22 インド洋の旭日旗

 ベンガル湾の要港、カルカッタに突如として吊光弾の光が降り注いだ。

 日本海軍によるインド洋での通商破壊作戦によって、かつての賑わいを失った港が眩い光に包まれている。

 それと同時に、市街地にけたたましい空襲警報が鳴り響く。市民たち(イギリス人とインド人で居住区が分かれている)が、慌てた様子で付近の防空壕へ逃げ込もうとする。

 この地はすでに、何度か日本軍による空襲に見舞われていた。ただ、それほど大規模な空襲はなかったので、市街地も港湾施設もほとんど無傷であった。

 今回もそうした空襲の一つだろうと、市民たちはある意味空襲慣れした頭でそう考えていた。

 だが、市民たちはこの夜、これまでの空襲などとは比べものにならない恐怖に晒されることになった。

 突如として起こる、地鳴りのような衝撃と轟音。

 市民たちが逃げる足を止めてその方向を見てみれば、港湾部に巨大な爆発が起きていた。しかも、それは一つではなく、複数の火柱が連続して発生していた。そのたびに、鼓膜を裂くような轟音と爆風が押し寄せる。

 市民たちは嫌でも、これまでとは違った何かが起こっていることに気付かざるをえなかった。

 幸いにして、今のところ市街地には被害がない。

 彼らは必死になって、自身の身を守ってくれるだろう防空壕へと急いだ。






「弾着観測機より入電。カルカッタの港湾施設の破壊を確認したとのことです」


「こちら見張所。港湾施設にて大規模な火災が発生している模様」


 戦艦山城艦橋で、早川幹夫艦長は報告を受けていた。


「撃ち方止め!」


「宜候。撃ち方止め!」


 陸地を向いていた十二門の三十六センチ砲が沈黙する。


「一水戦司令部より入電。『湾内ヨリ退避ヲ図リタル敵船舶ノ掃討ニ成功セリ』。以上です」


「ふむ、これでカルカッタの連合軍を無力化出来たと考えてよかろう」


 攻略部隊司令・阿部弘毅中将が参謀たちに確認するような口調で言った。

 攻略部隊とはいっても、現在、艦隊は輸送船団を伴っていない。カルカッタは上陸目標ではないからだ。ただ一方で、陽動としてビルマ方面から第十五軍がインド・アッサム地方に向けて進撃を開始している。

 カルカッタへの艦砲射撃は、その側面援護のようなものである。


「当初の作戦目標は達成した。夜明け前までに、メルギー方面へ退避する。艦隊針路一三〇度」


「宜候、針路一三〇度。面舵」


 山城を旗艦とする十隻以上の艦隊は、速力を上げつつマレー半島方面へと退避を開始した。

 セイロン島トリンコマリーには、英軍の飛行場が確認されている。しかし、セイロン島のイギリス空軍は日本による通商破壊作戦の結果、燃料や予備部品の不足を起こしているらしく、活動は低調であった。

 とはいうものの、鈍足の旧式戦艦を中核とする艦隊を長く敵空襲圏内に留めておく必要はない。

 阿部はそう判断し、出撃拠点となっているマレー西岸のメルギーへの帰投を命じたのだ。アンダマン諸島ポートブレアには基地航空隊である第二十一航空戦隊が配備されており、夜明け前までには零戦隊の上空直掩を期待出来る海域にまで到達することが出来るだろう。

 早川艦長としても、特に異論はない。元々、そういう作戦計画であるからだ。

 現在、一九四三年四月十八日。

 時刻は二三三〇時を過ぎたところ。

 攻略部隊は上陸船団の護衛と上陸援護の他に、ベンガル湾での陽動作戦を任務としていた。今回は陽動のために出撃しており、輸送船団は伴っていない。

 崎戸丸、佐渡丸などの高速輸送船で構成された上陸船団は、上陸部隊である陸軍第四十八師団などと共に、未だメルギーに在泊している。

 カルカッタ砲撃と第十五軍のインド侵攻で、連合軍艦隊をベンガル湾に誘き出せるかどうか。

 もっとも、誘き出せたとしてもそれを撃滅するのは阿部の役割ではない。旧式戦艦二隻を基幹とする艦隊では、十六インチ砲を搭載する最新鋭戦艦を擁する米艦隊に対抗出来ないのだ。

