24 防空戦闘
敵編隊の接近を最初に察知したのは、第二艦隊旗艦武蔵の二一号電探であった。
北西方向から迫る編隊を、距離九〇キロにて探知。高い艦橋を持つ戦艦であるが故に、電探による探知範囲は広い。
武蔵からの警報により、ただちに全艦に対空戦闘用意の下令がなされた。艦内の高声令達器から、対空戦闘用意を意味するラッパの音が響き渡る。
瑞鳳、龍驤、龍鳳からはすでに十二機ずつ、計三十六機の上空直掩隊が上がっている。これに加えて、三空母の甲板で待機していた残りの機体もただちに発進した。
それと同時に、武蔵の高角砲が二度三度、電探の探知した方向に向けて射撃を行う。インド洋の空に、砲弾が炸裂したことによる黒煙が上がる。
この砲撃は、当然ながら敵機に向けたものではない。
零戦の機上無線は精度が悪いため、高角砲の射撃で敵機の方角を上空の零戦隊に伝えたのである。高角砲の黒煙を見た零戦隊は、一斉に翼を翻して北西方向に向かう。
「零戦の機上無線は改善せねばならんな」
苦虫を噛み潰したような表情で、近藤中将は言った。
「これでは、せっかく搭載した電探も十全に活用出来んではないか」
愚痴のような言葉と共に、近藤たち第二艦隊司令部は龍鳳から発艦した零戦三二型を見送った。
銀翼を連ねて、インド洋の空高くに舞い上がっていく零戦隊。
彼らに向かって対空戦闘配置についた甲板の機銃員たちが盛んに帽を振り、声援を送っている。零戦隊こそ、艦隊防空の要なのだ。
「長官」
零戦隊が武蔵艦上を飛び去ると、古村啓蔵大佐が近藤に歩み寄った。
「私はこれより防空指揮所に上がり、対空戦闘の指揮を執ります」
「うむ、よろしく頼む」
敬礼した古村に向かい、近藤も指揮官席から立ち上がって答礼した。古村はそのまま、三名の伝令兵を引き連れて、昼戦艦橋から防空指揮所へと上がる。
古村は前任の有馬馨大佐に代わって、三月一日付で武蔵艦長に着任していた。長崎での改装工事を終え、武蔵が船渠から出てくるのとほぼ同時に艦長に任命されたのである。
彼は生粋の水雷屋であり、開戦以来、筑摩艦長として珊瑚海海戦を除く主要な空母戦に参加している。戦艦艦長としての防空戦闘は初めてであるが、特に不安は抱いていなかった。
防空指揮所に上がれば、向かってくる海風が頬を叩く。遮風装置があるとはいえ、それでも防空指揮所を完全な無風状態にすることは出来ない。
艦首が砕いた海水の飛沫が、時折風に煽られて防空指揮所にまで届く。
だが、水雷屋である古村にとってみれば、そうした海を直に感じられる場所の方が性に合っている気がしていた。
防空指揮所から見下ろせる二基の巨大な四十六センチ主砲塔。戦艦としては異様に太い甲板。
それらは彼が今まで指揮してきた筑摩とはまるで違う光景であったが、艦長としてやるべきことは変わらない。
第一機動艦隊の前衛を務める第二艦隊は、第三航空戦隊(隼鷹、飛鷹、龍鳳)を中心に輪形陣を敷き、速力二十ノットで進撃を続けている。武蔵は輪形陣前方左側に位置しており、隼鷹を護衛する位置にあった。長門は飛鷹を、伊勢、日向は龍鳳を護衛する位置に配置されている。
敵機群が迫りつつある中、艦隊は緊張感のある沈黙に包まれていた。
高角砲や機銃が敵機の来襲する方向に向けて旋回している他は、大きな動きはない。武蔵の三基の主砲も、微動だにしない。
古村はソロモンでの戦闘経験から、対空用の三式弾がほとんど意味をなさないことを知っていた。
それに、友軍戦闘機隊が空戦をしているところに砲弾を撃ち込むわけにもいかない。三式弾はせいぜい、突撃針路に入った敵機を妨害する程度にしか使えないだろう。
しかも、砲塔の測距儀は仰角十五度までしか対応していないため、雷撃機限定でしか使えない(対空戦闘の場合、基本的に主砲は砲術長ではなく各砲塔長が指揮を執る)。
