月に発動された南太平洋全域での通商破壊作戦“い号作戦”の戦果もあり、ニューギニア戦線では一年以上もの間、膠着状態が続いていたのである。

 ただし、ニューギニアへの輸送は日本にとって多大な負担となっており、特に陸軍内部では早くからニューギニア北西部(通称“亀の首”)とティモール島の線まで後退することが議論されていた。

 そうした構想が現実のものとなる契機となったのが、一九四三年九月三十日に御前会議決定がなされた二度目の「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」であった。

 これは「帝国ハ今明年内ニ戦局ノ大勢ヲ決スルヲ目途トシ敵米英ニ対シ其ノ攻勢企図ヲ破摧シツツ速カニ必勝ノ戦略態勢ヲ確立スルト共ニ決戦兵力特ニ航空戦力ヲ急速増強シ主動的ニ対米英戦ヲ遂行」するという方針の下、「万難ヲ排シテ概ネ昭和十九年中期ヲ目途トシ米英ノ進攻ニ対スヘキ戦略態勢ヲ確立シツツ随時敵ノ反攻戦力ヲ捕捉破摧ス」ることを目的とした、大日本帝国の新たな戦争計画である。

 そしてここで「絶対確保スヘキ要域」として千島、小笠原、内南洋(中西部)、西部ニューギニア、スンダ、インドが挙げられ、これらの地域が「絶対国防圏」と呼ばれるようになった。

 このような御前会議の決定に基づき、ニューギニアに展開していた安達二十三はたぞう中将率いる陸軍第十八軍は昨年十二月以降、順次、マダンやウェワクから撤退していった(ただし、軍部は「撤退」という言葉を嫌って「転進」と表現していたが)。

 ただし、その過程においてまったく被害がなかったわけでもない。

 ニューギニアからの撤退作戦“セ号作戦”において、第八艦隊は潜水艦の雷撃によって軽巡龍田、駆逐艦白雪が沈没。さらに敵機の空襲によって駆逐艦睦月を失っていた。

 そして今年に入ってからはガダルカナルを含めたソロモン諸島からの撤退作戦“ケ号作戦”も開始されている。

 ガ島については連合軍に撤退の事実を秘匿するため、ソロモン諸島の中では最後に撤退作戦が敢行されたものの、二月十一日、十四日、十七日の三回にわたって実施され、奇跡的に艦艇、人員の損害なしという成果に終わっていた。

 それから二週間あまり、連合軍はついぞ帝国軍のガ島撤退には気付かなかったらしい。

 もっとも、これは故のないことではなかった。

 ガ島は最前線基地であるため、エスピリットゥサントからの米重爆の空襲を受けやすく、飛行場が使用不能になることがたびたび発生していた。二月下旬から米軍のガ島空襲が本格化していたことで、ガ島にいるはずの日本軍航空隊がまったく迎撃に上がってこないのを、アメリカ側は自身の空爆が日本軍航空隊に打撃を与えた結果であると認識していたのである。

 また、連合軍の沿岸監視員コーストウォッチャーを日本軍が壊滅させたことも大きい。ソロモンの島々に潜んで艦隊や航空機の動向を報告する連合軍の沿岸監視員は、無線連絡の際の電波を逆探知され、一九四三年の始め辺りから次々と日本軍に検挙されていたのである(なお、日本軍にとって不名誉なことであるが、連合軍側の諜報員と見なされて拘束された現地在住の欧米人および現地人数十名が処刑されていた)。

 このため、連合軍は日本軍のガダルカナル撤退を察知し得なかったのである。


「問題は、米軍がこのラバウルにやって来るまでどれくらいかかるか、ということか」


 諧謔味の混じった口調から一転、草鹿任一中将は真剣な眼差しでソロモン・ニューギニア地域の地図に目線をやった。

 島伝いにラバウルを目指すとすれば、ガダルカナル島の次はニュージョージア島、その次はブーゲンビル島である。

 ガダルカナルがもぬけの殻であると連合軍が気付けば、ニュージョージア島やブーゲンビル島で悠長な上陸作戦などやらず、直接、ラバウルへと侵攻してくる可能性もある。

 索敵に出した彩雲からの報告では、敵艦隊は艦上戦闘機を伴っていたという。つまり、米艦隊には空母が随伴している。

 空母機動部隊を使えば、ニュージョージア島やブーゲンビル島に上陸して前進基地を造る手間もなく、ラバウルを空襲出来るだろう。当然、ガダルカナルに米重爆が進出すれば、米機動部隊と併せてラバウルの航空戦力を壊滅させるには十分な兵力を揃えられるに違いない。


