March,2011

もりめろん

第1話 March,2011

 ぼくの隣で彼女が眠っている。今晩から付き合い始めた、初めての恋人。

 彼女は裸のまま、ぼくの万年床にいた。ぼくは布団の中で手を伸ばすと眠っている恋人の乳房を揉んだ。


 彼女は大学の同じ学科の人だった。マルエツに売られている野菜のように特徴のない容姿の彼女に、特別に意識を向けたことはなかった。共通の友だちがいることがきっかけでよくグループで遊ぶようになり、気がつけば二人でご飯に行くような仲になっていた。


 ぼくは彼女に好意があったのだろうか。たぶん、なかった。と思う。ぼくが鈍感だっただけかもしれないが、彼女から好意を感じるようなこともなかった。近所のガストで夕食を摂る間、ぼくは彼女の愚痴をずっと聴き続けていた。彼女が所属する映像研究部には姫がいて、そいつがちやほやされているのが憎たらしいんだよ、と彼女は零していた。


「ねえTSUTAYAいこ」

 食べ終えた皿を店員が片づけ、ぼくらのテーブルの上にはドリンクバーのカップが残っているだけだった。彼女はダージリン、ぼくのにはブラックコーヒー。カップを口に運ぶ、死んだ鼠のような味がした。

 見たいDVDがあるんだと思った。彼女は映研らしく、映画のパッケージを見ながら感想を口々に漏らしてゆく。映画どころかこれと言って好きなものもないぼくには、情熱を注ぐものがある彼女が、猛烈に眩く見えていた。


 お父さんがオードリー・ヘップバーンを大好きだったの。それで『ローマの休日』を見せられてね、それから古い映画を観るようになって。『小さな恋のメロディ』とか『カサブランカ』とか、色々観たんだよね。あ、でも最近の邦画も好きだよ。『ジョゼ虎』とかすごく好きだし、やっぱり岩井俊二は良いよね。『リリィシュシュ』の世界でわたしは死にたい。なんてことを彼女は呟きながら売場をうろつく。ずっとついて回った結果、ぼくらは既に店内を三周していた。流石に痺れを切らしたので、それ借りるの? と訊いた。彼女は、歩みをぴたりと止め、汗がつくほど持ち歩いていた『アメリ』をじっと睨んだ。

「ちがう。これじゃなくて」そう言って彼女はさっきまで見ていた棚に戻る。

「ひとりじゃあみれないから、一緒に観ようよ」

 そう言って『ショーンオブザデッド』を手にしていた。


 ぼくはとにかく緊張していた。自分の部屋に女性が来るなんて小学生以来だったのだ。ましてや恋人でもない。でも、何かが起きるのかもしれない。そんな期待が胸を膨らませた。ろくに換気なんてしない埃臭い部屋に招き入れる。彼女は、興味ありげに周囲をきょろきょろと覗っていて、小さく笑みをこぼした。きみの部屋ってこんな感じなんだね、そう呟く。


 映画はホラーじゃなかった。むしろコメディで、登場人物たちはQUEENの曲に合わせてゾンビと化した住人をタコ殴りにしていた。ぼくは声をあげて笑った。でも、映画が終わりに近づき住人のゾンビ化が進む度に、ぼくの疑念は膨らんだ。彼女は帰らないのだろうか。そろそろ零時を廻る、彼女の終電が終わる。


 結局、映画を観終えた頃には彼女の終電はなくなっていた。泊まっていく? とぼくは彼女の方を見ないで訊いた。彼女は、そうさせてもらおうかな、と短く呟いた。布団の中でぎこちない探り合いが起り、互いの身体に触れ合った。ぼくはまだ寒さの残る三月の深夜、Tシャツ短パンで近所の自動販売機まで避妊具を買いに行った。戻ると、彼女は先ほどまで同様に裸で布団の中にいた。すっかり冷えた身体を、彼女の暖かな身体に重ねる。どちらからともなく笑みがこぼれる。寒い中ありがと、と彼女は頬にキスをした。順番が違っちゃったけど、ぼくたち付き合おうよ、終えた後に言った。うん、とぼくの恋人が言った。



 ぼくが住んでいるのは西新宿五丁目のあたりだった。新宿駅から歩いて来る場合には都庁にパークハイアット、中央公園を越えて緩やかな坂道を下る。近所には台湾料理店がある。


 朝起きるとぼくらは再び交わった。朝ごはんを食べると再び交わり、ひと眠りしてはまた交わった。ぼくらは覚えたての猿だった。彼女が部屋を出る夕方までずっとそう過ごした。やがてバイトの時間だからとぼくの恋人が部屋を後にする。昨日までの埃がすべて払われたかのような、からりとして清潔な空気が漂っている。

 新しい日々が始まる。恋人と過ごす学生生活が。ぼくは台所の換気扇を回して、窓を大きく開けた。外の空気を思いっきり吸った。外が騒がしかった。声がする、停電がどうの言っている。試しにテレビのリモコンを押す。つかなかった。電気もつかない。停電しているようだった。


 停電してるっぽい。うん、なんか駅の周りも凄い人だかりで電車も動いてない。え、大丈夫なの。うち戻ってくる? いや、バイトだし行かないと。歩けない距離じゃないし大丈夫だよ、ありがとう。気をつけてね。うん、ありがと。


 ぼくは再び布団の中にもぐってiPhoneを手に取る。Twitterを開いて各地の呟きから察する限りは、都内全域そして東北の広域で停電が起きているようだった。原因は不明。官房長官がラジオ中継をしていたが、原因はまだわからないようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

March,2011 もりめろん @morimelon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る