(03)
――馬車の中には、血だまりが広がっていた。
「……、……」
「 ぉ っかふゅ 」
仰向けに倒れたまま時折呻いて血を噴く少女に、エイトはパンと、器に注いだぬるま湯を差し出した。
「食えるウチに食っとけヨ。食えねェんなら、仕舞うからナ」
「 」
返事は待たず、少女の周りの血を桶水で流す。
……ケガの割に出血が少ないように見えるのは、この暴力の内の殆どが馬車の外で行われたものであるためだろう。いつかピラーの「発散」のせいで馬車の床を総張り替えにする羽目となった一件以来、あの男の堪忍袋の緒は財布の紐と連動したと見えて、彼の堪え性は何とか「馬車から奴隷を引っ張り出すまで」なら耐えられるようになっていた。
「……、」
水を流すと、
ボロの木床の隙間へと、それらが転がり降りる。
血液のぬめりと匂いをさらって、つぅっと馬車の腹下へ。それを幾度か続けてしばらく、桶の水が無くなる頃には、匂いとぬめりはある程度マシになる。
靴底で擦るようにして、床の具合を確認してみてから、
……未だ濡れたままの床に、エイトはどかりと腰を落とした。
「オウ、食わねェのか?」
「 」
「気絶してるってンじゃねェよナ? 食わねェのか」
「 ぉ ぁ れ 」
「アン?」
掠れた声は、外の虫鳴りにさえ負けて聞こえた。
ゆえに、エイトは少女の口元へ、耳を向ける。
と、
「……、」
エイトの耳元で硬質に響いたのは、少女の歯が鳴る音だった。手錠を繋いだ蝶番が軽くきしみ、残響じみた金属音が、立ち上って、そして消えていく。
「
「
最後の力を振り絞って上体を起こしたらしい少女が、エイトを睨みつけながら崩れ落ちる。どうやら彼の耳を噛み千切ろうとしたようだが、黒目の焦点が狂うほどに殴られては距離感が掴めなかったらしい。また、喋る言葉にも喉と舌の痙攣が確認できる。
「……、……」
――なにが、拷問の腕は知っているだろうだ。とエイトは胸中で唾を吐く。
この状態では、街に着いた頃には彼女の身体は冷たくなっているに違いない。
「(……治療を)」
するべきに違いなかった。
が、しかし、
「 」
……死の際に立ってまでこちらを強く睨みつける少女に、果たして落ち着いて応急処置などが出来るだろうか。それでなくても、食事の施しに対する先の返答は「くそったれ」である。間違いなく彼女は、不用意に手を伸ばせばそこにまた噛みついてくる。
「――――。」
「 ぁ っがァ!?」
不用意に手を伸ばすのではなく、
「……、……」
「 ぁ ぁ 。」
ヒトの今際のそれとは思えぬほどにか弱い痙攣が、エイトの掌を伝う。
あんなにも強く彼の眼を睨んでいた彼女の瞳孔が、破滅を悟って壊れたように狭窄する。それに、彼は拘泥をせず……、
「ハイ・リジェネレイション」
ほぅ、と。
微かな明かりが馬車に浮かんだ。
薄雲に透いた月明りのような色彩のそれが、エイトの掌を伝って、少女の額のその奥へと浸透していく。そして、明かりがひとしきり少女のナカへと這入って、
馬車に再び、闇が立ち戻り、
――その頃にはもう、少女の痙攣呼吸は、寝息のそれに代わっていた。
……………………
………………
…………
馬に最低限の休息を取らせたのち、彼らは、夜半の内に再出発した。
その道中に不測の事態はなかった。馬車は滞りなく狭い馬車道を抜け、そして森の外の平原へと出た。
「ようエイト? 餓鬼の様子は?」
「寝てンだネ。大人しいモンだヨ」
「はっ。売られるってのに肝が太い餓鬼だね」
馬車の行く平原には多少の起伏があり、地平線まで視線を行かせてもヒトの文明の気配はない。背の低い草の群れのみの光景は、夜空の冷気の放射をただすら受けて寒々しい。
しかし、見えぬだけで、街はもうすぐそこであるはずの時分であった。
果たして馬車は、……地形の隆起をまた一つ抜けた先に、予定通りに街の輪郭を見つけるに至る。
その頃には、空はもう白み始めていて、
街の門番に止められた時点では、周囲一帯に朝の香りが立ち上っていた。
「止まれ。身分証を」
「へいへい。あんたらもいい加減俺の顔覚えてよ」
「……規則ですので」
運転役のピラーが、慣れた様子で門番とのやり取りをする。一般の行商であればここで更に荷物の検分の手順があるが、
「ようエイト? この後はどうする?」
ピラーが運転席からこちらに振り返って言う。
周囲は早朝なりの静けさだが、如何せん石畳を打つ蹄鉄が響く。
彼のやや張った声に、エイトも同程度に声を張って返す。
「……そンじゃまずァ、ウチ帰って休もうぜ。コイツのこの傷で、そンまま売りに出すってェ訳にもいかねェし?」
「……悪かったよ。やり過ぎた。安いポーションでガワだけでも治すんだろ? 俺が出すから許してくれ」
それだけ言い返して、ピラーはまた進行方向を向き始めた。流石の話好きも声を張ってやるのでは面倒らしい。そのまま馬車は、朝の街を、緩やかな蹄鉄のリズムで以って遅々と行き、目的地を目指した。
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