「我々は、早期にラバウルを失うわけにはいかんのだ」


 参謀たちに言い聞かせるように、草鹿中将は重々しく宣言した。草鹿参謀長を始めとする司令部要員たちの顔も、その声で引き締まる。

 本来であれば、絶対国防圏の外側にあるラバウルは、とうに撤退していて然るべき場所なのだ。しかし、未だ大日本帝国はラバウルを放棄するには至っていない。

 それどころか、第十一航空艦隊は各地に戦力を引き抜かれつつも、未だ一定程度の戦力を維持したままラバウル周辺を本拠地としている。

 原因は、一撃講和を実現するための決戦場と想定されているマリアナ諸島の防備が、十分に進んでいないためであった。

 四三年九月より実施された陸軍の重慶攻略作戦“五号作戦”に兵力と装備の大半が投入された結果、マリアナの防備強化は重慶攻略作戦の想定実施期間である発動日から五ヶ月後、つまり今年の二月以降に行うという決定がなされてしまったのだ。

 それでもニューギニアやソロモンから引き抜かれた兵力を、マリアナに再配置するなどの措置をとって防備の強化を進めているというが、未だ十分とはいえないだろう。

 そこで帝国海軍は、絶対国防圏の外側にあるラバウルやトラック、マーシャル、ギルバート諸島を当面の間、保持するという決定をなした。ある意味で、絶対国防圏構想とは矛盾する作戦方針である。

 海上での遅滞防衛戦。

 連合艦隊や軍令部は、言ってみればそうした作戦構想を抱いているのである。

 しかし、陸上にいる兵員たちにとっては、それはすなわち玉砕前提の作戦方針でしかなかった。つまり、各地の島々で守備隊は出来る限り米軍に抗戦し、米軍のマリアナ侵攻を一日でも遅らせることが求められているのだ。

 ラバウルを含むニューブリテン島を守備する万を超える陸海軍将兵と百機を超える航空機も、すべてはそのためにある。

 草鹿任一は南東方面艦隊司令長官として、部下の将兵が一人でも残っている限り、自身もこの地で玉砕する覚悟を、すでに固めていた。


「今一度、米軍に見せつけてやろうではないか。ラバウル航空隊、ここに健在なり、と」


  ◇◇◇


 西飛行場と呼ばれるラバウル第二飛行場は、往事の喧噪を取り戻したかのように搭乗員たちの活気に満ちていた。

 西飛行場は主に陸攻用の飛行場であり、南太平洋全域での通商破壊作戦“い号作戦”が発動されていた時期には一五〇機以上の一式陸攻が翼を並べていたほどである。

 だが、マリアナの防備強化などのために陸攻隊を各地に引き抜かれていた西飛行場は、一九四四年に入ってからはほとんど哨戒任務に出る陸攻のためにしか使われていなかった。

 それが今、かつて帝国最強の基地航空隊であった時を再現するかのように、西飛行場は発動機の轟音に満たされていた。

 一九四四年三月現在、ラバウル周辺に展開する海軍航空隊の兵力は次のようになっている。


第十一航空艦隊直属

 第一五一航空隊(偵察機)

第二十一航空戦隊

 第二〇一航空隊(戦闘機)

 第二五三航空隊(戦闘機)

 第七五一航空隊(陸攻)

 第五二五航空隊(陸爆)

第二十六航空戦隊

 第二〇四航空隊(戦闘機+偵察機)

 第五〇一航空隊(戦闘機+艦爆+艦攻)

 第五八二航空隊(戦闘機+艦爆+艦攻)


