4 飛龍の追撃
「ヘンダーソン飛行場は炎上、沖合にいた巡洋艦、駆逐艦各一を撃沈、か……」
空母レンジャー艦橋にて、第十六任務部隊司令官・トーマス・キンケード少将は呟いた。
ヘンダーソン飛行場は、ガダルカナル飛行場のアメリカ側の呼称である。
現在、空母レンジャーに搭載されている艦載機は合計九〇機のF4Fワイルドキャット、SBDドーントレス、TBFアヴェンジャーであった。
レンジャーの航空部隊は夜明けと共にヘンダーソン飛行場を空襲し、さらに沖合にいた水雷戦隊にも打撃を与えることに成功したのだ。
しかし、キンケードはこの成果に満足していなかった。
空母一隻の艦載機の攻撃で飛行場を完全に破壊したとは考えにくいためである。アメリカ軍であれば、被害の程度にもよるだろうが、数時間で飛行場を復旧させてしまうだろう。日本軍でも、半日あれば十分なはずだ。
攻撃が飛行場と沖合の艦艇に分散してしまったことも大きい。
そう考えると、やはり空母一隻では限度がある。レンジャーは飛行場攻撃の他にも、ガダルカナルに接近する輸送船団や水上砲戦部隊の上空援護も担当しなければならないのだ。空母一隻にかかる負担としては、大きすぎると言わざるを得ない。
さらに、退避中の損傷艦艇がエスピリットゥサントの戦闘機隊の航続圏内に入るまでの援護も必要である。損傷艦多数のために速力の低下した彼女たちは、それだけエスピリットゥサントに到着するのが遅れ、その間日本軍による空襲の脅威に晒され続けるのだ。
そして何よりキンケードが懸念していたのは、空襲中に日本の艦艇から放たれた平文の電文であった。「我、貴軍ノ溺者救助中。攻撃ハ差控エラレ度」との電文は、キンケードとその参謀たちを青くさせた。
もちろん、日本海軍の謀略である可能性もある。ただし、昨夜、あの海域で撃沈されたアメリカ軍艦艇は多数に上る。当然、多くの乗員たちが海上を漂流しているはずであった。あながち、日本海軍が空襲を避けるために使った欺瞞工作とも言い切れないのだ。
現在、この電文を受信したことに関しては厳重な箝口令が敷かれている。
真実であろうと謀略であろうと、アメリカ海軍が自国の将兵を見殺しにしたという印象を兵士たちに与えてしまっては、士気に関わってくる。
とはいえ、どこまで隠し通せるか、キンケードには疑問でもあった。
彼のそうした懸念を他所に、戦況は新たな局面へと進んでいく。
「レーダー室より報告。北西より接近中の機影を確認」
「編隊の規模は?」
「いえ、どうも一機だけのようです」
その報告に、キンケードは唇を引き締めた。
ガダルカナル攻撃から帰還した航空部隊が帰還するには早すぎる。恐らく、日本軍の索敵網に引っかかってしまったのだ。
ハルゼー中将の命令であったとはいえ、ガダルカナル攻撃は必然的に日本軍の勢力圏に接近することになる。そうなれば、発見される可能性も高かったのだ。
合衆国海軍にただ一隻残された正規空母であるレンジャー。
それが今、日本軍による空襲の危険性に晒されようとしているのだ。
「直掩隊に通信。接近する機影の敵味方識別を行い、敵であるならば通報を発される前に撃墜せよ」
「はっ!」
キンケードはそう命じつつ、内心で神に祈りを捧げた。
主よ、どうか我らをお救い下さい……。
それが虚しい願いであるとキンケードが悟ることになるのは、この数時間後のことであった。
◇◇◇
空母飛龍が二式艦偵からの報告電を受信したのは、十一月十三日〇七一二時のことであった。
「我、敵ヨークタウン級空母一ヲ見ユ。レンネル島ヨリノ方位八〇度、距離六〇キロ、速力二〇ノットニテ北上中。敵ハ巡洋艦、駆逐艦多数ヲ伴フ」
「でかした!」