だから古村は、主砲に三式弾を装填するところまでは命じたが、現時点で主砲射撃命令を出すつもりはなかった。
「直掩隊、敵機と交戦に入った模様!」
防空指揮所で双眼鏡を覗き込んでいた見張り員が、その姿勢のまま報告する。
艦隊前方の上空で、黒いごま粒のような影が入り乱れている。
この時、アメリカ第五十一任務部隊が放った攻撃隊の内、インディペンデンス隊、プリンストン隊が第二艦隊に迫っていた。それぞれF4Fワイルドキャット十二機、TBFアヴェンジャー九機の計戦闘機二十四機、雷撃機十八機の編成であった。
これに、すでに高空で待機していた三十六機の直掩隊が襲いかかった。
武蔵から見えるインド洋の蒼穹に、黒い煙を引いていくごま粒が確認出来た。そのことに、古村は安堵の笑みを浮かべる。
ソロモンで幾度となく海戦に参加した彼は、日本機は火を噴いて墜ちる、米軍機は黒煙を吐いて墜ちる、という違いを知っていたのだ。
悲惨であったのは米軍機の方であった。
戦闘機の数で敵に劣り、さらに第二艦隊に向けて降下中の雷撃隊は、瑞鳳、龍驤、龍鳳から緊急発進して上昇していた零戦隊と遭遇してしまったのだ。
アヴェンジャー雷撃隊は上と下から零戦隊に追いまくられ、魚雷を投下して離脱をかけたが、それでも生還は叶わなかった。
「来襲せる敵機は雷撃機の模様!」
視力の良い見張り員は、敵機の形状からそう判断した。その声に、古村の表情が引き締まる。
「敵降爆に厳重警戒!」
雷撃機に気を取られている隙に、敵の急降下爆撃機に襲われる。あの悪夢のミッドウェー海戦が、古村の脳裏を過ぎったのだ。
「電探室より報告! 新たな目標捕捉! 北西四〇浬におよそ五〇機規模の編隊あり!」
防空指揮所に駆け込んできた伝令が、上がった息もそのままに、早口で報告する。
「その情報を全艦に流せ! 第二艦隊司令部に確認している暇が惜しい。責任は俺が取る!」
「はっ!」
古村の剣幕に気圧されたかのように、伝令は強ばった表情のままラッタルを駆け下りていった。
航空隊の指揮など執ったことのない古村だが、空母部隊の護衛をしていれば、航空戦が一分一秒を争う戦闘であることは理解出来る。
敵機の速度を五〇〇キロ程度とすれば、四〇浬など十分とかからずに突破してしまう。
「隼鷹と飛鷹、零戦隊を発進させています!」
その報告に古村が右舷後方を振り向けば、特徴的な島型艦橋を持つ空母が三機の零戦を発艦させていた。格納庫内に残っていた機体を、急いで飛行甲板に上げたのだろう。
本来であれば予備機として搭乗員と共に待機させてあった機体のはずだ。それを即座に投入する決断をするあたり、三航戦司令・角田覚治少将は果断な指揮官らしい。砲術科の出身だというが、中々航空戦というものへの理解が深い。
第一機動艦隊には、インディペンデンス隊、プリンストン隊に遅れて、エセックスの放った攻撃隊が接近しつつあった。編成は、F6Fヘルキャット二〇機、SBDドーントレス二十八機、TBFアヴェンジャー十四機、計六十二機であった。
索敵や対潜警戒に出ていた機体を除いて、これが第五十一任務部隊の放てる全力の攻撃であった。
「これは、突破されるな……」
上空を飛んでいく隼鷹と飛鷹の計六機の零戦を目で追いながら、古村は呟いた。
米軍の第一波は直掩隊の活躍によって、艦隊に近づくことすら出来ずに撃退された。だが、時間差で現われた第二波に対しては、直掩隊の数が足りない。
また、第一波を撃退したことで弾薬も消耗しているだろう。零戦三二型は二一型とは違い、一門あたり一〇〇発の二〇ミリ機銃弾を搭載しているが、五月雨式に押し寄せる敵機に対してはそれでも足りない。
「零戦隊、再び敵機と交戦に入りました!」
「……」
その様を、古村は固唾を呑んで見守る。