 空母も保有していないため、空襲を受けた場合はポートブレアの零戦隊の上空直掩に頼るしかない。


「どうか頼みましたよ、近藤長官、小沢長官」


 阿部は、第一機動艦隊が存在しているであろう南の方角を見つめて、そう呟いた。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 ビルマの日本軍がインドへと侵攻を開始したという報告と、カルカッタが日本艦隊による艦砲射撃を受けたという報告が寄せられたのは、ほぼ同時であった。


「いよいよ、日本軍は行動を開始したということです」


 インド洋中部、アッズ環礁にまで進出した連合軍艦隊は、イギリス東洋艦隊旗艦キング・ジョージ五世艦上で作戦会議を開いていた。

 根本的な問題として、インド洋は広い。太平洋には及ばないが、広いのである。

 キリンディニに居続けては、ジャップの艦隊に対して迅速な対応は取れない。

 また、港が枢軸軍の潜水艦に包囲される危険性もある(この時期、ドイツ海軍の北極熊戦隊、海豹戦隊と名付けられたUボート部隊もインド洋に進出していた)。これまでにも、英東洋艦隊はインド洋上で船団護衛中の戦艦リヴェンジを潜水艦の雷撃によって失っている。インド洋には護衛空母が存在しないため、大西洋と違って艦隊の対潜警戒能力は極めて低いのだ。潜水艦に神経質になるのは必然といえた。

 さらに、すでにキリンディニは夜間に何度もジャップの飛行艇と思しき機体による偵察を受けていた。

 こうしたことから、敵襲を警戒するのは当然の措置であった。

 キリンディニから約三〇〇〇キロ。モルディブ諸島の南端に浮かぶアッズ環礁は、殺風景なことに目をつむれば艦隊泊地としては理想的な立地であった。ただし、殺風景ということは乗員に対する娯楽・慰安施設がないということでもあり、これはこれで深刻な問題である。

 とはいえ、サマヴィルもスプルーアンスも、アッズ環礁を恒久的な艦隊泊地とするつもりはない。あくまで、日本艦隊を迎撃するための一時的な泊地として利用しているだけである。


「昨夜遅く、カルカッタが日本戦艦による艦砲射撃を受けました。市街地に大きな被害はありませんでしたが、港湾施設は壊滅状態です。また、ビルマから侵攻する日本軍に対しても、補給不足から劣勢との報告が入っております」


「合衆国の諸君、事態は最早一刻の猶予もないと考えてよいだろう」


 宣言するように、サマヴィルが言う。東洋艦隊の参謀たちも、どこか焦燥感の滲む表情をしていた。


「サマヴィル提督、そうは言いますが、日本軍の攻撃目標が未だ不明確なままです。出撃をするにしても、空振りで終わってしまっては意味がありません」


 スプルーアンスの言葉は、そのまま現在の英米連合艦隊の情報不足を表している。

 実はアメリカもイギリスも、日本海軍の作戦目的がインド洋であることは判っているのだが、具体的にどこへやって来るのかが判らないのだ。いかに日本海軍の暗号を解読出来るとはいえ、限度があったのだ。

 まるでミッドウェー海戦と同じ状況だ、とスプルーアンスは思う。あの時も、暗号は解読出来ていながら、日本海軍がどこの攻略を目指しているのか不明であったのだ。最終的には日本軍がミッドウェー攻略を目指していることが判明したが、今回はそうではない。