その報告を聞いて、第二航空戦隊司令官・山口多聞少将は思わず指揮官席から腰を浮かしかけた。
米艦隊に空母が存在する可能性は大和などからの通信で判明していたが、索敵機はその敵空母を捕捉することに成功したようであった。
すでに飛龍の飛行甲板に並べられた航空機は、発動機を轟然と回転させていた。
飛龍の飛行甲板に並ぶのは、零戦三二型十六機、九九艦爆十二機であった。併走する瑞鶴の飛行甲板には、零戦三二型十八機、九七艦攻十機が並んでいる。
南太平洋海戦では、敵空母二隻を撃沈したとはいえ、日本も航空機と熟練搭乗員の多数を失っていた。
その損害がまだ癒えていないため、二空母の攻撃隊の編成は万全とは言い難かった。
「とはいえ、無い物ねだりをしても致し方あるまい」
山口多聞少将はそう呟いた。その目に、尾翼を真っ赤に染めた一機の九九艦爆が映る。
今回の攻撃隊の隊長を務める、江草隆繁少佐の機体である。
「艦爆の神様」と讃えられ、ミッドウェー海戦では母艦蒼龍の被弾により出撃出来ず無念の涙を呑んだ彼であったが、南太平洋海戦ではその手腕を遺憾なく発揮し、日本海軍の勝利に貢献している。
今回もまた、敵空母撃沈の殊勲を挙げてくれることだろう。
山口は先任参謀の伊藤清六中佐や加来止男艦長らを見回して、力強く命じた。
「攻撃隊、発進せよ!」
その号令一下、整備員が
整備員たちが帽振れで攻撃隊を送り出す中、最初の零戦が飛行甲板の縁を蹴って空へと飛び立っていく。
山口や加来らも、彼らと同じようにして攻撃隊の発艦を見送り、その健闘を祈った。
「我、今ヨリ全機発進。敵空母ヲ撃滅セントス」
空母飛龍から発せられた電文は、それを受信した多くの艦の将兵たちを奮い立たせたという。
◇◇◇
第十六任務部隊が二航戦からの空襲を受けようとしている時、エスピリットゥサントに向けて退避中のアメリカ艦隊も、ラバウル方面からの空襲に晒されていた。
ヘレナ艦長フーバー大佐に率いられ、エスピリットゥサントへと向かうアメリカ艦隊は、損傷艦ばかりで構成されていた。
被雷によって速力の出ない戦艦インディアナと軽巡ジュノー、駆逐艦も大小の損傷を抱えている。
艦隊速力は十二ノットであり、未だレンネル島の沖合を航行中であった。
リー少将の第六四任務部隊は、日本軍による空襲を避けるためにさらに東方に退避していた。つまり、援護は期待出来ない。
「
「援護しろ!」
損傷艦を護衛するのは、軽巡ヘレナと駆逐艦フレッチャーのみ。この二隻だけが、昨夜の海戦をほぼ無傷で乗り切っていた。
南溟の澄み切った空を、対空弾幕の炸裂による黒煙が汚していく。
米艦隊の猛烈な対空砲火を前にしても、双発の日本軍雷撃機は怯まない。フーバーから見て、狂気ともいえる超低高度で侵入してくる。
上空に、味方の戦闘機の姿はなかった。
第十六任務部隊、そしてエスピリットゥサントの航空隊に支援を要請していたが、どちらからも戦闘機を派遣してくれる旨の返信はなかった。
第十六任務部隊はジャップの偵察機に接触されたため、空母レンジャーに搭載された戦闘機は自艦隊の防空だけで手一杯だそうだ。
エスピリットゥサントの航空隊は、単純に航続距離が足りない。
現れたベティの数は、二十機前後といったところ。
しかし、上空直掩もなく、速力も出ない状況では十分な脅威であった。
狙われたインディアナは、火山の噴火の如き対空砲火を上げている。魚雷を受けただけの彼女は、艦上構造物はすべて無事であった。
そのため、サウスダコタ級の誇る強力な対空火器が全門使用可能である。
超低空でインディアナへの突進を続けるベティの一機が、炸裂した砲弾の断片を上から浴びせられて爆散した。次いで、片翼をもぎ取られた機体が海面に叩き付けられる。
