閑話 英雄 —— side 朝宮万莉


 ——その日、私は、絶望する中で助けてくれるヒーローのような存在を感じました。



 今日は本番がある日。

 朝から、私は少し緊張していました。


 練習の時点ではほぼ100%、間違い無く演奏できるようになっていました。



「練習で失敗することは、本番では間違い無く失敗する」



 竹居君も、暁星さんも仰っていました。

 もしできないようなら、譜面を簡単にする手もある、とも仰ってくださったのですが、私は甘えたくないと思って頑張って練習をしました。



 そして本番。

 七月の陽差しはやや強かったのですが、幸い演奏場所は日陰になってい心配するほど暑くはありません。

 しかし——。


 私たちは、用意されていた白い台の上に並びました。

 高さは三十センチほどでしょうか。

 そこは、三人が椅子にゆったりと座れる広さがありました。

 楽器にピンマイクが取り付けられました。

 正しい音も間違った音も等しく、大きな音でスピーカーから流れます。


 多くの聴衆……お客さんが目の前にいらっしゃいます。


 右隣には暁星さん、左隣には竹居君がいます。

 私を守ってくれる……そう感じました。


 胸が苦しくなり、ドキドキしているのが分かります。

 汗で手のひらが濡れるのも分かりました。

 ハンカチで拭うヒマはありません。



 そして——本番が始まりました。

 いつも通りやれば、十分。

 そう思っていました。



 今回の曲は最初——イントロからAメロ——が一番難しい。

 だから一番最初が一番緊張しました。

 しかし、難なく通り過ぎます。


 ——よかった。


 私はそう思いました。

 あとは、このまま最後までやりきれば、終わりです。



 しかし。

 異変が起きます。


 竹居君が、動き始めたのが分かりました。

 立ち上がり、私たちの前に立ち塞がります。


 幸い、前に立ってもマイクのおかげで音が消えることがありません。

 しばらくすると、また元の位置に竹居君が戻っていくのを感じました。

 私の視線はずっと譜面にあり、彼を見ている余裕はありません。



 しかし、なぜ竹居君が……。



 一瞬の気の緩み。

 私は音を間違えました。



「あっ」



 マウスピースから口を離し、演奏を止めてしまいました。

 私が止まっても左右の二人はそのまま進んでいきます。

 音楽は始まったら止まることが許されません。



 でも、私は止まってしまった……。



 落ちてしまいました。

 今、どこを演奏しているのか、分かりません。

 演奏している場所が分からないと、楽譜に書いてある演奏すべき音が分かりません。



 ——絶望。



 曲の終わりの方には、私のソロがあります。

 そこが抜けてしまっては、きっと大変残念なものになるでしょう。


 そこまでいかなくても、私が演奏すべき音が既にありません。

 三本のサックスが必要なのに、今は二本分の音しかしない——。



 ——せっかくのステージを私が台無しにしています。



 私は周りの音すら遠くに聞こえて……強烈な孤独を感じました。

 私なんかが、二人と一緒にいるなんて、無理な話だった。

 あまりの不甲斐なさに、涙がこぼれそうになりました。



 ——いけません。泣いては……いけない。



 泣いたところで、逃げたところで全部私自身が招いたこと。

 最後まで、自分の不甲斐なさを身に刻むべきだ。

 前を向いて、その結果を受け入れなければ。

 そんな思いに反して、どんどんと涙が溜まっていきます。



 しかし、気付きました。

 竹居君が本来私の吹くべき音……メロディを演奏していることに。

 彼の楽譜には違う音が書いてあるのにもかかわらず、異なる音を演奏している。



 ——そんなことができるのでしょうか?



 竹居君は、普通にやっているように見えました。

 いきなり異なるパートの音を吹くなんて……しかもテナーとアルトでは移調が必要で、それを瞬時に行いながら。

 これが竹居君の力なのでしょうか?



 さらに竹居君が私の側にやってきます。

 そして一瞬ですが、私を見つめ、譜面を指さしました。

 まさに今、演奏している小節はここだと私に言うように。


 察した私は、恐る恐る、その小説に指示された音を演奏しました。



 ——あっています。



 私は無我夢中で、演奏を続けます。

 一旦絶望して立ち止まった私を、竹居君が支え、後ろから押しています。

 それは次第に加速し、やがて、完全に復帰できました。


 堪えていた涙がこぼれます。

 でも、それは絶望のものではなく。

 不思議な感動によるものでした。


 この時、私は竹居君がヒーローに見えました。

 暗闇に落ちてしまった私に、光を纏いながら手を差し伸べてくれる存在。


 ピンチの時に颯爽とやってきて、進むべき道を示し、背中を押してくれる。

 これだけ心強い存在が他にいるでしょうか?


 再び私の目頭が熱くなります。

 でも、用事は済んだと言うように、彼は何事も無かったように去って行きました。


 次第に自信を持って演奏ができるようになります。

 その頃には、彼は本来の彼自身のパートに戻っていました。


 そして演奏は終盤を迎え……最後のフレーズ、私のソロが始まります。

 ほんの数小節ですが、楽譜通り心を込めて演奏しました。

 そして竹居君がアルペジオで引き継いで……みんなの和音で締めます。



 ——終わりました。



 一時はどうなることかと思いましたが、最後はとても良い雰囲気で終え……私たちを祝福するような拍手が聞こえてきました。



 私は、悔いの残る演奏になってしまいましたが、聞いて下さった方々から一定の評価を頂いたようでした。


 私はこの借りを返したいと思いました。

 もう一度、チャンスがあれば。



 ああ、竹居君、本当にありがとう。

 また、一緒に……こんな演奏が、アンサンブルができたら。

 今度は最後までミス無くできたら。

 あなたの側にいてもいいと自分を許せるのでしょうか。

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