2-6
朝。
「おーっはようございまーっす!」
そんな快活な声が、扉の向こう側から聞こえた。
どうやら、シアンの声であるらしい。
昨日父の訃報を聞いたばかりのはずの彼女の、しかしそれを感じさせない元気な声である。
俺はそれに、全く感心させられる思いであって。……思いではあったのだが、
「俺は、……モーニングコールを、頼んでいないはずだ……(怒)」
「あれ? でも昨日、エイリィンさんが……」
「……うん?」
毛布の中で、俺はもぞもぞと思考する。
或いは、用事があっての依頼とみるべきだろうか。
「ああ、分かったよ。ありがとう」
「ダメですよっ。大抵の人はそう言ってまた寝るんですから、鍵を開けて顔を見せて!」
「分かった、完敗だ認めるよ。――あと五分だ」
「開けますねー?」
「きゃあやめて!」
ということで寝間着のままで俺は扉に飛びつき開ける。
その先では、シアンの、
「はい、おはようございますっ」
という、朝らしい笑顔が俺を出迎えた。
……昨日の夜、シアンにこの部屋をもらった後で、
俺は一度宿舎を出て、街へと繰り出していた。飲み直しの酒を見繕うためである。
それで酒瓶を持ち帰って、手酌にてそれを空にして、俺はそのまま毛布に潜り込む。昨日は、それだけの時間であった。
「……、……」
しかし、昨日のコンディションで言えば俺は、いかにシアンに揺すり起こされ蹴飛ばされようが今もまだ気絶していたはずだ。昨日の酒には、感情のせいか妙な悪酔いの予感があったのである。なのに、今朝の身体はやたらと好調だ。
……恐らくはこれも、『散歩』の恩恵と見るべきか。なにせ俺は前世にて、「外を歩きたいのに二日酔いがたたってそうできない」ことが多々あった。不思議なことに、体調不良や寝不足の日に限ってよく晴れるのである。
――閑話休題。
そんなわけで俺は、朝の帳が降りる部屋を、改めて見まわす。
部屋の壁は斜に構えていて、それが一身に朝日を取り込んでいる。大まかに言えば床と壁で三角形に空間を確保したようなイメージだろうか。安い宿だとは言っていたが、こう見たぶんには一等級の日当たりである。
ただし、流石にトイレやシャワーなどはついていない様子だった。
俺は、光合成を名残惜しく感じつつも、ひとまずは顔を洗いに行くべく身支度を確認する。
……あれ? そういえば、この世界って歯ブラシとかあるのか?
「……、おっとー?」
不穏な感覚に、俺は身震いを禁じ得ない。さらに言えばパンツもシャツも替えがない。というかこの世界ってどうやって髭剃ってるんだろう。俺まだダンディにはなりたくないんだけど。
「…………。まあいいや」
それもこれも、今日街に出たときに確認しよう。どうせエイルのところには、先のシアンのことの確認で顔を出すつもりであるわけで。
ということで俺は、結局は何の身支度もせずに部屋を出た。
「……ふぁふ」
シアンのいない廊下は、未だ少しばかりの眠気を催すような様子であった。
開いた窓から、風が通る。石造りの壁面は、まだ夜の冷たさを少し帯びている。静謐を保ったここで耳を澄ませると、静かな、或いは多少豪快な寝息が聞こえてきた。
……それらを総じていえば、「ぽかぽか」という表現が妥当だろう。
春眠暁を覚えず、というやつだ。睡眠など必要のない俺は、しかし嗜好品を求めるのと同じ感覚で、二度寝の誘惑に強く後ろ髪を引かれる。
ただ、その欲求に従ったらシアンは今度こそマスターキーを使ってでも俺の寝顔をはたきに来るに違いない。廊下を往き、階段を降りるまでに、俺は強い精神力で以って二度寝の誘いを何とか断った。
「……おはようぅ」
「おはようございます! ちゃんと起きてきましたね!」
「どうも、ハルさん」
一階のロビーエントランス兼レストランに当たるそこは、昨日の喧騒とは打って変わり、朝の作業音に満ちている。ベーコンか何かの脂を焼く音、その匂いと、食器がこすれる澄んだ音。
今朝は、シアンとヴァイオレット氏がテーブルを整えているらしい。彼女らのあいさつに俺は、改めて、おはようございますと返した。
「――ええ、ハル。おはようございます」
「……、……」
『三つめの挨拶』は、朝食の乗った卓上の一つからここに届いた。
無論、俺をハルと呼ぶ相手の心当たりは一つである。昨日、俺をそう呼ばせて欲しいと卑しくメス豚のように請うた女ことエイルである。いや実はそんな事実はなかったりするんだけども。
「……おはざーす」
言って、俺は出口に向かう。水場は確か、外にあったはずである。
「……い、いやちょっと!? どこに行くつもりですかっ?」
「顔を洗って、歯を磨いたら、今日は街に出てみようと思っています」
「どうしてっ? 私がここにいるのに!」
「すみませんあまりに綺麗だったものですから妖精の幻覚かと思いました」
「な、なんですってぇ……っ!?(赤面)」
ということで外に出る。
いやはや爽快な朝だ。潮の香りのする風が、俺の寝ぼけた頬を洗うようである。
ということで水場で、錯覚じゃなくてちゃんと顔を洗う。……するとすぐにエイルが来て、遠慮なく俺のシャツの襟首に掴みかかってきて、俺はなすすべもなく宿舎の中へと引きずられるのであった。
/break..