 日本軍が行動を起こしたにも関わらず、その目的地が不明なままなのである。


「ビルマから侵入する日本軍は明らかに陽動です。いえ、インド侵攻は本気なのかも知れませんが、インド戦線全体でみれば、囮に近い役割を持っていると考えられます」


 インド・ビルマ国境付近を守備する英軍を支援するためには、ベンガル湾の制海権・制空権の確保が絶対に必要である。つまり、日本軍はこちらをベンガル湾に誘い込むのが目的だといえるのだ。

 敵機動部隊の所在は未だ不明だが、アンダマン諸島ポートブレアには日本軍の基地航空隊が置かれている。不用意にベンガル湾へ侵入することは危険だった。

 航続距離の長い零戦ジークならば、アンダマン諸島から半径八〇〇キロ圏内を航続圏内に収めることが出来るだろう。双発の一式陸攻ベティならば、それよりも行動半径は広い。


「日本軍がインド洋での制海権確保を目指していることははっきりしています。しかし、攻略目標が判らなければ、十分な迎撃態勢はとれません」


 インド洋には、日本軍の攻略目標となりそうな地点が多く存在する。

 セイロン島は勿論だが、日本がガダルカナルを占領して米豪の分断を図っていたことを考えれば、オーストラリアに近いココス諸島の占領を企図している可能性もある。この諸島を占領されてしまえば、ガダルカナルが未だ日本軍の手にあり、南太平洋での通商破壊作戦を継続していることも考え合わせると、オーストラリアは東西から孤立することになるのだ。

 また、インド洋中央に浮かぶチャゴス諸島、セイシェル諸島も有力な候補となる。マダガスカルも、インド洋の拠点として重要だ。

 あるいは、可能性は低いだろうが、そのままインド洋を横断して陸軍部隊をヨーロッパ戦線に送り込むということも考えられる。

 バクー油田を攻略したいドイツ軍にとって、兵力は多ければ多いほどよい。アフリカを日本やイタリアに任せて、ロンメル率いるドイツ・アフリカ軍団を東部戦線に転用する可能性も、考えられないこともないのだ。

 つまり、現状ではインド洋中央部のアッズ環礁近海を不用意に動くべきではない。

 この環礁の位置ならば、ベンガル湾でもココス諸島でもマダガスカルでも、どこにでもすぐに救援に駆けつけることが出来る。また、アラビア海にイタリア艦隊が進出した場合の対処も距離的に可能であった。

 イギリス軍には出血を強要してもらうことになるが、やむを得ないとスプルーアンスは考えている。

 ミッドウェー海戦では、ミッドウェー島の航空隊がジャップの空母部隊を引きつけてくれたお陰で勝利出来たようなものなのだ。

 ここは、陸上の友軍を囮とする冷徹な判断が必要な時なのだ。


「戦術的に見れば、スプルーアンス提督の言う通りでしょうな」


 だが、サマヴィルは納得していないようだった。


「ですが、戦略的・政治的に見ればまた違います。我がインドは、大英帝国最大の植民地です。そこが日本軍によって脅かされているとなれば、政治的には大きな失点となります。例え陽動であろうと、インドを脅かすものはすべて撃退しなければならないのです」


 切実さが感じられる同盟国の提督に、スプルーアンスは内心で溜息をついていた。

 状況は、ガダルカナルの時と同じだ。ミッドウェー海戦後、合衆国がガダルカナルへの反攻作戦を開始したのも、政治的な理由が大きい。オーストラリアの連合国脱落を阻止するため、ミッドウェーで勝利してなお戦力的に劣勢な状況で、合衆国は反攻作戦を開始したのだ。

 純軍事的に考えれば、空母戦力が整う一九四三年八月以降に対日反攻作戦を実施するのが適切だったにも関わらず、である。

 戦術行動が政治に縛られ、最善の選択が出来なくなってしまうことに、スプルーアンスとしては歯がゆさを禁じ得ない。

 もっとも、イギリス側の発言にも一理あった。

 現在、インドでは反英闘争が激化しているのだ。根本的な原因は、イギリスがインドの独立運動家への対応を誤ったことだ。

 一九四二年八月九日、アジア戦線でのイギリス軍の敗北によってインドでの反英闘争が広がることを恐れたインド総督府は、ガンディーやネルーといった主立った運動家を軒並み逮捕した。しかし、これはかえってインド人にイギリスへの反発を植え付ける結果となった。以後、インド洋で日本海軍の大規模な通商破壊作戦が開始されると、インド人たちの反英闘争はより一層激しいものとなっていった。