彼方で無数の黒い影が入り乱れ、空に広がってゆく。
「敵機群、三手に分かれました! 爆雷連合、およそ四〇機! 突っ込んできます!」
「来やがったな」
戦闘機隊が零戦を引きつけている隙に、艦爆と艦攻がこちらを攻撃する肚なのだろう。
これが、武蔵の経験する初めての実戦だ。大和が長期のドック入りを余儀なくされている今、彼女が帝国海軍最強の名を背負っている。
その武蔵に、無様な戦闘だけはさせられない。
そうした使命感とは裏腹に、古村の胸中には緊張も恐れもなかった。帝国海軍最強の戦艦の艦長として彼女の初陣に立ち会えたことに、どこか楽しさすら感じている。
彼のそうした気負いない態度は、彼の背後に立つ三名の伝令や防空指揮所の見張り員にも伝播していった。この艦長の下でなら大丈夫だと、初陣の緊張感から解放されたのである。
「敵機、数群に分かれて艦隊上空に接近しつつあり! 距離二万五〇〇〇!」
「まだだ、まだだ……」
敵機の動きを見つめながら、古村は呟いた。
武蔵の備える十二基二十四門の高角砲の射程は一万五〇〇〇メートル、二十五ミリ機銃に至っては射程三五〇〇メートルで有効射程は一五〇〇メートルでしかない。
敵機は高度をとり続ける艦爆と、降下を開始した雷撃機で分かれ、さらに細かい編隊となって輪形陣への侵入を試みている。その背後から、一部の零戦隊が追いすがるように射撃を加え、内何機かを撃墜する。
だが、敵攻撃隊の突進を止めるには至っていない。
「もうちょい防空用の戦闘機が必要だな、こりゃ」
そう古村はぼやくが、ぼやいても始まらない。
「敵機、距離一万五〇〇〇!」
「対空戦闘始め!」
見張り員の報告に間髪を容れず古村は命令を下す。他の艦でも、ほぼ同時に同様の命令が下されたらしい。
各艦の高角砲が一斉に火を噴き始める。
インド洋の抜けるような蒼穹を、対空砲火の炸裂した黒煙が汚していく。消えては現れる黒煙の下では、落下した弾片によって海水が小さくしぶきを上げている。
「敵機、距離一万!」
だが、日本側の射撃によって撃ち落とされる敵機の数は悲しいほどに少ない。
敵編隊との距離が七〇〇〇を切ったあたりで、ようやく高角砲弾の炸裂によって二機の敵艦爆に白煙を吐かせた程度である。その敵機は爆弾を投下して退避行動に移ったが、撃墜には至っていない。
やはり最後は艦長の操艦の腕にかかっているな、と古村は妙に納得した気分になる。
「敵降爆、高度四〇〇〇! 距離三〇〇〇!」
四機の敵艦爆……恐らく、ドーントレスという奴だろう……が、輪形陣内部にまで侵入を果たす。
各艦が激しく対空砲火を撃ち上げるが、墜ちる様子はない。
「敵機、龍鳳に急降下!」
始まりやがったな、と見張り員の絶叫に古村は思う。だが、武蔵の役割は隼鷹の直衛だ。龍鳳のことを気にかけている暇はない。
武蔵両舷の高角砲は、盛んに射撃を続けている。機銃座も、敵機が射程に入ったらしく、射撃を開始していた。
竣工当初とは比べものにならない多数の対空火器が、武蔵から撃ち上げられている。
日本戦艦で最も対空火器が充実している武蔵は、その大きさも含めて、敵機から非常に目立っていた。
「龍鳳、健在の模様!」
見張り員は、立ち上る水柱の中から健在な姿を現す龍鳳を見て歓喜の声を上げた。
「敵降爆接近中、左二〇、距離四〇〇〇! 数八!」
武蔵の左舷艦首側から接近しているということだ。目標面積を広く取れる艦首、艦尾側から接近するのは、急降下爆撃の基本である。
目標は隼鷹か、この武蔵か。
古村はちらりと自身の目で隼鷹の様子を確認する。どうやら彼女は面舵を取ったらしい。敵機に舷側を向ける形で舵を切り、対空砲火を集中させる狙いがあるのだろう。
「航海、面舵二〇、機関増速二十四ノットとなせ!」
「宜候、おもーかぁーじ!」