「おはようございます」
「……ざーす」
戻ってみると、彼女のいたテーブルには二人分の朝食が置いてあるのが確認できた。どうやら、彼女が先んじてオーダーしてくれたものであるらしい。
ちなみにその内訳は、角切りのパンとベーコンエッグ、それから簡単なサラダとオレンジジュースとコーヒーである。
……改めて、妙に俺の既視感を誘うメニューであった。味覚が同じヒト種族同士、食事文化の行きつく先も同様ということだろうか。……いや、でも納豆とか日本固有の文化だよな? よくよく考えれば、例えば海の街では魚の調理が発達して、平野の気風では肉食が発達するように、食文化の成長は身近な食材如何によって肉食魚食かそれ以外かと多岐にわたるものである。
或いは、この世界の物流が実はある程度まで成熟していて、「食文化が成熟するほどに多くの食材が地域差なく行きわたっている」ということだろうか? ……ふむ。
「……、『ざーす』だけ言って黙り込むというのはどんな現象なのか、私に教えてください。目を開けたまま眠っているのですか?」
「俺の国の宗教です。ざーす教」
「あっ、そ、そうでしたか。それは失礼」
と言ってエイルはちゃんと謝った。
……いや何、俺の国では大抵の若者が「ざーす教」である。南無阿弥陀仏で極楽に行けるように、俺の宗派では「ざーす」であいさつが完了する。とってもインスタントで便利。
「とっ、というかあなたさっき逃げたでしょう!? 説明しなさい!」
「いやだからそれは、素敵な妖精と勘違いしたって言ったでしょうが」
「気付きましたよ私は! あなたは嘘を言っているんでしょうっ?」
いや遅いだろう。即座に気付け。それともちょっとくらい「自分って妖精なのかな」とか思ってるのか? だから一回はすんなり腑に落ちたのか?
「まあ、ホントのところですと、人に会うのに顔も洗ってないんじゃあ失礼に当たる気がしましたので」
「それもウソですっ! あなたの態度は私を無視する類のものだった! しらばっくれても無駄ですよ!」
「じゃあ無視しましたよ。これでこの話は終わりですね」
「むしろそこから話が始まりますねっ! もおっ、せっかく朝飯を注文してあげたのに! ひどいよ!」
……いや、「ひどいよ」て。
まああまり脇道にそれても長くなるので、俺はひとまず話を本道に戻すことにした。
「ゴメンナサイ。んで何の用ですか?」
「誠意が皆無! 三つ指をつきなさい!」
「それは手間じゃん」
「誠意って手間でしょ!?」
それは極論じゃないだろうか。
「ま、まあいいですけどね。……こほん。今日は、あなたに正式に依頼をしに来ました。昨日の話ですけれど」
「それは、早かったですね?」
それはそうです。と彼女は答える。
「私は、あなたの処遇も含めたある程度までの権利を一任されています。今回の依頼についても、私は全権の管理者という立場にあります」
「なるほど」
しかし、英雄一群を倒すほどの規格外の化け物を扱う依頼の主導権さえ全任されるというのは破格に思える。ただでさえ「推定転移者の外敵」を相手に据えた事案であるはずなのだが、彼女は、俺が思う以上の権力を持った存在なのだろうか。
いやそんなの絶対に引っぺがした方がいいよ。こんなカモなのに。
「それで、今回の依頼難度は準二級を足切りとします。……ところで、あなたにはこの言葉の意味は分かりますか?」
「……ああ、いえ。冒険者ランクが準三級から一級までというくらいしか知りません。具体的な脅威度までは測りかねますね」
……そうですか。と彼女は言う。
「正確には、――冒険者ランクは準三級から一級と、そして特級によってなるものです。一級まではギルドの認定ですが、特級についてはギルドと、それからこの世界の国家連合理事会の審査によって認可されるものです」
そのうえで、と言葉を切って、
「概ねで言えば、三級は十人規模、二級は百人規模、一級は千人規模の戦術難度の依頼を、登録個人で用意できる戦力で以って解決できるものと設定されています」
「個人、ではなく、個人で用意できる戦力、ですか?」
「ええ、大抵の一級冒険者は、個人名ではなくクラン、――コミュニティ単位での加盟です。例えば公国で最も特級に近いとされる一級冒険者『グリフォン・ソール』は、転生者とその仲間たち二十八名で登録されていますね」
「……、なるほど?」
「ちなみに『準』と付く場合は、それが外れるまでの試験期間という意味合いが強い。その上で、……今回は準二級冒険者を広く募り懸賞金を出すような形での依頼、――大規模クエストという形での発注となります。これは言い換えれば、百人規模の戦力であれば解決が可能なわけではなく、百人規模の戦力で無くては参加も出来ない、という意味です」
「……。」
