第七章『宿命の清算【裏】』

-01

 














 俺が、まだコーヒーを飲めなかった頃のことを、ふと思う。














 

「……、……」


 廃鉱都市ノーグレス。

 ここは、その名が冠した通り、空っぽの鉱山を抱える街である。


 場所はバスコの北。

 この街の背後には高く連なる山脈があり、日中はそれが日差しを遮る。

 山脈の向こうには寒流の海があるらしい。そこから山肌を吹き上がる海風は、この街に至るまでに飛沫じみた濃霧に変わる。

 この街は、バスコ国内からは「霧の街」としてのイメージを持たれているようだ。


 霧の町。幽鬼の街。衰退の帳の街。


 過日には、潤沢たる鉱山資源で以って栄華の粋を極めたらしい。街には人が溢れかえって、濃霧を追い返すほどの活気が満ちて、レンガ造りの重厚な建物群には夜の果てまで明かりが灯った。……そして、今この街に香る繁栄の名残は、その温度差の分だけ寂れた匂いをしている。


 見事なレンガ棟も美しい石畳も、今や霧霞を伴うハリボテでしかない。

 聞いたところだと、ここ二十年でこの街の人口は、最盛期の実に18パーセントまで減少したのだとか。


 さてと、そんな街を、



「……、……」



 俺こと鹿住ハルは、借りたホテルの一室から無感情に見下ろしていた。



 時分は朝。

 微かな朝日が街の霧に降り立ち、キラキラと乱反射する。


 石畳がランダムに煌めいて、その熱で霧が、静かに気勢を失っていく。


 ただし、それでも晴れ晴れしいまでとは言い難い。この街の背後に鎮座するお山お歴々の存在感たるや筆舌に尽くしがたく、どうしてもこの街には閉塞感が付きまとう。


 ひとまずは、



「……、」


 顔を洗って、食事に降りるべきであった。











……………………

………………

…………











 過日には栄華を極めた、と言うだけあって、この街の建築は実に見事である。

 重厚なレンガの街造りは濃霧をうまくアクセサリーにしているし、低気温な地風への対処として、建築一つ一つには|が随所に散り嵌められている。


 ……この街にとって、『気候』という概念の九割を支配しているのが濃霧と低気温だ。

 俺の前世の世界で言う北欧などは、その寒さや日照時間の短さから「一日の内を屋内で過ごす比率」が非常に高い国である。そんな彼の国は、インドアの時間を彩るためにデザイン性の高いインテリアやボードゲームが潤沢であったらしい。……その「北欧」と非常に近しい気候条件を持つこの街でも、やはりその手の文化は強い。


 酒に充てる遊び・・や見ていて飽きない調度品などは、この街では探さずともいくらでも目に付く。もっと言えば、そうした工夫はレジャーやインテリアなどの分かりやすい部分だけでなく、「行き来しやすいようにデザインされた階段」や「せまっ苦しさを感じさせないように錯視をあしらった部屋作り」のような、目に見えない配慮にまで細微に伏されている。


 無論、ただ寒いだけ・・・・・・でここまで精密な文化の発展は起きないだろう。

 こうもこの街が内装技術の成長洗練に勤勉であった背景には、何よりもまず資金能力が挙がる。


 鉱山が生きていたころには、人が集まり、物が必要となり、それを作るために更に人が集まったはずだ。そういった循環がこの街に自然発生的に経営・技術の競争を促し、その果てにこの街は、こんなにも「居心地のいい室内の技術」を持つに至った。


 ……そんなわけで、俺のいるこのホテルも、相場と比べれば相当レベルが高い印象だ。


 歩く通路、下りる階段を彩るのは、明かりを溜めやすい乳白色の壁紙と深いブラウンの木床である。

 光の不足したこの街において、この通路は、下手をすれば外よりも明るく見えるかもしれない。

 俺が借りた三階の一室から階段を下っていくと、次第に、かすみのような人気の音が耳に届く。


 ……ちなみに言うと、幽鬼の街だの衰退の最中だのと揶揄されるここノーグレスであるが、その実、一定の活気は未だに保ち続けているらしい。


 この街のお偉方が鉱脈の枯渇をいち早く突き止め、適切に対応したというハナシを聞いた。ここの経済は非常に理想的な速度感で鉱山資源への依存を窮削させ、別の事業にシフトしたらしい。