さらに接近を試みるベティには、四〇ミリ機関砲、二〇ミリ機関砲が浴びせられた。
しかし、損害を無視するように突っ込んできたベティの何機からは投雷に成功。
インディアナは必死に回避運動を行おうとするが、すでに喫水線下に損傷を受けている艦である、艦長の操艦虚しく、左舷舷側に二本、右舷に一本の水柱が上がる。
「ガッデム!」
その様子をヘレナから見ているしかなかったフーバーは罵声を上げた。
「ジュノーも被雷の模様!」
見張り員が、さらに凶報をもたらす。その直後、巨大な爆発音がヘレナを襲った。
「ジュノー、轟沈!」
「……」
一瞬、フーバーは呆けた顔を見せた。弾薬庫か搭載魚雷が誘爆を起こしたことは確実だ。
実はこの攻撃は、陸攻隊のものではなかった。密かに艦隊に接近していた伊二六潜の雷撃による戦果であった。
上空に気を取られている隙を突かれた形ではあるが、この時点ではアメリカ側の誰も潜水艦の接近に気付いていなかった。
「インディアナより信号。我、出し得る速力八ノット」
これで、ラバウルの攻撃圏内から離脱するのはさらに先のことになるだろう。
フーバーは暗澹たる思いを抱いていた。
◇◇◇
第十六任務部隊司令官トーマス・キンケード少将は、自身の無力感に苛まれていた。
彼の座乗する空母レンジャーは、日本機の熾烈な攻撃に、今まさにさらされているのだ。
上空直掩のために緊急発進させた十二機のF4Fワイルドキャットは、多数の
レンジャー自身も、そして彼女を護衛する艦艇も、空を黒く染めるほどの対空弾幕を張っているが、それでも日本軍の攻撃隊を防ぐことは出来なかった。
これまで大西洋で戦ってきた乗員たちにとって、日本軍による空襲は初めての経験である。サンタクルーズ沖海戦(南太平洋海戦の、アメリカ側の呼称)で見せた猛烈な弾幕に比べると、キンケードはどこか拙い印象を受けてしまう。
特に、あの時は強力な対空火器を備えるサウスダコタの奮戦が、多くの敵機を撃墜したのだ。今回は、その頼もしい戦艦はいない。
任務部隊司令官であるキンケードは、空襲を受けてしまった時点で出来ることなど何もない。ただ艦長の操艦を信じ、敵の攻撃を回避してくれることを祈るだけだった。
「敵機、急降下!」
見張り員が悲鳴のような叫び声を上げた。
上空から逆落としに突っ込んできた
最初の命中弾は艦橋構造物のすぐ後ろにある四連装機銃座を直撃した。基準排水量一万八〇〇〇ンの船体が大きく身震いする。炸裂した爆弾は機銃員たちをなぎ倒し、多くの者が四肢や上半身を吹き飛ばされ、機銃座は肉片と血で埋め尽くされた。
衝撃はさらに続き、二発目、三発目とレンジャーを打ち据えていく。
六発目の直撃弾があったところで、衝撃は収まった。
「艦尾ボイラー室に被弾! ボイラー四基使用不能!」
その報告を受けが艦橋に届けられた時、キンケードを初めとする艦橋の者たちは絶句した。徐々に速力を低下させていくレンジャーは、敵雷撃隊の格好の標的になってしまう。
そもそも、彼女には十分な防御が施されていない。日本軍の数次にわたる空襲を粘り強く耐えた末に撃沈されたヨークタウン級に比べて、あまりに頼りない装甲しか持っていないのだ。
艦長が火災の消火と機関の早期復旧を命じたが、それは無駄な命令であった。
再び、見張り員の絶叫が響く。
「敵雷撃機、右舷!」
「左舷にも敵雷撃機!」
見れば、少数ながら見事な編隊を組んだ
「面舵一杯!」
レンジャー艦長がそう命じた直後、対空砲によって一機の九七艦攻が火達磨になって海面に激突した。だが、他の機体は何事もなかったかのように突進を続けている。
「なんて奴らだ……」
思わずキンケードは呻いた。サンタクルーズ沖海戦の時といい、ジャップの奴らは死を恐れないのか?