「それらを踏まえてあなたを、――あなたの持つ『散歩』というスキルを根拠に、準二級に認定します」
かちゃり、と彼女がコーヒーカップを取る。
そして、それを少しだけ唇に浸して、そして改めて、
「先ほど言った通り、場合によっては『準』という文字が取れることもあるでしょう。ただしこれは、こちらも先ほど言った通り、試用期間に当たるものでもあります。――期間のうちに成果が出ない場合、冒険者はどうなると思いますか?」
「……、……」
冒険者資格の剥奪、ということはあるまい。なにせ登録証はそのまま身分保証にも使えるものであるという。
――いや、或いは……。
「冒険者資格の剥奪。そして、俺の場合はそれに伴って身分の証明も出来なくなる?」
「その通りです」
彼女はそう、こともなげに言った。
「本来『準級』への昇格、および『下級』への自発的降格は身元保証人の推薦で以って行われるものです。この手続き自体は非常に簡単なものですが、しかし公国は、あなたの下等級降格を許可しない。……試験期間は一年です。恐らくは、例のキカイなるモノを見つければ、昇格には十分な成果になるはずでしょう」
「――――。」
察するに、
このルールは、公国とギルドの双方によって作られたものであるはずだ。なにせそもそも、冒険者資格の剥奪などという「
……恐らくは、大抵の場合で異世界からの転移者は生まれ落ちた国に身分を保証してもらうことになる。その場合転移者に与えられる選択肢は二つで、その国の騎士になるか、或いはギルド登録を、その国を保証人として行うかだ。その場合転移者の身柄は、前者ならば既に飼い犬だし、後者であれば、この方法で一年は飼い犬に出来る。
なるほど、
――よくできたルールだ、と俺は内心で、心の底から感心をする。
「話は、分かりました」
「……、納得するのですか? 何の疑問もなく?」
「いえ、なにせ相手は本当の化け物だ。反感を受けざるを得ない一手を、打たざるを得なかったのでしょう?」
「――――。」
――そう。これはよくできたルールである。
なにせこの仕組みは、転移者を『準級』に据えなくては効力を発揮しない。そもこの世界において、転移者はそれだけで価値を持つ相手だ。無暗に政治で雁字搦めにするよりも、素直に表面だけでも取り繕った方が、転移者とは「長期的な利益を見込める相手」である。
ならばさて、その上で、どうしてこのような反感を確実に買うルールがあるのか。それは簡単だ。そうせねばならぬ場合も、時にはあるためである。
時と場合によって、この国は、長期的利益を捨ててでも短期的利益を取る覚悟がある。このルールは、それを如実に物語っている。
だから俺は、――どうしようもなく拍手をこらえる。
「いいでしょう。そのプランに乗ることにします。……いや、あなたは思った以上に聡明な方だ」
「え?」
俺は気を良くして、思わず被った猫を脱いでしまう。
きっと、俺をただのうだつの上がらない生真面目な男だと思っていた彼女は、俺の態度に瞠目をしただろう。しかし、そんなものはもはやどうでもいい。
「ルール自体は、まあ既存の緊急措置なのでしょうけれどね、しかしそこではない。あなたはよくぞ、それを今ここで打った。その通り、アレは間違いなくこの世界における重大な懸念事項でしょう」
「え? えっと?」
そう、そこだ。
――彼女には、自分の名を汚してまで、他人のために何かをするという気位がある。
「改めて、鹿住ハルです。ハルと呼んでくださってかまわない。これまでは許してなどいませんでしたがね、今後はどうぞハルと呼んでください」
「あの、ハ、ハルさん?」
「あなたの意図は理解しました。俺は全力を尽くすし、この一手を打つくらいに公国も全力だ。なら、期待にくらい応えて見せましょう?」
いや、今朝は実にいい朝だ。
なにせ俺はここで、計らずとも人の覚悟を目前にした。
春の日差しよりもなお美しい。それは、恒星一つと比べてさえ未だ眩いヒト種族の精神構造の極致だ。
――これの存在を証明するために、俺はあの日を生き延びたといっても過言ではない。
……いや、死んだは死んだんだけどね?
「……あの」
彼女が、ふと俺にそう言った。俺は今ならなんだって聞く所存である。
ゆえに俺は、なんでしょうか。と、そう答える。
「私を、……認めてくださったなら」
「ええ。はい」
「――敬語はやめてください。あなたは私よりも年上です」
「……ああ、なるほど」
ということであったので、俺は敬語をやめることにする。
「オッケー! でもお前は敬語をやめるなよ? なにせ俺の年下だからな!」
「……情緒が怖いなあ。このヒトこわいよう」
不本意千万。――佳き日にヒトが、ハレルヤと叫ばずにどうするというのか!
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