 そんなわけで現在、この街を支える事業は『モノの輸送』である。


「……、……」


 街の北、つまりこの国の国土の最北端に連なる山脈は、ここバスコ国の貿易事業における目の上のたんこぶだった。

 迂回するには幅が広すぎて、上を通り過ぎるには高すぎる。その結果、バスコ国は国土以北の『海の向こうの国』との貿易を縮小せざるを得なかった。が、それに目を付けたのがこの街である。


 潤沢な資金源を湯水のごとく費やして、まずは高性能な魔力ドローンの開発に着手。北方山脈を当たり前に通過できるスペックのモノを作り出し、これを運用した。

 ……ちなみに、元々は『ヒト・モノ輸送』の二足のわらじで事業を考えていたらしいが、ヒトを乗せて飛ぶには北方山脈は高標高すぎて、一回のフライトに安全性・快適性のコストがかかりすぎるためにこれを断念。現在は先述の通り、モノ輸送一本に絞って事業を展開しているらしい。


 あと、これは更なる蛇足だが、モノ輸送と言えばまさしくビジネスtoビジネスの最中心である。こういった状況がカスタマー、つまりは一般人にこの街の存在感を希薄化させ、その結果出来上がったのが『幽鬼と衰退の街』という不名誉だがある意味間違ってはいない通名である。


 ……この街に来て早数週間。俺が情報集めのすがらにその話を聞いた際には、「あ、そっかドローン文化が発展したら滑走路っていらなくなるんだ!」という謎の感動であった。

 事業体一つ一つが体育館程度の敷地面積で流通手段を確保できるなら、その世界は嫌が応にも発展するに違いない。そう思うと俺は、俺の世界を早く滅ぼしすぎたかもしれなかった。


「――、……」


 いや、そんなはずはない。それよりもまずは朝食である。

 微かな喧騒を帯びる階下へと、俺は緩慢に、一歩ずつ階段を下って進む。


 階下。

 清潔感のあるロビーラウンジは、面積でいうと喫茶店一つ程度。


 今まで見てきた乳白色の壁紙は途切れていて、広がるのは深いブラウンで統一されたインテリアである。階段横の受付には、人はまだ立っていないようだ。

 それから、俺の目的地であるところのカフェテリアには、……先ほど聞こえてきた人気の源泉がまばらにあった。当然ながら、俺と同じく朝食の摂取に訪れた人種である。


 そこに向かうと、どこからか現れたスタッフが俺を席に案内する。そのすがらに注文を済ませ、ついでのついでに俺は、横目で辺りを見聞する。


 先ほども言ったことだが、ここはあくまでBtoBの街である。

 目につく人間も、そんなわけで妙に背筋が伸びて見える。皆が各々に新聞に視線を落としたり、相席者と静かに会話を交わしたりしながら、片手間的にサンドウィッチを頬張りコーヒーを流し込んでいる。


