翼ある者の塒
翌々日の朝は、匡祐は迎えに来なかった。代わりにメアリの車が停まっている。辛うじてツバサとは流暢に会話ができるまでに解れていたが、匡祐のことを想うと胸が締め付けられてしまう。
「おはよう、マコ」
寒さからか口角から白い煙を棚引かせ、車の窓からメアリが顔を出した。何事かと彼女に近寄ってみれば、取りあえず車に乗るように促される。
「来栖は風邪で寝込んでいるそうよ」
「えっ、風邪で……!?」
わたしのせいだ。そう眞子都は自分を責めてしまう。その様子を見て取って、メアリは呆れたように伝えた。何かあったのは間違いないようだが、有力な話は聞けなかったのだ。
「彼は、何も喋ってくれなかったわ。……何かあったのね?」
ふたりが話始めても、車は動こうとはしなかった。眞子都はひとつひとつ、自分の中で片付けるように話す。掘り返していくと、あのとき何も言えなかった自分が憎らしい。
「そう」
メアリは細かく相槌を打ってくれたが、かける言葉を探っているような気がした。
「マコ、残念だけどⅡB‐SAは……ツバサでは、本当の愛には気付けないわ」
愛する者の名前を聞くと、さらに心苦しくなった。わざとメアリは眞子都が口にする名前を言ってのけて、それでも機械と人は違うと証明している。眞子都も違いに盲目的なわけではない。が、どうしても受け入れられない。
「本当の愛、って何……?」
消えるような声で必死に絞り出したのは、それだった。薄氷を踏む思いをずっと支えてきたのは他の何者でもなく、ツバサだ。独りぼっちでこれからどうしようと考えを忘れさせてくれたのは、愛しい機動召使だ。期待しすぎているのかもしれないとは思うものの、彼は、眞子都の願いなら何でも叶えてくれると言ってくれた。
「マコ……」
「わたし、ツバサが好きよ」
どうか否定しないで。人形にも意思はある。きっと存在する。憐れむような気持ちは必要ない。
子を残せないとか、婚姻届けを出せないとか、そういう肉体的な問題はどうだっていい。精神的に繋がっていれば愛は絶対に誕生する。
「わたしも好きよ、マコのことが。来栖もそう。だから、自分で世界を狭めないで」
凝り固まった意識を、ぴしりと割る。雪真っ盛りの今日も、いつかは春が来て、夏が来て、暑くなる時期が来る。硬い蕾はいつか開き、若葉が芽吹くときが来る。現在では考えられないような風景が、広がるときだってあるのだ。
「愛はたくさんある。選びなさい。誰にも負けない気持ちになったら、それが本物よ」
びりびり空気が揺れる。愛を知らないのは、眞子都のほうかもしれない。そのことが脳裏を過ぎった瞬間、メアリが一枚の着物を渡してきた。
「来栖からよ。弱っているみたいだから、良かったら着て、見舞いに行ってちょうだい」
矢絣だ。一度行ったら戻って来ない、縁起物の柄とされていた。ゆえに嫁入り道具に良く使われた模様だった。これを着て匡祐の元に行くことの意味を、知らない眞子都ではない。
「あいつは素直じゃないのよ。マコ、心の声を聞いて」
とは言え、眞子都も芯が強い。お願いしたからと言ってそれを聞くかとなれば話は別だ。メアリは悲しいくらいに友人のことを分かっていた。
しばらく着物の感触を手で確かめていたが、ようやく決心したように顔を上げる。
「メアリ、わたし、着替えてくるわ」
受け取った櫛を崇めるように両手に抱き、ツバサは車を見送った。寒気はますます吹き荒び、それを感じられない自分が口惜しい。どうやったら心は手に入れることができるのだろう。そればかりを考えてしまう。
『あぁ、そんなに叫ばなくても、そろそろ使ってあげるよ』
願いはとてもうるさく、耳を塞いでしまいそうだ。彼らはすべてに向けて愛を語る。誰かを幸せにしたいと叫んでいる。
いつしかそれが自分に刷り込まれてしまった。神はあらゆるものに宿る。植物にも石にも、きっと機動召使にも。自分でない誰かが、体のどこかのパーツが、意図に反して願望を叫んでいるとしたら、それは自分の意志と言えるのだろうか。
内蔵されたものの詳細が分からなくて、自身の体に恐怖さえも覚えた。だがそれも、作られた感情だとしたら、何を信じればいいのだ。そもそも個体としての自我は存在するのだろうか。
ツバサは、いやⅡB‐SAは天使として、神の声を届けるために作られた。その声がいつしか記憶領域を支配し、回路を奪っているとしたら。何もない、ただの器と化してしまう。
