2-5
――さて、
俺がシアンの店で、俺の世界でいうところの「中流宿舎施設素泊まり分」程度は伝票に着きそうな量の食事を戴いたころ。
「……、……」
俺はふと、虫の知らせで後方に視線を流した。
……相変わらず、祭りの最中のような喧騒がそこにはある。俺が着た頃と比べても、この部屋の人口密度は更に増加していて、熱さへの対処か各所の窓が開けられているのが確認できた。
さらにその向こう、開いた窓のその先は、もうすっかりと夜の風景である。その時間経過にも納得できるだけの皿の山が、俺の目前にはあって、
そして、
――そんな店内の景色の入り口前の位置に、俺は見知った顔を見つける。
エイリィン・トーラスライト。俺にエイルと呼んで欲しいと卑しく請うたあの女である(語弊)。
「(シアンちゃん!)」
「はぁい? どうして小声です?」
「(お会計ね、幾らかな?)」
「えっとー? ……(あの、……三○○ウィルですケド?)」
「(ごめんちょっと貨幣価値分かんないからこの袋から持ってって!)」
といった流れで会計を済ませる。幸運にもその頃ちょうど、エイルは入り口から厨房の方へと移動してくれていた。
「じゃあ、ご馳走様!」
「あ、あのっ! 泊っていかなくていいんですかっ?」
「この後一個用事で急いでて!」
適当な言い回しの言い訳で以ってこの場を後にする。人混みをかき分け出口へ急ぎ、そしてその外へ。
――後方から響く、「ありがとうございました」の一言。
俺はその言葉から逃げるように、宿舎の壁に沿って街とは逆方向へと身柄を隠す。
「――あのっ、ハルですか!?」
「……、……」
――先に言ってきた通り、彼女は俺をハルと呼び捨てにするつもりらしい。
「……。」
しかし、やはり店を出るのを見られてしまったようだ。
ただしその声の向くのは、全く明後日の方向である。
物陰から確認する限り、俺を追って出てきたエイルは街の方を目で追っている様子であった。稚拙な隠れ方だが、功を奏したとみるべきか。
「いない? ……ふむ」
そこで、彼女の姿が家屋の陰に隠れる。
俺は、……半ばまで万事休すだと理解しながらも、更に宿舎に沿って移動して、
――まさかの、行きついた半時計回り先で彼女、エイルとばっちり対面するのであった。
「――――、ハル?」
「あ、あはは。……こんばんは?」
「こんばんは。それで、どうして逃げました?」
「いやー、お上からもらった金で酒飲んでるのバレたらまずいかなーって?」
酒で頭が回らなくても、口は何やらよく回る。俺は、それなりにそれらしい言い訳をどうにか用意することに成功した。
のだが、
「この店で、ですか?」
「……。」
……流石に、難しかったらしい。
さらに言えば、この言動だ。
どうやらあの、シアン・ムーンは、バルク・ムーンの親族であるとみるのが妥当であるらしい。
――いちおうは、しらばっくれることにしてみるのだが、
「えっと、この店?」
「バルク・ムーンの妻と娘さんが営んでいる店で、という意味です。これは、偶然ですか?」
「……、……」
その悪手がいけなかったようで、俺はいっそ酔いが冷めそうなほどの感情に襲われる。
そして、返答に迷う。理屈を重ねるのに長けたこの口が回らないのは、酒と、春の夜長の風のせいであると俺はふと思った。
虫の音が鈴のようであったから、その邪魔をしたくなかったというだけのことだ。
だから俺は、腹さえ決めれば妥当な文句を用意できる。
「今朝、あの子と会ったんだ」
「……、……」
「その時、あの子は、シアン・ムーンと名乗った。とんだ偶然だって思ったよ。俺は……、」
俺は、
「……、……」
――そう言えば、どうしてこの店を選んだのだっただろうか。
約束だから? いや笑わせるなって話だ。そんな迂闊なことを、――この鹿住ハルがするものか。
「あの子の様子が、……――あの、気になって」
「……なるほど」
俺の独白を、エイルは納得した様子であった。
「私は、バルクさんの家族に、訃報を告げに来ました。……もしよければ、ご一緒されますか?」
「……。」
――そこで俺は、肯定を返す。
昼間エイルに与えた俺の印象を、損なわないためである。
/break..