 席に着き、BGM代わりのラジオニュースに耳を傾けて、香るコーヒーを鼻腔に摂取しつつ、さてとしばらく。


 辺りにふわりとバターの香りが舞い降りた。



「……、……」



 俺がこのホテルに居ついた理由が、これである。

 見事な「居心地」の工夫やアクセスの良さや料金帯や、それ以外のありとあらゆる要素は、……大いに満足のいくものではあったが、それでもあくまで二の次だ。


 何よりもまずはこのバターの香り、ここの朝食だ。

 これに惚れ込んで、俺はこの宿を選んだ。


 彼らビジネスマンが片手に持つ『料金内サービスの朝食』も確かに一品ではある。

 噛み応えと腹持ち双方が良好なパンにこれでもかとサラダと塩漬け肉を詰め込んだあの軽食は、間違いなく通い詰めで食べるべき一皿だろう。


 しかしながら、もうあと硬貨数枚を出せばもっと最高の朝を迎えられるという裏事情を、果たして彼らは知っているのだろうか。




『モーニングプレート』。

 そんなシンプルなネーミングの一皿にこそ、俺がここを宿に選んだ動機が全て乗せてある。




「お待たせしました」


「どうも」




 味覚レベルと言っていいほどの香りが、ことり、と音を立てて俺の目前に現れた。

 そして更に、二皿、三皿。


 俺の座るテーブルに、瞬く間に「朝食」が組み上げられる。


 まずは最中央に置かれたプレート。そこにあるのは真っ白な食パンが二切れと、ベーコンとスクランブルエッグとサラダである。

 それからプレートの脇を固めるのがミルク、オレンジジュース、コンソメスープ、そしてフルーツとチーズだ。



「お食事が終わるころに、コーヒーをお持ち致します」


「よろしくお願いします」



 短いやり取りで以って、そのスタッフは踵を返す。


 あくまでそれを俺は待ち、そして片手にフォークを載せて、

 まずは、目礼をするように、俺は胸中でこの皿に両手を合わせ首を垂れた。



「……、」


 ――さて、

 ご存じだろうか。食事には、術と言うものがある。



 急いてはいけないだろうが、遅すぎても散漫となる。起承転結を誤っては台無しになるだろうし、他方では大胆に、心のままにあらねばならないこともある。


 ゆえに食事には術がある。肝要は一つ。適切な速度でそれを頂くことだ。


 唾を飲み込み、喉の渇きを自覚する。或いは一口を噛みしめながら、次に食べたいものを真摯に探す。そうするだけで一日数度の食事は、そのどれもが逸品の快楽となる。



 さてと、

 ならば、


 ……まずは、自覚だ。

 俺に睡眠は必要ないが、それでも朝と言うのは、寝ていようが寝ていまいが喉が枯れているものである。



「……、」



 オレンジジュースに手を伸ばす。その蠱惑的な橙色は、とっぷりと揺れながら鮮烈な柑橘香を周囲にまき散らした。

 グラスに口を添えると、冷涼に近い温さ・・のような温度感で以って、果実を溶かしたような濃厚さが鼻先を撫でる。


 一口。こくりと、喉を鳴らす。

 すると酸味が、そして甘みが、干乾びた俺の口腔をただ一息に覚醒させた。



「……、」



 飲み込んだそれが舌の根をふやかし、喉を潤しながら胃の腑に落ちるのが分かる。

 であるなら、次に頂くべきは、この鮮烈たる感覚を癒す口直しに違いない。


 ミルクのグラスを手に取って、先ほどのようにしてこくりと一口。

 と、仄かな甘みとコクが、暴れ出しそうになる俺の空腹感をふわりといなす。この感覚が、俺に半ば本能的に次の味を選ばせた。


 目前にて湯気立つコンソメスープ。卓上にて、その湯気は、スクランブルエッグのバター香とベーコンの荒々しい香ばしさに溶けあい綯い交ぜとなっている。


 ただし、カップを持ち上げてスープを口内に注ぎ込めば、香りは一転。

 複雑たる『個』が、香りのプールを鼻孔へ齎す。


 一口、喉に注ぐ。

 すると朝食に求めるべきしっかりとした塩味と、胃の腑を温める温度感、そして複雑に組み上げられた食材の旨味が、俺の舌の根をきゅうっと絞る。俺はその感覚に、待つようにして身を浸す。



「……、」



 ……しかしながら、実のところ俺は軽率を犯していた。

 このコンソメスープの香りは決してこんなものではないはずなのに、先に手を伸ばしたオレンジジュースの鮮烈さがスープの風味を陰らせてしまっている。それに、先に冷たいものを頂いてしまったのも間違いだ。一口めにスープを選んでおけば、俺の胃はもっと感動的なまでに火照っていたに違いない。……嗚呼、

 ああ、なんて。



「……。」


 なんて、――贅沢な悩み、贅沢な朝食だろうか。



 ミルクで口内を流し、そして改めてフォークを握る。

 それだけでこの悩ましき感情は刷新される。次の味を選びたくてたまらなくなる。

 いやなに、間違えたのならやり直せばいいのだ。この朝食はそれを許す。スープもジュースもまだ十分にあるし、パンにもベーコンにもまだ手を付けてはいない。今日を始めるには申し分のない至高の味を前に、後悔に身をやつすなんて時間の無駄が許されるはずもない。間違えたのなら挑み直し、正解したのならば更に次の問いに挑む。プレートの上を小人となって冒険でもするように、正しきルーティーンの探求を続ける。


 ――この贅沢、この体験こそが、このモーニングプレートという逸品の真髄である。

 さあ、反省は終えて、挑む鋭気は元より十分。ゆえに俺の冒険者たるべき本能と直感と好奇心が、当然のように次に味わうべき品を威風堂々と選び取る。



「……、」



 内臓が火照り、喉は癒され、舌の感覚は鋭敏である。

 ならば悩むべくもない。次は空腹の炉に火を入れよう。そのための『ピース』は、表面から脂を噴き出し煌々と旨味を焚いて待っている。


 俺はその『ピース』、分厚くもカリカリのベーコンにフォークとナイフを伸ばす。


 ――ざくり、ざくりとナイフを入れる。

 その音と感覚がナイフを伝い、指を伝って、肘を伝って脳を揺らす。指先に当たる湯気でさえ焦れるほどに熱い。肉の香りに指がまみれるような、官能的な感覚。そして、さくり。軽やかな音を立てて一口分のベーコンが出来上がる。それを即座に、俺は咥えて噛み締める。