大和型戦艦の舵の効きは、その幅広い船体と六万九〇〇〇トンという膨大な慣性によって非常に悪い。舵輪を回してから実際に舵が利き始めるまでに一分四〇秒程度はかかる。
「接近中の敵機、本艦に向かってきます!」
「そう来たか!」
古村に驚きはなく、むしろ不敵な笑みが浮かぶ。敵艦爆は、こちらの対空砲火を減殺することで雷撃隊のために進路を開こうとしているのかもしれない。
だとしたら、その意気は買ってやろう。
古村は自らの目で敵艦爆の動きを追っていた。武蔵の針路変更により、敵機は緩降下しながらその軌道を修正している。
武蔵は遠心力によってかすかに左に傾斜しながら右旋回を続けていた。ある意味で、単調な動き。
敵機は依然として武蔵を追尾している。
焦れるような数瞬。
「敵機直上! 急降下!」
「面舵一杯! 急げ!」
見張り員の叫びと、古村が伝声管に取り付いたのは同時だった。
「宜候、おもーかぁーじ一杯! 急げ!」
次の瞬間、武蔵の傾斜と遠心力はさらに深まった。面舵二〇度からさらに一杯(三十五度)に舵を切ったためだ。艦橋のほぼ最上にある防空指揮所にも、振り落とされるのではないかと思うほどの遠心力がかかる。
武蔵の艦首が海面を切り裂き、盛大に水しぶきを吹き上げていく。
武蔵は、その巨体からは想像も出来ないほど軽快に旋回していった。
大和型の舵の効きは遅い。だが、主舵と副舵を直列配置にしている影響で、一度舵を切ってしまえば最小旋回径五八九メートルと、非常に小回りの利く戦艦なのである。
古村は艦長として武蔵に着任して以来約一ヶ月、この艦の舵の特性を完全に把握していた。
急激な転舵による速力の低下も、古村は予め機関に増速を指示することで防いでいる。
武蔵の面舵一杯の転舵に対して、降下を始めたドーントレスは何も出来ない。一度降下を初めてしまえば、重い爆弾を抱えたまま引き起こしをすることが出来ないのだ。そのようなことをすれば失速してしまう。
目標が逸れていこうとも、爆弾を投下するしかない。
結果、ドーントレスの投下した一〇〇〇ポンド(約四五〇キロ)爆弾は、武蔵の左舷一〇〇〇メートルほどに虚しく水柱を立てるだけに終わった。
だが、米軍はそれで諦めたわけではなかった。
八機のドーントレスの内、最初に降下を始めたのは四機。残りの四機は先に降下した機体の弾着を修正するような形で、面舵一杯を切り続ける武蔵の未来位置への急降下を開始した。
「青々(緊急右舷四十五度回頭)!」
だが、古村は敵機の動きからそれすらも読んでいた。僚艦に右舷緊急転舵を知らせる信号汽笛が二度鳴り響き、武蔵は面舵一杯からさらに深く転舵する。遠心力が一層きつくなり、艦の傾斜も増す。高角砲も機銃も、これでは射撃を停止せざるを得ない。
武蔵はその軽快な舵取りにより、残る四機の爆撃も難なく躱してしまった。水柱が、同じく左舷に立ち上る。
「舵戻せ!」
「宜候、もどーせー!」
面舵転舵によって三六〇度一周しようとする瞬間に、古村は武蔵の針路を戻す指示を下した。航海長が当て舵を取り、盛んに対空砲火を撃ち上げる隼鷹の左舷を守る配置に戻ろうとする。
だが、それで彼女の役割が終わったわけではなかった。
「敵雷撃機、本艦に向かってきます! 左四〇度、距離六〇〇〇!」
九七艦攻とは似ても似つかないずんぐりとした外見の雷撃機四機が、武蔵の左舷側から接近していた。どうやら隼鷹を雷撃しようとしたのだろうが、武蔵の巨体が邪魔でこちらに目標を変更したらしい。
四機の雷撃機は海面すれすれを飛行していた。一部の高角砲や機銃が照準を雷撃機に向けるが、墜ちる機体はない。
敵機の速度が時速四〇〇キロとして、射点となる距離一〇〇〇メートルに到達するまで五〇秒程度。さらに雷速四十八ノットとすれば、敵機の魚雷投下から武蔵へ命中するまで四〇秒程度しかない。