 当然、こうしたインド情勢は日本側も把握しているらしく、航空機による伝単(ビラ)の散布や反英武装蜂起を促すラジオ放送などを行ってインド人の反英感情を煽っていた。

 だからこそ、これ以上の敗北は政治的に許されないというサマヴィルの考え方にも頷ける点はあるのだ。


「セイロン島の航空部隊からは、日本空母艦隊、あるいは輸送船団を捕捉したという情報があるのですかな?」


 セイロン島にはイギリス空軍の戦闘機ハリケーンが約六〇機、双発爆撃機ブレニムが約二〇機、海軍の復座戦闘機フルマー約二〇機が配備されている他、アメリカから貸与されたカタリナ飛行艇が六機、存在している。

 これらの航空部隊が、燃料や予備部品に乏しい中、日本艦隊の捜索に当たっているのである。とはいえ、少数のカタリナ飛行艇を除いて、その索敵範囲はセイロン島から四〇〇浬(約六四〇キロ)程度でしかない。ブレニム爆撃機の航続距離が短いためであった。索敵半径が四〇〇浬では、ジャップの艦隊を発見した頃には、連中の艦載機がセイロン島を航続圏内に収めているだろう。


「未だ、そうした報告はもたらされておりません」スプルーアンスの問いかけに、東洋艦隊の参謀が答えた。「ただ、日本側もベンガル湾での索敵を強化しているらしく、索敵中の我が軍爆撃機が日本軍飛行艇とすれ違う、あるいは空戦になるといった事例も発生しています」


「……」


 ミッドウェー勝利の立役者は、しばし思案顔になる。

 アッズ環礁近海を不用意に離れるべきではない。その考えを、スプルーアンスは変えるつもりはない。

 ただし、このままアッズ環礁に籠もって艦隊兵力の温存を図ることも、論外である。それでは確実に日本軍はインド洋のいずれかの地点の攻略に成功し、最終的に米英連合艦隊はインド洋から撤退せざるを得なくなる。

 また、真珠湾攻撃のようにこの泊地それ自体がジャップの空襲を受ける危険性もある。当初、ジャップはアッズ環礁に設けられた泊地の存在を知らなかったようだが、インド洋での通商破壊作戦の最中、一機の水偵がこの泊地の存在を察知したという。だから、泊地に停泊する形で悠長に日本空母部隊の発見の報を待つわけにもいかないのだ。

 かといって、ベンガル湾方面に出撃することも日本軍の思惑に乗るようで危険である。ベンガル湾に侵入すれば、確実にアンダマン諸島の日本軍基地航空隊も相手取らなければならなくなるのだ。

 敵機動部隊と敵基地航空隊を同時に相手にすることが不可能であるのは、日本海軍がミッドウェー海戦で証明している。

 彼らと同じ轍を踏むつもりは、スプルーアンスにはない。

 出来ればセイロン島の基地航空隊の支援が受けられる状況下での決戦が望ましいが、爆撃機二〇機程度では大した支援は期待出来ないであろう。これまで、通商破壊を行うジャップの水上艦隊に何ら損害を与えられていないことから考えても、それは明らかだ。

 広大なインド洋の索敵と敵艦隊への攻撃を両立させるには、爆撃機二〇機は少なすぎた。

 戦闘機隊もトリンコマリーとコロンボに分散して配備されているので、基地防空で手一杯のはずである。

 セイロン島の基地航空隊も囮程度に考えておいた方がいいだろうと、スプルーアンスは判断した。実際問題、セイロン島の基地航空隊と東洋艦隊は、指揮系統が分かれているため共同作戦が困難だった。索敵に成功してくれれば、それで満足すべき程度の戦力なのだ。