「……。」



 ああ、そうとも。違えようもない逸品である。分かり切っていたことだ。

 だけれど、……その歯ごたえには初めて出会ったような感動さえあった。



 ざくざくと噛みしめ、吐き出す肉汁を野性的に啜る。肉の旨味が脳を直接殴りつける。俺は殆どクラクラとさえしながら、たまらずプレート上の白いパンをちぎって頬張る。


 パンを掴む指先に、柔らかく、繊細で、ほろりと解れるような感触。真っ白な生地を口に投げ込めば、その吸い付くような柔らかさはそのまま一級の舌触りに代わる。肉の旨味と小麦の旨味が、混然となって生まれ変わる。


 ならば、今こそがリベンジのチャンスであった。

 先ほどは味わい損ねたこのコンソメスープの本質が、今ならば十全に分かるに違いない。



「――、」



 覚醒し切った俺の嗅覚が、今度こそコンソメの複雑精緻な香りを粒まで感じ取る。


 香味野菜と動物性の風味。それらが折り重なって混ざり合って、個では為せぬまったく別種の香りに昇華されている。その完成されたバランスはもはや一つの個であって、俺の未熟な味覚では一つ一つの材料を見抜けぬほど。それが、胃の腑の奥のベーコンとパンの風味とさえ混ざり合って、そしてまとめて鼻孔を抜ける。



「――。」



 思わず俺は溜息を吐く。

 と、それさえもが濃厚な蒸気となって、朝のカフェテリアに上って消えた。


 この感覚は、この脱力感は、ああ、まさしくグロッキーそのものだ。


 しかし、さてと、

 ……この多幸感じみた脱力を、ただそのまま享受するのではあまりにも芸がない。


 なにせ幸せというのは放っておけば消えるものである。俺は可及的に速やかに、この幸福を押しとどめるフタをするべきであった。そして、その味にも、一つ心当たりがある。


 暴力的な旨味、奔流じみた香り。それらを押しとどめるには生半可なフタではいけない。


 濃厚で、柔らかで、そして可能ならバターの香りがするモノが望ましい。ああ、つまりは一つしかないのだ。



「……、」



 この波乱万丈たるプレート上の冒険譚は、実のところ、長かったようで実に短い。ゆえに、目前のスクランブルエッグも、未だ旺盛に湯気を上げ続けている最中であった。


 ナイフとフォークをそれに向けて、つぷり、と一口分を切り分ける。

 断面から漏れ出す卵液の喪失感たるやこの身がもだえるほどであったが、それでもまずは、一口頬張る。


 ――『香り』。

 バターの香りである。


 それが不可視のナニカのように、俺の口内を満ち満ちといっぱいにした。香りと、コクと、やわらかな旨味。まさしく、それこそがフタ・・であった。


 鼻を通って抜けていくベーコンとパンとコンソメの感動を、スクランブルエッグの濃厚さが力づくで繋ぎとめる。先ほどの三つがもたらした、刺激的にしてどこまでも前のめりな旨味を、この一口のコクが完結させる。今まさに、俺の口の中に足りぬものは一つとして存在しない。



 ……いや、

「……、」



 確かに、口の中に足りぬものはあるまい。

 しかしながら、ならば胃の腑までを視野に入れればどうだろうか。


 最高の味覚が今まさに舌を支配していて、ならば次に欲しいのは満腹感である。なにせ俺の胃はそろそろ焦がれて限界だ。このままではきっと、俺は耐え切れずにこの朝食プレートを貪って平らげてしまうだろう。だったら、さあ、どうしたらいい?