時間的猶予はわずか九〇秒。
「航海長、当て舵のまま舵を切り続けろ!」
面舵を取っていた武蔵は、針路を戻すために当て舵として取り舵に切っていた。古村はそのまま取り舵を切り続けろと命じたのである。
彼は直感的に、魚雷が到達するまでの時間を計算していたのだ。むしろ九〇秒も時間があるのならば回避は余裕だとすら思っている。なにせ、武蔵はすでに当て舵のために取り舵を切っていたのだ。彼女の艦首が左に振られるまで、さほど時間はかからない。
敵機は盛んに対空砲火を上げる武蔵に怖じ気づいたのか、まだ距離一五〇〇メートルもある地点で魚雷を投下した。そのまま、退避行動を取ろうとする。
だが、逆にこの回避機動はアヴェンジャーにとって悪手であった。旋回によって速度が落ちる上に、面積の大きい横腹を武蔵の対空砲に晒す結果となったのである。結果、これまでほとんど効果を上げていなかった高角砲や機銃が、二機の敵機を撃墜した。残りの二機も、白煙を引きながら輪形陣の外へと退避していく。
日本海軍はマレー沖海戦での戦訓から、雷撃機は魚雷投下後も針路を変えず、敵艦の上空を飛び抜ける戦法に変えている。その方が、逆に被弾面積・被弾確率を低下させることが出来るからだ。
連中はそうしたことを知らないか、単に搭乗員が未熟なだけなのだろうと古村は思う。
魚雷投下の地点は武蔵からかなり離れていたので、彼は余裕の表情で迫り来る雷跡を見ていた。敵機の投下した四本の魚雷に対し、武蔵は艦首を向けることで被弾面積を最小にしようとしている。
しかも、敵機は速度を十分に落とす前に魚雷を投下してしまったのか、四本あるはずの雷跡が三本しかない。魚雷が海面に突入した時の衝撃で、上手く作動しなかったのだろう。
やがて、魚雷は武蔵を挟み込むような形で後方に消えていった。
そして、それが実質的に対空戦闘の終了を告げるものとなった。
第二艦隊輪形陣内部まで侵入した敵機は確かにあったが、敵編隊全体から見ればかなりの少数であった。多くはF6Fを撃退して追いすがってきた直掩隊に撃墜されていたのである。
各艦からの撃ち上げられる対空砲火もなくなり、輪形陣周囲に浮かぶ砲弾炸裂による黒煙もやがて風に流されて消えてゆく。
「内務長より報告。本艦の損害、皆無。至近弾による浸水も確認されず。ただし、機銃員七名が至近弾の弾片により負傷しました。戦死者はおりません」
「報告、ご苦労」
古村は頷くと、ほぅと一息ついた。内務科はダメージ・コントロールを担当する部署である。そこから報告によれば、負傷者はいるが戦死者はいないという。
武蔵初の戦闘としては、上首尾だろう。流石に今後も戦死者皆無とはいかないだろうが、部下の死は少なければ少ないほどいい。ひとまずは安心していいだろう。
「第二艦隊司令部より、被害の集計が出ました。飛鷹が飛行甲板、着艦制動装置損傷により航空機発着不能なるも航行に支障なし。龍鳳、伊勢、摩耶に至近弾あるも損害軽微とのことです」
「飛鷹が……」
さっと古村が飛鷹の航行する方向を向けば、彼女は特に黒煙を吐いている様子もない。一見したところでは、被害らしきものがないように感じる。
実際のところ、飛鷹に直撃弾は発生していない。しかし、至近弾によって吹き上げられた弾片が商船改造であるが故に薄い舷側装甲を貫通し、飛行甲板やそこにある着艦制動装置を下から貫いたのである。
このため、喫水線下の損害は極めて軽微であったものの、航空機の発着が不可能となってしまったのである。
これで、第一機動艦隊は戦列から中型空母一隻を失ったことになる。
とはいえ、前衛である第二艦隊が敵の攻撃を吸収したことで、後方の翔鶴、瑞鶴らには損害がなかったことは幸いである。
こちらの攻撃隊はどうだ?