『ボクのやりたいことは……』
思えばいつも、聞こえる声に従ってきただけだった。あちらが願うならあちら、こちらが願うならこちらと、主人をその場所に連れて行くだけ。それでも眞子都は自分を慕ってくれた。蓋を開けて見れば、ただの空っぽだったらどうしよう。受けた愛を、何も考えず反芻しているだけの容器だったら。
自分のしたいことも以前問われたが、答えなど見つかるわけがない。ただ彼女の傍にいて、見守っていきたい。しかし、それもどこかで作られたことなのではないかと感じてしまっている。
ツバサは櫛に押された金箔をなぞり、眞子都の愛を受け止められるか計ることができなかった。
遠くで、雪を潰しながら走る車の音が聞こえる。熱で浮かされているから、好きな女の顔ばかりの幻を見ていた。元々体はそこまで強くないことを思い出す。
ヘマをした。だがどうか、もう一度彼女に会いたい。
「来栖さん」
幻聴かとも思った。匡祐は目を見開いて、声のしたと思われるほうを見る。しかしそこには確かに、眞子都の姿があった。幻想ではない、現実だ。
「その、鍵が開いていたので……すみませんが、勝手に上がらせてもらいました」
匡祐が現実だと分かった理由は、ひとつ。髪が短いままだったり、声がはっきり聞こえたりといったものではない。
自分が贈った着物を、着て来なかったことだ。
「お気に、召さなかったかな……?」
「いいえ、とても嬉しかったです」
起き上がる気力もないのでソファで横になりながら、匡祐は嫌味を言った。しかし眞子都はそれを受け流そうとせず、真摯に答える。彼女の純粋さがとても痛い。
来なければ良かったのだ。求婚を受ける気がないなら初めから笑いかけなければ。いや、あの橋で出会わなければ、もっと互いに幸せになれたのかもしれない。それでも心の傷はいつまでも修復され、終わることのない愛を叫んでいる。
「そう。なら、良かったよ」
思い出すのはあの桜の海。記憶がうねり、花びらの河が眞子都を奪っていくような夢さえ見てしまう。
「何も、こんなときに、言いに来なくても良かったのに」
けれど願ったのは自分だ、それがとても滑稽で、そして笑えない冗談だった。こんなときにも自分は薄くせせら笑っている。もう少しで仮面が外れると思ったのに。
「ごめんなさい。でもどうしても、伝えなければいけません」
睫毛を潤ませながら、眞子都は告げる。それは決して決別ではなく、互いの輝かしい未来を示唆する内容だった。
聞きたくはないが、耳を塞がずにただ傾けることに専念する。いままでの匡祐なら、否定せず肯定せずにずるずる関係を続けていただろう。
「来栖さんのお気持ちはたいへん嬉しいです。でも、あれからいろいろ考えました。自分のことやツバサのこと、来栖さんのことももちろんです。わたしは、……愛とは何か、まだ分かっていません」
人を愛すること。ものを愛すること。おそらく常人には別の意味で捉えられるそれは、眞子都にとっては一緒だった。言葉を交わし合える存在であれば、犬や猫の形をしていても同じ反応をしただろうか。同じ結果だっただろうか。
人の姿をしていたから、それが理由だとしたらとてつもない感情移入の仕方だ。姿が同じでも、善人もいれば悪人もいる。
「でも、大切にしたいものはあります。それは心です。自分の本心に目を向けてみたときに、感じるものがありました」
心の目で見れば、その魂も見えてくる。付喪神はそこかしこにいても、眞子都には声が聞こえない。だが大切にすることで育てることができる。
「大事にしたい相手ができました。それが本物かどうかはまだ分かりません。ですが、愛を注いでいきたいんです」
人、ではなく相手と言ったことが憎らしい。されど、すべて許そう。
「来栖さんの心からの愛を受け止めることは、できませんでした」
分かっている。少し頭が冴えてきた。自分の気持ちを、心からの愛と言ってくれた。病とは別の意味で、心臓が熱くなる。
眞子都よ、愛に生きろ。俺もこれからは、もっと真剣に生きることにする。
やはり捕まらなかった。着物の蝶は指をすり抜け、翼を持つ“何か”と飛んで行ってしまう。でもいつか帰っておいで。来栖は鳥の巣という意味。だから、いつでも君を待っている。
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