 目前には今、サラダとフルーツとチーズがある。

 このうちで、サラダはきっと適切ではない。このサラダにしたって俺が惚れこむに足る逸品で、水を食むような瑞々しさと目の覚めるような酸味、オリーブの香りは極上の一言ではあるが、しかしながらこの一品に満腹を求めるのはお門違いだ。


 ……とすれば、フルーツも同様である。食事を締める最後の甘味としてのみならず、ベーコンやスクランブルエッグの圧倒的な旨味をいなすにも有用な素晴らしき品であることに異論はなくとも、今の俺に必要なのは脂を流し落とす爽快感ではなく、胃の腑を埋める濃厚な舌触りである。


 さあ、言ってしまえば答えは既に分かっている。

 その『答え』に、――白い「皮」を伴うチーズに、俺はフォークを降ろす。



「……、」



 ――それは恐らく、俺の世界で言うところのブリーチーズに近い銘柄だろう。

 いわゆる白カビチーズの一種で、先述の通り表面には白い『表皮』がある。フォークを刺して返る皮の感触は「くすっ」とした不可思議なもので、見れば断面の最中央には、ブリーチーズの「芯」と呼ばれる層の部分が確認できる。


 ブリーチーズと言えば、チーズの本場であるフランスの人間が「人生最後に食べたいチーズだ」とまでに愛したことから「王様のチーズ」の一つともされているものである。

 当然この世界にフランスは無いのだろうが、なにせかようにも俺の前世と食文化が似通ったこの異世界である。この「ブリーチーズに似たチーズ」もまた、恐らくは一定の地位を得たものに違いない。


 ブリーチーズ。

 味のイメージとしては、……堅くもほろほろと解れる『皮』の部分の苦みに似た旨味と、『皮』の内側の、ミルクを固形化まで凝縮したそのままの甘み、旨味、そして香りが特徴的だ。また、「凝縮した」というだけあって、このチーズには一欠けらで胃の腑に白旗を挙げさせるような重厚なインパクトがある。

 つまりは、今俺が求めるそのものの味を。このチーズは持っているということだ。



「……、……。」



 朝は、未だ長い。

 流れるラジオはトークテーマを変えていて、客の一人は今、新聞を畳んで席を立った。

 かと思えば別の客がスタッフに連れられ現れて、窓の外では、にわかたる人通りが見え始める。


 ……その光景は総じて、活動を始めた朝の風景であった。


 誰も彼もが目的を以って動く。その風景において、時間を忘れたように椅子に腰を預けているのは俺一人だけである。


「……、」


 ゆえに俺は、ふと目前の食事から視線を切った。


 だからと言って、見るべきものがあったわけではない。俺の視線はただふわふわと虚空を彷徨う。かすかに聞こえるBGMが俺の耳朶を埋めて、俺は椅子に、更に腰を預ける。

 そして、



「……。」



 浮世から離れて浮かび上がるような感覚を、頬に浴びるようにして、

 俺はチーズを、つぷりとフォークで刺して口に運んだ。











……………………

………………

…………











 ――みたいなルーティンを幾週と続けて、



「こちら、コーヒーをお持ちしました」


「どうもです」



 片付いた卓上に、コーヒーカップが一つ。


 それが立ち上げる香ばしい湯気を眺めながら、俺は食後のひと時を満喫していた。



「……、……」



 食後。

 それはどこか、祭りの後の静けさに似ていた。


 鼓膜に残るような囃子を、舌の根の奥から昇る温かさに例えるならば、夜道の帰路に名残る静寂は、この流し聞きの店内放送だろう。


 祭りの熱狂がぼやけて、静けさの中に薄らいでいくように、俺の思考がふわふわと呆けて、開け放しの耳にBGMが滑り込む。

 身体の輪郭が曖昧となるような感覚に、俺はふとカップを持ち上げて、湯気立つ中身を口内に注いだ。


 そして思うのは、

 ……ふとした、実に下らないことであった。



「……、」



 それを肴に、コーヒーを啜る。

 BGMの水中を漂う湯気を目で追うと、俺の思考は一層緩慢として、体裁を失う。


 と、そんなふうに泳ぐ視線が、空きテーブルの一端、

 そこに置かれた新聞を捉えた。



「……、」



 立ち上がり、そちらへ。



 客の私物ではなく、それは、このカフェが用意したものである。

 俺はその一面に目線を落としながら、席に戻ってコーヒーを含み直す。



 朝の帳。コーヒーの香り。

 そこを泳ぐのは、フレッシュな印象のカフェミュージックを背景にしたラジオニュース。



 俺は、そんなシーンの片端に埋没しながら、手元の文字を朝日で照らす。

 まず、目に付くのは、


 ……ここしばらくこの国を賑わせる一大トピックス。







 ――英雄リベット・アルソンの犠牲による悪神神殿の攻略と、それに伴うこの国の変化についてであった。





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