回避運動のために乱れてしまった輪形陣を元に戻すようにとの第二艦隊司令部からの命令を実行しながら、古村は西の空を見つめていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
上空で編隊を分けたジャップの編隊を、アイオワ艦橋にいるスプルーアンスは冷めた感情と共に見ていた。
敵編隊を阻止すべき味方戦闘機はいない。
輪形陣全周を取り囲むように襲撃機動に入っている
エセックスのFDOの下には、救援を求める直掩隊搭乗員たちの悲鳴が舞い込んでいると言う。
イギリス東洋艦隊に戦闘機の救援を依頼したが、未だ姿を見せていない。少なくともこの空襲には間に合わないだろう。
スプルーアンスは自身の率いる任務部隊が陥りつつある状況を、いささか自虐的に受け入れていた。
イギリス東洋艦隊をあえて北方寄りに配置して、ジャップのベンガル湾の索敵網に引っかかることを期待していたというのに、発見されたのは自分たちが先である。東洋艦隊をジャップの機動部隊に対する囮にするはずが、逆にこちらが敵の攻撃を引きつけることになってしまった。
しかも、東洋艦隊を北寄りに配置し、さらに彼らがベンガル湾方面に突出している現状では、イギリス人がジャップの機動部隊を撃破することは望めない。艦載機の航続距離が足りないのだ。
スプルーアンスの思惑が、すべて裏目に出た形である。
一方で、彼の明晰な頭脳はこの窮状にどこか納得してもいた。再建途上の艦隊を投入したところで、ジャップに各個撃破の機会を与えるだけなのだ。十分に戦力の整えられた機動部隊が合衆国にあれば、策を弄することもなく、正面からジャップの空母部隊を撃滅出来たはずである。
これで第五十一任務部隊がジャップの機動部隊に打撃を与えられなかった場合、自分たちは何のためにインド洋に派遣されたのかが判らなくなってしまう。
「提督、航海司令塔に移られては?」
参謀長のムーア大佐が、そう進言する。前部檣楼内部でも、特に分厚い装甲に覆われた場所への移動を勧めているのだった。
「いや、私はここにいるよ。砲戦ならばともかく、空襲下では艦隊の状況を逐一把握せねばならんのでね」
スプルーアンスは自らの参謀に軽く手を振った。
「方位三〇、ヴァルおよそ十機、突っ込んで来ます!」
「対空戦闘開始!」
見張り員の叫びに応じるように、マックレア艦長が命令を下す。
この瞬間、第五十一任務部隊は第一機動艦隊の放った第一次攻撃隊との対空戦闘を開始したのだ。
◇◇◇
攻撃隊長・江草隆繁少佐の乗る九九艦爆から、編隊に対して「トツレ(突撃隊形作れ)」が送られた。
江草少佐が直率する飛龍隊は輪形陣東の戦艦、翔鶴隊は北側の戦艦、瑞鶴隊は南側の戦艦をそれぞれ目標とするように指示が出される。隼鷹、飛鷹隊に関しては適宜、巡洋艦を目標とすることとされた。
敵の輪形陣を取り囲むように、六十三機の九九艦爆が攻撃のために緩降下を始める。輪形陣全周から襲撃することで敵の対空砲火を分散させようとしているのだ。
「零戦隊には感謝しかないな」
九九艦爆の操縦席で、江草はにやりと笑みを零す。警戒すべき敵の戦闘機は、まったく艦爆隊に手出し出来ずにいるのだ。
お陰で、彼の率いる艦爆隊は容易に敵艦隊に取り付くことが出来た。
第二次ソロモン海戦や南太平洋海戦に比べれば、遙かに楽な戦いだ。
とはいえ、江草には油断も慢心もない。敵戦闘機の姿はなくとも、眼下の敵艦隊は盛んに対空砲火を撃ち上げてきているのだ。付近で炸裂した砲弾の衝撃が、ビリビリと風防を震わせる。
インド洋の空には、死と硝煙の臭いが色濃く立ち上っていた。
高度三五〇〇メートル。
「艦爆隊、突撃開始!」