 最盛期には四個航空戦隊を展開させていたラバウルは、今やその戦力を半減させていた。散々に南太平洋の連合軍船舶を沈めた陸攻隊も、一〇〇機を切っている。

 だが、その中でも目を見張るべき部隊があった。

 第五二五航空隊である。

 この部隊は陸爆、つまりは海軍が次世代の基地航空戦力として期待をかけている陸上爆撃機「銀河」を運用するために創設されたものであった。

 第五二五航空隊は、第五二一航空隊に始まる四つ目の銀河部隊である。

 部隊の定数は、常用三十六機、補用十二機の計四十八機。

 この部隊は連合軍のソロモン・ニューギニア方面への反攻作戦が開始されるまで温存されていたため、未だ定数を維持していた。

 その、第十一航空艦隊虎の子の部隊が、今まさに出撃しようとしている。

 丸太のような胴体を持つ一式陸攻とは一線を画する、流麗な機影。両翼に備えられた二〇〇〇馬力級発動機である誉一一型。

 日本刀のような鋭利な美しさを持つ機体が、飛び立とうとしていた。


「いよいよ銀河の出撃だな、佐藤中尉。先鋒は任せるぞ」


 第七五一航空隊指揮官・野坂通夫大尉は、第五二五航空隊指揮官の佐藤巌中尉に快活に語りかけた。


「はっ、お任せ下さい」


 一方の佐藤中尉の顔も、晴れやかなものであった。

 内地で銀河を受領して以来、ひたすら訓練にだけ従事する日々であっただけに、この瞬間を一日千秋の思いで待ち望んでいたのだ。

 佐藤は一九四三年十二月一日付で解隊された第七〇二航空隊の指揮官であり、元陸攻乗りである。彼の部下たちのほとんども、元第七〇二空の陸攻搭乗員で構成されていた。

 帝国海軍は銀河隊を編成するにあたって、戦力の消耗した陸攻隊を解隊して搭乗員を新設の陸爆隊に回していたのである。それにより、銀河隊の早期の戦力化を目指していた。


「再びルンガ沖をアメ公の船の墓場にしてご覧に入れましょう」


 佐藤中尉はにやりと不敵な笑みを見せる。それに応じるように、野坂も笑みを浮かべた。

 共にソロモンの空を駆け巡った経験を有する陸攻乗りであるだけに、二人の間には階級差など気にしない気安さがあった。撃墜されれば七人が一蓮托生となる陸攻乗りたちの間には、他の機種の搭乗員以上に、一種の家族じみた連帯感があるのである(そのため、規律にも緩い面があったという)。


「ははっ、俺たちの隊にも獲物は残しておいてくれよ」


 巡航速度の関係で、銀河と一式陸攻は共に作戦行動をとるには向いていない。そのため、佐藤率いる第五二五空が第一次攻撃隊、野坂率いる第七五一空が第二次攻撃隊として出撃することになっていた。

 戦法はこれまでと同様、薄暮から夜間にかけての攻撃である。


「了解です。一番の獲物である輸送船は残しておきましょう。その代わり、戦艦や空母は我々の方で頂戴します」


 戦友でもある第七五一空の指揮官に、佐藤は諧謔味に満ちた答えを返す。

 長く通商破壊作戦に従事してきた第十一航空艦隊にとって、第一の目標は輸送船であったのである。だが、やはり戦艦や空母を撃沈するというのは、どの搭乗員にとっても夢であった。そして、一式陸攻も銀河も、本来はそのために開発された機体だ。

 佐藤の言葉は、そうした軍事的合理性と搭乗員たちの内面の矛盾を皮肉に表したものだった。


「では、行って参ります」


 先ほどまでの笑みを引っ込めて、佐藤は生真面目な表情で敬礼する。


「ああ、銀河隊の武運を祈る」


「第七五一空のご武運もお祈り申し上げます。ではっ!」


 野坂が答礼で応じ、佐藤は暖気運転の轟音を奏でる銀河へと駆けていった。






 やがて飛行場からは第一次攻撃隊である銀河三十四機(二機が発動機の整備不良で出撃出来ず)、第二次攻撃隊の一式陸攻四十三機が飛び立っていた。

 それは、精強を誇り軍歌にも歌われるラバウル航空隊の放つ、最後の輝きともいえる光景であった。

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