 となれば、取り得る手段はあまりない。


「セイロン島-ココス諸島の中間地点まで進出し、インド洋に進出してくる日本艦隊を待ち伏せする。現状で取り得る最善の策はそれしかありません」


 その地点まで進出すれば、日本艦隊がインド洋のどの地点の攻略を目指していようとも、迅速に対応することが出来る。

 ジブチのイタリア艦隊への対抗は難しくなるが、空母を伴わない水上艦隊など、この際無視してよい。


「スプルーアンス提督、それではベンガル湾での航空作戦が難しくなる」


 一方のサマヴィル中将は、眉根を寄せて難色を示す。確かに、空母艦載機の航続距離を考えれば、スプルーアンスの提案した海域ではベンガル湾を行動圏内に収めることが出来ない。特に航続距離の短いイギリス空母部隊ならばなおさらである。


「最終的に、インドからジャップを駆逐すればそれで済む話です」


 だが、政治的制約の中で戦術的自由を行使するためには、スプルーアンスの作戦案しかないのだ。


「……」


「……」


「……」


 サマヴィルを始めとする東洋艦隊司令部の者たちは、一様に渋い顔をしていた。

 彼らは、スプルーアンス率いる第五十一任務部隊という助力がなければインド洋を守ることすら覚束ない。中将としてサマヴィルの方が先任であろうとも、実質的な立場・発言力という点ではスプルーアンスの方が上なのだ。だから、彼の作戦案を即座に否定することが出来ない。


「……では、東洋艦隊の配置をベンガル湾寄りとしましょう」


 とはいえ、交渉事に多少の妥協は必要であることを心得ているスプルーアンスは、自らの主張を強引に押し通すようなことはしなかった。


「東洋艦隊は日本艦隊のベンガル湾、セイロン島来襲に備え、我が第五十一任務部隊はセイロン島、ココス諸島への来襲に備える。戦力の分散となりますが、両艦隊の配置を適切にすれば、相互に援護することは可能なはずです」


「うむ、それならばよかろう」


 内心で安堵の息をつきながら、表面上は重々しくサマヴィルは頷く。

 そうした様子を見て、スプルーアンスは若干の危惧を覚えた。この同盟国の提督は、いったいどこを見て戦っているのだろうか、という疑問が湧く。どうも、日本軍ではなく本国やインドを見ているような気がしてならない。

 エジプトを失った今、連合王国の人間が植民地の失陥に神経質になることは判らなくもないが、迫り来る脅威を前にして、そうした姿勢は改めて欲しいと思う。

 とはいえ、スプルーアンスもイギリス人の心情を慮って東洋艦隊をベンガル湾方面に配置するほど善人ではない。空母戦力において合衆国にひどく劣る東洋艦隊を、日本空母部隊に対する囮にしようという冷徹な計算もある。

 日本海軍によるインド洋通商破壊作戦の結果、ベンガル湾の制海権・制空権はほとんど日本側が握っているようなものだ。となれば、日本軍の索敵網に先にかかるのは東洋艦隊である可能性が高い。

 ミッドウェーのような幸運が何度も訪れると考えるほどスプルーアンスは楽観主義者ではないが、少なくとも幸運を呼び込むための努力を怠るつもりはない。

 それに巻き込まれる東洋艦隊はある意味貧乏くじを引かされたようなものだが、自ら望んで引いた貧乏くじである。罪悪感を覚える必要はなかろう、とスプルーアンスは冷めた感情と共にそう思った。






 一九四三年四月二十日、アメリカ第五十一任務部隊とイギリス東洋艦隊は日本艦隊との決戦を求めてアッズ環礁を出撃した。

 そして、その報は環礁を監視していた潜水艦によって、ただちに第一機動艦隊に伝えられたのである。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 四月二十日、帝国海軍第一機動艦隊はバリ島-ロンボク島間のロンボク海峡を突破してインド洋への進出を果たした。