江草の叫びと共に、後部座席の石井樹特務中尉がしきりに電鍵を叩く。
「トトト……(全軍突撃せよ)」
この瞬間、第五十一任務部隊の輪形陣を取り囲む九九艦爆が、米艦隊の撃ち上げる対空弾幕を突き破って一斉に目標に向けて急降下を開始した。
機体後部を真っ赤に塗装した江草機も、金星エンジンの轟音とダイヴブレーキの空気を切り裂く鋭い音を背景に急降下を開始する。
照準器から覗くのは、何とも細長い印象を与える戦艦だった。南太平洋海戦や第三次ソロモン海戦で見たずんぐりとした印象を与えるサウスダコタ級とは明らかに違う。
敵の最新鋭戦艦、確かアイオワという名前だったか。
対空砲火の黒煙を突き破りながら、江草はそのようなことを考えていた。
米海軍の最新鋭戦艦ならば、相手にとって不足はない。こいつらが南太平洋海戦のように味方の艦攻隊に大打撃を与える前に、対空砲火を破壊してやろうと思う。
曳光弾混じりの敵弾が、機体の後方に抜けていく。
体が座席から浮き上がりそうになるのを抑えながら、江草は急角度で自らの愛機を降下させる。
後方確認のための鏡に、対空砲火の炸裂とは違った爆発が映った。
「三番機、被弾!」
後部座席の石井特務中尉が、感情を押し殺した固い声で報告する。だが、今は無視するしかない。
照準器の中の敵戦艦が、どんどん大きくなっていく。
高度はあっという間に二〇〇〇を切り、一〇〇〇を切る。
両用砲だけでなく機銃の火箭まで加わり、まるで敵艦の砲口すべてが自分に向けられているかのような錯覚をもたらす。
米軍の対空砲火は相変わらず熾烈だ。だが、そんな対空砲火に突っ込むのも三度目ともなれば、いささか感覚が鈍化してくる。
発動機の轟音、空気を切り裂く鋭い音、対空砲火の炸裂音。
空間を圧するような騒音の中で、江草は照準器からはみ出るほど大きくなった敵戦艦を見据える。
敵戦艦の艦首から接近する理想的な降下。
投下高度である四〇〇メートルまでほんの一瞬。
「用意―――」
二五番(二五〇キロ)爆弾の投下レバーに手をかける。
高度計が四〇〇を指したその瞬間。
「てっ!」
刹那、九九艦爆の胴体下から二五〇キロ爆弾が切り離され、同時に江草は操縦桿を引いて機体を引き起こす。
全身の血液が足から抜けていくような、強烈な遠心力。一瞬、視界が黒く染まる。
視界が元に戻った時には、彼の九九艦爆は海面すれすれを飛行していた。
敵艦の対空砲火はほとんど上空に向けられていたので、水平方向に対する対空射撃が思ったよりも少ない。
江草は驚いたように機銃をこちらに向けようとする駆逐艦の乗員の顔が見えるような高度で米軍の輪形陣から脱出を果たす。
ある程度距離を取って、再び高度を上げる。攻撃隊長たる自分は、戦果を確認せねばならないのだ。
「命中、命中です! 敵アイオワ級に命中六を確認!」
自身よりも一足先に敵艦隊の様子を観察していた石井特務中尉が、はしゃぐように声を上げた。
機体を敵艦隊全体が俯瞰出来るような体勢に動かす。すると、江草からも敵の輪形陣の様子が見えた。
中心に位置する空母を取り巻くように護衛している戦艦、その三隻から黒煙が上がっていた。巡洋艦と思しき艦影からも、黒煙が噴き上がっている。
少なくとも、恐るべき数の対空火器を備えた敵戦艦にある程度の打撃を与えたと見て間違いないだろう。
自分たちは確実に、雷撃隊の進路を啓開出来たのだ。
やがて投弾を終えた機体が集合すると、赤い江草機を中心とする編隊は第一機動艦隊への帰路についた。
だがそれは、第五十一任務部隊にとってさらなる災厄の到来を告げるものに過ぎなかったのである。
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