「敵機、魚雷投下!」
レンジャーの船体が右舷に曲がり始めるが、それは非常に緩慢な動きであった。
九七艦攻が飛行甲板すれすれを飛び抜けていく。
キンケードは海面に伸びる雷跡を、諦観と共に見つめていた。
「ジーザス!」
見張り員の誰かが罵り声を上げた。雷跡がレンジャーの航跡の中に吸い込まれるように消え、直後に蹴飛ばされるような激しい衝撃が襲ってきた。
キンケードを含め、艦橋にいた者たちがよろけ、あるいは転倒した。
そして、衝撃は一度では済まなかった。最初の衝撃が収まり切らない内に、レンジャーにはさらに右舷に一本、左舷一本の魚雷が命中した。被雷と同時に舷側に巨大な水柱が上がる。破孔から海水が奔流の如く流れ込み、機関は完全に停止、レンジャーの傾斜は急速に増大していった。発電室に浸水し、傾斜の復旧が絶望的となるに至り、艦長は自身の指揮する艦が最期を迎えつつある現実を受け入れざるを得なくなった。
「司令官」レンジャー艦長はキンケード少将に言った。「本艦はすでに戦闘力を喪失しました。沈没は時間の問題と判断します。旗艦を変更なさって下さい」
「判った」
キンケードは努めて平静な口調と共に頷いた。
彼は最も近くにいた重巡ウィチタに将旗を移したが、空母を失った彼に出来ることは限られていた。彼は麾下の駆逐艦にレンジャー乗員の救助を命じ、南太平洋方面軍と第六四任務部隊に第十六任務部隊の現状を伝えた。
「……手酷くやられたものだな」
ウィチタ艦上から傾斜したレンジャーを見たキンケードは、嘆息するように言った。レンジャーは全艦が火災に包まれており、濛々とした黒煙を空に噴き上げている。その傾斜も、徐々に角度を増していた。
珊瑚海海戦以降の空母決戦で、驚異的な粘りを見せたアメリカ海軍の空母と同じとは思えない。
レンジャーの太平洋回航について、トーチ作戦に影響を与える点から反対意見が出たが、同時にその防御力の脆弱さからも反対意見が出されていた。
結局、そうした反対意見が正しかったわけである。
トーチ作戦は二ヶ月の延期がなされ、その間にガダルカナル攻防戦に決着をつけて再びレンジャーを大西洋に戻す計画であったが、それももう叶わない。
レンジャーの喪失は、太平洋・大西洋両洋での戦局に重大な影響を及ぼすことになるだろう。これで、アメリカ海軍の保有する正規空母はすべて失ったのだ。残されたのは、航空機輸送や対潜警戒にしか使えない小型の護衛空母が大西洋に存在しているだけである。
まさか海軍上層部も、太平洋に回航し、真珠湾入港後一週間と経たずにレンジャーが撃沈されるとは予想していなかったに違いない。
「リー少将に打電してくれ。貴艦隊の奮戦に期待す、とな」
彼は望みのすべてを
同時に、彼は真珠湾を出撃するに際して感じていた不安が、再び湧き上がってくるのを感じていた。
―――神よ、TF64を守りたまえ、そして我が合衆国に勝利を与えたまえ。
「我、敵空母ニ爆弾六、魚雷三ヲ命中。撃沈確実ト認ム。一〇三〇」
江草隆繁少佐からの報告が入った飛龍の艦橋は、明るい雰囲気に包まれていた。
「これで、今度こそ米空母は全滅しました。後は、南方に発見された敵の損傷艦部隊を叩くのみです」
伊藤清六参謀が、興奮気味に進言した。
「まあ待て」と、山口はたしなめる。「まだ、敵の空母が一隻と決まったわけではない。油断は禁物だ。そして、攻撃隊の損害も判明しておらん。不用意に、航空部隊をすり潰すわけにもいかん」
山口は、これ以上の母艦航空隊の損害は許容出来ないと考えていた。
南太平洋海戦では、「雷撃の神様」とまで讃えられる技量を持った村田重治少佐を失っている。ここで江草までもを失ってしまえば、母艦航空隊の再建に不可欠な熟練搭乗員がいなくなってしまう。
とはいえ、彼の懸念は杞憂であった。
ガダルカナル島沖で溺者救助に当たっていた第四水雷戦隊が、アメリカ海軍の捕虜を尋問した結果、出撃した戦艦、空母の数が判明したのである。
これにより、日本海軍はアメリカ海軍に戦艦しか残されていないことを知る。
敵損傷艦艇群の上空直掩を担当すべき空母が存在しないことを知った山口少将は、この部隊の追撃を決意。
そして、空襲の危険性のなくなった挺身攻撃隊はさらに南下して、ガダルカナル島沖での決戦に備える姿勢をとった。
一方のアメリカ海軍第六四任務部隊も、十四日夜間のガダルカナル砲撃を期して反転。
日米初の戦艦同士の決戦の時は、刻々と迫りつつあった。
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