 空母翔鶴に掲げられた旭日旗が、勇壮にはためいている。

 小沢治三郎中将にとっても、旗艦翔鶴にとっても、二度目のインド洋であった。

 一度目は馬来部隊を率いて、ベンガル湾での通商破壊作戦を行った昨年のセイロン島沖海戦である。

 あれからちょうど一年。

 自分が念願ともいえる空母機動部隊を率いてこの海に戻ってきたことに、何ともいえない感慨を覚える。

 それと同時に、運命の皮肉というものを小沢は感じてもいた。

 それは、出撃時期のことである。

 一年前のインド洋作戦の際も、南雲機動部隊は第五航空戦隊の到着の遅れなどの影響で、出撃を五日遅らせていた。

 今回のインド洋作戦も、本来であれば四月十日にはインド洋に進出、十五日にはセイロン島に上陸しているはずであった。

 だが、作戦発動直前になって大本営陸軍部からある要望がなされたため、陸海軍間の調整に手間取って出撃が遅れていたのだ。

 大本営陸軍部からの要求とは、ドイツに身を寄せていたインドの独立運動家スバス・チャンドラ・ボース氏のアジア到着と自由インド政府の樹立を宣言してから、インド洋作戦を実施すべしというものであった。

 ボースに自由インド政府の樹立を宣言させれば、陸軍のインド侵攻の大義名分も得られ、現地のインド人からの協力も望めるであろうという観測から、参謀本部はこのような要望を出したとのことだった。

 だが、ボースがドイツからアジアに向かうためには、ジブチまでは空路を使えるが、インド洋を安全に横断するには潜水艦を使わなければならなかった。当然、作戦発起前に貴重な潜水艦を要人輸送に割くだけの余裕は海軍にはない。

 また、自由インド政府の樹立を宣言させるための政治工作にも時間を費やすことになるだろう。

 そうなれば、作戦の実施時期が不透明になる。

 アメリカ東海岸では新たなエセックス級空母が続々と竣工しており、海軍としては速やかな作戦実施を求めた。現地陸軍である南方軍総司令官・寺内寿一大将も、参謀本部の突然の方針転換に戸惑っていたようであり、予定通りの作戦実施を求めていた。

 寺内は元帥府に列せられている陸軍長老であり、流石に参謀本部も折れざるを得なかった。それでも、作戦計画の調整に十日ほど時間を浪費してしまったのだ。

 小沢は自身がリンガ泊地に到着した直後から寺内と個人的交友関係を築き、陸海軍間の連絡を円滑にしようと試みていた。開戦直後の南方作戦の戦訓から、陸海軍間の密な連携は必須だと考えていたからだ。

 寺内が海軍の味方をしてくれたのも、こうした小沢との交友関係が影響しているのかもしれなかった。


「失礼いたします」


 その時、艦橋に通信兵が飛び込んできた。


「ペナンの第八潜水戦隊司令部より緊急入電。『連合軍艦隊ノアッズ出撃ヲ確認ス。出撃時刻、二十日〇五〇〇』。以上となります」


「ご苦労」


 現在の時刻は、一四三〇時過ぎ。

 出撃の確認から通信が届くのに九時間以上の時間が経っているのは、潜水艦が敵の哨戒をやり過ごすために海底に沈座していて、通信アンテナを出せなかったからだろう。


「ともかくも、ミッドウェーの二の舞だけは避けなければならんな」


 敵艦隊の動向がまったく不明ということは、これでなくなった。問題は、索敵である。

 現在、艦隊はクリスマス島東方三〇〇キロの海上を航行している。アッズ環礁までの距離は直線でも二〇〇〇キロ以上はあるので、今日中に連合軍艦隊に発見される恐れはほぼないだろう。

