仕事始め
明朝、本当に匡祐が眞子都を迎えに来た。流されたとはいえ、今日から初出勤だ。頬は紅潮し、鼓動が早鐘を打っていた。
「おはよう、準備はできている?」
「はっ、はい!」
「そんなに気負わなくても大丈夫さ。初めからできる人はいないしね」
急に連れ出されたので昨日は着物だけだったが、今日は冷えないように淡赤(うすあか)のコートも羽織っている。雪中の椿みたいに映えて、だんだんと寒くなる季節を象徴していた。ツバサはというと、匡祐の足音を感じて屋敷の奥に隠れている。
「じゃあ行こうか」
主人が連れ出されてしまう。今日の着物とコートはツバサが選んだ。もうすぐ赤と白の大きな花が咲くから、一足早くに、お揃いにしたのだ。それが庭にある寒椿の願いであり幸せだったから。今日はまだところどころ蕾は固いとはいえ、明日にはどこかが綻ぶだろう。ツバサにとっても待ち遠しいものだった。眞子都も、心から笑顔になるはずだったのだ。
一種の緊張状態からか、珍しく今日は悪夢を見なかった。本日からの環境の変化に興奮して、一時的に忘れているだけ。今日の眞子都の笑顔は常に微妙だった。他の男を意識しているなんて、自分の履歴に入れたくはなかった。
「こうして歩いているとまるで恋人のようだね」
「えっ、こ、恋人ですか!?」
屋敷から出てすぐ、匡祐はさらりと大変なことを嘯く。冬の朝の住宅街はまだ静かだが、誰かに聞かれていないか心配になってしまった。ツバサが聞いたら怒るだろうか。あの笑んで、傍に居続けてくれる機動召使の顔を思い出し、複雑な気持ちになった。
相手は機械だが、きっと心がある。メアリには否定されてしまったけれど、それでも眞子都は信じている。しかし怒りという感情があるのか、それは疑問だった。
「だって桜の下にいたのはお兄さんなんだろ? だったら俺が候補に名乗り出てもおかしくはないじゃないか」
「桜の下……、ご覧になっていらしたんですか!?」
「遠くて顔ははっきり見えなかったけど、姿はね」
眞子都の反応からして、兄は忌むべき存在と思える。それより、家族に反対された恋人のほうが可能性としては高いだろうか。西園寺家の令嬢と、相手はおおかた使用人。探ったおかげで略図を描けることができたが、この年頃の子にはよくあることだ。
身寄りがないとの説明も納得できるし、誰も止めてくれる者がいないのだと踏んだ。
「都合の悪いことなら誰にも言わないよ。きちんと仕事してくれれば、俺はそれで満足だから」
「ありがとう、ございます」
言葉の裏を知らない眞子都は、匡祐に真っ直ぐな笑顔を向ける。厄介ごとに巻き込まれたくないというのが本心で、上辺の関係でいたいと望んでいた。自分と眞子都が本当に恋人関係になってもいいし、ならなくてもいい。どちらにせよ、深くは関わり合わないのを理念にしていた。人の恋路に下手に首を突っ込むのもあまり得意ではないが、混じりけのない感情もまた不快で、いたずらに掻き回して訪ね歩いている。
だが眞子都はそれに気付かなかった。素直に喜びをぶつけられたのは、何年振りだろうか。世間知らずの内助の功かもしれないが、匡祐には強い衝撃だった。
「眞子都は、大切に育てられたんだね」
「えっ? そ、そう、ですね」
今日から上司になる人は、淡く笑って呆れたように訊く。こういう子はしばらくすると、こちらから離れていくだろう。匡祐はそのような場面を良く見ていた。正直ではないから、誰にも好かれない。本心を表現することが苦手なのだ。願いを要求していいのは、叶えてくれる人々がいるときだ。
「だったら俺も大切に扱わねばなるまい」
「そんな! あぁでも、あまり難し過ぎるのは、その……」
己でも分かっているのに、当たっていない当てつけがやめられない。これ以上こちらの言葉を直面で受け止めてはいけない。自分の心が荒(すさ)ぶから。木枯らしが吹くと、ささくれが目立つから。
「でもがんばります! 何でもおっしゃってください」
惨めになるから、やめてほしい。
「ふ、はは! 眞子都は可愛いな」
穢してみたくなるから、やめたほうがいい。眞子都が思っている以上に社会は複雑に歪んでいる。直線に見えるように取り繕っているだけで、中に入ればぐちゃぐちゃに縺れ合っている。
「今晩は空いている? 新人歓迎会でも開いてあげるよ」
だけれども少し、彼女と過ごすことで自分も救われるのではないかと幻想を抱いてしまった。遂に現れた、濁った部分を浄化してくれる人。可憐な少女に、想いを乗せる。
「今晩ですか?」
「うん、少しだけでもいいから」
「そう、ですね。ええと……」
言い淀む眞子都を見ると、さらに我が物にしたくなってくる。社交辞令だと取る娘も少なくない現在、この反応は真新しかった。屋敷には寵愛する者が待っているだろうに、何とも健気で愛らしい。匡祐をちらちら見上げる瞳には困惑の色が見える。
眞子都も眞子都で、家で誰かが待っているとは、あまり言わないほうがいいのだろうと考えていた。なんと答えを出せばいいのか幾ばくか悩んで、やがて呟くように申し出を受けた。
「その、少し……だけなら」
ツバサを長い間ひとりにしては可哀想であるが、断るのも失礼だ。ためらいはあるけれども匡祐は優しそうだし、きっとすぐに帰してくれるだろう。
「よし、決まりだ。じゃあいい店を予約しておくよ」
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