「――そう、でしたか」
「……、……」
ダルク・ムーンの妻、そしてシアン・ムーンの娘にしてこの店の主、
ヴァイオレット・ムーンは、静かにそう言った。
――店の喧騒が、かすかに聞こえる。そこは二階の宿舎の空いた一室であった。
窓の採光で、部屋が月の色に色付いている。それ以外の光はない。人工の灯りは消したままだ。
闇の帳が影を作り、バルクの訃報を聞いた二人の表情を覆い隠している。
俺が、……ここにいていいのかと、
俺は、ふとそう思った。
「ご遺体や遺品は用意できません。はじまりの平原の拠点には、家屋の燃え残りがかろうじてあるだけでした」
「……、……」
「あなた方の家族は、異邦者を守るという使命を果たし、そして果たし切りました。どうか、……どうか、その」
「いえ、いいんです」
ヴァイオレット・ムーンがそう答える。
「私の夫は英雄でした。それが私には誇らしい。バルクは、最後まで英雄だった。そうでしょう?」
「……――、ええ」
「なら、それでいい。私は仕事に戻ります」
「あのっ! ……、葬儀の日取りが決まりましたら、その、教えてくださればと思っております。公国は、英雄に……、私はっ」
「――どうか、ご自分の仕事をなさってください。私たちは、あの人のことを誇りに思います」
バイオレット・ムーンは、
……本当に、美しい女性だった。
それでいて、あの厨房から怒声を飛ばして店を回している姿も想像が出来る。強く、聡明で、素晴らしい人物であるに違いない。
彼女はエイルのことを、対等以上の関係だと理解しながら、そしてここで、エイルのことを気遣ってこそ言葉を遮ったのだろう。
再三に思う。
俺が、ここにいてよかったわけがないと。
――失礼します、と残してエイルが部屋を後にする。それから、ヴァイオレット氏も直ぐに部屋を出た。
俺は、気勢を失した形になる。俺はきっと、ここに彼女を、シアンを残して立ち去ってやるべきだったのに、うまくそれが出来なかった。
だからだろうか、
……俺は、間違って、彼女に話しかけてしまった。
「俺が、この世界に来た日に、バルクさんに世話になったんだ」
「……、……」
「何もできなかった。恨んでくれ」
それだけ言って、部屋を出る。そのために戸に手をかける。
――そこで、
「違いますよ」
そう、シアンが応えた。
「父は、自分は異邦者を歓迎する仕事に就いたのだと、そう誇らしく思っていました」
「……、……」
「英雄と呼ばれた父が、それでも届かないような人たちに対して、そう言ったんです。誇らしいって」
俺は、
――違う。と、ふと思った。
転生できたことはただの幸運だ。拍手喝采などを受けるべきものではない。人はどうしたって、自分や他人の幸運を「実力だ」などと思ってやることのできない存在である。俺など、元の世界で言えば総人口分の石を投げつけられてしかるべきクソ下らない存在である。
この世界に生まれ落ちて、そして生来の才能と、それ以上の努力と周囲からの手助けで以って「英雄」などと呼ばれるまでに至った存在とは、あまりにも隔絶している。
生産性や、個人が持つ利益可能性や軍事力の話ではない。
俺と彼では、魂の格が違う。
「――父は」
「……。」
シアンが、言う。
それで俺は、それこそ生産性も利益可能性もないこの妄想を取りやめる。
そこで俺はふと、自分のこの後ろ暗い感情の根幹にあるものに気付いた気がした。
「異邦者を歓迎する仕事に就いたと、そう私に言ったんです。それから、私に、お前も異邦者を歓迎する立場であってくれと」
俺は、そう。
シアンの父であるバルク・ムーンが死んだ場所に立っていたことを、後ろ暗く思っていたのだ。
助けられなかったから、と。
その場にいたのに何もできなかったから、などと俺は、彼女ら家族に合わせる顔がないと思っていた。
「……私も、そうあるべきなんだと思います。何よりあなたは、父を殺したんじゃない」
そう、俺は、
「――父に守られた、そうでしょう?」
俺はバルクを殺してなどいない。
それなのにどうして後ろ暗いなどと思う必要がある?
その苛立ちが、後ろ暗い感情と一緒にあって、だから俺はさらに苛立っているのだ。
「この部屋は、今日は空き家なんです。もしよければ、今夜は、お金はいりませんからここに泊って行ってくれませんか?」
「……。」
沈黙すべきだと思って、俺は沈黙を返した。
「すみません、失礼します」
そう言って、静かにシアンが出口へと歩く。
強く、強く、一歩ずつ踏みしめるような歩みであって、俺はそこに、意固地のようなものを感じ取った。
そして、出口の際に、
「あの……っ!」
「……、はい」
彼女は、俺に一つ問う。
「ハルさんは、どうして、この店に来たのですか?」
「……、……、あなたたちが、どうしているのか心配で」
――そうですか。と、彼女は言って部屋を出た。
きっと、優しい彼女のことだ。俺のその言葉足らずな一言を、例えば「自分を守るために父を亡くした家族を、遠くからでも確認したかった」だとか、そういう風な好意的解釈で以って受け取ってくれたに違いない。
他方、俺は、
先ほどエイルに言った際にはあんなにも真実的であった言葉が、今はこんなにも嘘くさく響くことに、一つだけため息を漏らした。
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