 勝負は、恐らく明日ないし明後日。

 戦艦山城以下攻略部隊の陽動が効いているようであれば、彼らはベンガル湾を目指すだろう。ベンガル湾には飛行艇部隊である第八五一航空隊が展開しているため、連合軍艦隊がベンガル湾に出現すれば捕捉は容易だ。ベンガル湾方面の索敵は、八五一空に任せておけばいい(そもそも、第一機動艦隊は位置的な理由でベンガル湾は索敵範囲外)。

 上陸船団は四月二十二日にメルギーを出撃、二十五日にはセイロン島沖に達することになる。それまでに第一機動艦隊は敵艦隊を撃滅することが求められていた。


「参謀長」


「はっ」


 小沢に呼ばれ、第三艦隊参謀長の山田定義少将が応じる。山田はこれまで一貫して航空畑を歩んできた人間であった。


「敵艦隊の動向についてだ。私は彼らがベンガル湾ではなく、セイロン島南方に展開すると考えるが、君の考えも聞きたい」


 二人が海図台に近寄り、他の参謀たちもそれに続く。


「もし英米艦隊がセイロン島の基地航空隊の援護を期待するとなりますと、英軍戦闘機の航続距離の短さから、かなり陸寄りに展開することが考えられます」


「しかし、ミッドウェー海戦の経過を見る限りでは、米艦隊は基地航空隊の航続圏内に展開していたわけではない。今回も、米機動部隊は我が軍が飛行場を攻撃している隙を突こうと考えている可能性はないか?」


「そうなりますと、セイロン島に隠れる形、ラッカディブ海に艦隊を展開させる可能性もあります」


「インド洋の気候的特色も考えねばならん。この時期、インド亜大陸は雨期に入る。つまり、季節風は陸地に向かって吹く形だ。必然的に、陸地の近くに展開する場合は、艦載機の発進に際して風上である南方向への転舵を余儀なくされるだろう。索敵機の発進、攻撃隊の発進などと続けば、陸地からどんどん離れていく。そうなれば、あえてセイロン島近海に艦隊を展開させる意義は薄い。また、雨期による悪天候、例えばスコールなどに見舞われればそれだけで航空機の発着は不可能となる。まあ、艦隊の存在を秘匿するために陸地寄りを航行するのは有効だろうが」


「はっ」


 小沢の見識に感銘を受けたように、山田は一礼した。前任の南雲忠一中将は航空戦の指揮に関してほとんど素人であったと聞くが、この長官はそうではないらしい。航空畑を歩んできた自分としては仕え甲斐のある上官だと、彼は感じていた。


「敵艦隊は恐らく」そう言って、小沢はインド洋の海図を指で示した。「アッズ環礁、セイロン島、ココス諸島を線で結んだ三角海域にて、待ち構えているものと思われる。この海域であれば、相手がベンガル湾側から現われようが、今の我々のように南方から現われようが、柔軟に対処出来る」


「では、この三角海域の索敵を重点的に行うよう、索敵計画を策定いたします」


 山田としても、小沢長官の推測に異論はなかった。もしその三角海域にて敵艦隊を発見出来なければ、さらに北上して敵艦隊の捜索に当たればよいのだ。


「うむ、よろしく頼む」


「はっ。ただちに立案に取りかかります」


「それと、各母艦に明日以降の出撃に備えて搭乗員の休養を万全とするよう伝達するように。また、“例の装備”も明日以降で使う。その準備も怠らないようにせよ」


「かしこまりました。そのように伝達いたします」






 やがて、第三艦隊司令部の立案した索敵計画は、発光信号によって第二艦隊と乙部隊に伝達された。

 第二艦隊、第三艦隊甲部隊、第三艦隊乙部隊は、それぞれ輪形陣を組みながら、五キロほどの間隔を空けて航行していた。

 これは無線封止を行っているため、各輪形陣間の連絡に支障を来さないようにするための措置であった。

 当然、戦闘になれば各輪形陣が接近し過ぎて回避運動に支障を来しかねないため、より距離を空けることになっている。

 決戦の刻は二十一日ないし、二十二日。

 艦隊将兵の誰もが、敵艦隊との邂逅を緊張と興奮と共に待ち望んでいた。

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