第42話「誰?」
部屋に入ってきたのは焦点の合っていない目でぼんやりとしている大司教と、そんな本調子でない大司教の手を引いている副神官長だった。副神官長は大司教の顔色を窺いながら部屋に足を踏み入れているため、まだ私らに気づいていない。
「さぁ、こちらです大司教様。あの杖をご覧になれば、きっと大司教様の記憶もお戻りになられるはず―」
副神官長は顔を真正面に向けた。
「…………………は?」
人間驚きすぎると感情、表情を含め完全な「無」になると聞いたことがある。
まさに副神官長がその状態だった。
副神官長が捉えているのは私と夏芽と、夏芽が握っている水晶玉が取れた杖。
ぼんやりと部屋を見回している大司教を除き、私、夏芽、副神官長は一時停止したかのようになっている。実のところ、私の思考も真っ白になっていた。
しかし、この微妙な空気の中、動いた人物がいた。
夏芽だった。二人がこの部屋に入ってきてから夏芽が動くまで、5秒。たった5秒が妙に長く感じたのは久しぶりかもしれない。
夏芽は疾風の如く副神官長に近づき、副神官長を持っていた杖でガツンと殴った。
「あぐっ!」
うげっ。あ~、痛い痛い痛い痛いあれは痛い。すっごい、音した。
たんこぶなんてものじゃないな、あれ。
殴られた女神官は床に倒れ、気絶してしまった。
「………………あ~あ、何してんの夏芽」
普通だったらもっと慌てふためくのだろうけど、私の思考と感情は冷静だった。
この行動はまさに夏芽らしい、行動だったからだ。
「思わず、条件反射」
我が妹ながら、なんてとんでもない条件反射。
「バカ」
今の夏芽に対して、言いたいことと言えばそれしかなかった。
「あ~もう、どうすんのこれ」
私は気絶した副神官長に近づき、深い深いため息を吐いた。
さすがに頭を抱えてしまう。
ただの神官だったら眼鏡なし神官の時みたいに脅すなり力でねじ伏せるなりして、私らが神殿に忍び込んだことを伏せさせる自信があった。可能ならば、杖のことだって聞き出せたかもしれない。
しかし、私らの姿や壊れた杖を見られたのはただの神官ではなく化粧の濃いおばさんの副神官長。しかも夏芽が杖で殴り、こともあろうに気絶させてしまった。
これはちょっと、面倒なことになるかもしれない。
私たちはすでに王子や公爵令嬢という位の高い人間に十分な不敬を働いてしまった。さすがにこれ以上、国にとって影響力のある肩書きを持った人間に不敬を働くことを王族や神官たちは黙認してくれないだろう。王宮にとっての危険人物が国にとっての危険人物に変わり、断罪される可能性が十分ある。
私はその場にしゃがみ、倒れている副神官長を眺めた。
「あ~あ、このおばさん、察しただろうな。私らが何のために神殿に忍び込んだのか」
さてさて、どうしよう。
現状の打破を考えながらを眺めているとふと、ある部分に目がいった。首から上の部分だ。
今日も副神官長は顔面に化粧を塗りたくっている。そして、相変らず鼻腔にまとわりつくような余ったい香水も健在らしい。塗りたくった顔のまま、白目を剥いて気絶し、目を覚ます様子がない。
「ぷっ、くくくく」
笑うなっていうほうが無理だろ、こんなの。
なんで、こんな笑える化粧で笑える表情のまま気絶するんだ。
召喚されて初めてこの副神官長の顔面を見た時、笑える化粧だと思うよりもゲテモノレベルの化粧だと思う感情が前に出た。あの時は個人的に私のツボにはまらなかったため写真に収める気になれなかった。でも不思議なもので、こうして改めて見てみると副神官長の化粧も意外と味わい深いものだと思えてきた。
このケバい化粧、色彩豊かな芸術的な絵みたいだ。
そんな芸術的な化粧をしている副神官長が気絶している。
笑える笑える。厚化粧だけならともかく白目剥いて気絶してるんだからさ。
「ぷっくっく、やっべ、ちょっとツボに入ったかも。時間差でキタ………………ってあれ?」
ふと、気づいた。気絶している副神官長の頭にいつのまにぷっくりとこぶができていた。
それこそ、漫画に出てくるような大きさのこぶだ。
「厚化粧に、白目に、こぶ………………ふふふ、あっははは、わざとじゃないんだよね。ボケてるんじゃないんだよね」
副神官長はどこまで私を面白がらせれば気が済むんだ。
こんな面白いイロモノ、撮らないわけにはいかないじゃないか。
私はピクリとも動かない副神官長の気絶写真をパシャリと撮った。
「あ~もう、もしSNSが出来ていたらすぐアップしていたのに」
面白いと思うと同時に悔しい。この写真、SNSに上げれば絶対にバズる。
「あ~あ」
私は顔を上げて、大げさなほど嘆いた。
顔を上げた時、夏芽の肩から上部分が視界に入った。夏芽はじっと横方向を見ている。
「夏芽?」
そういえば、副神官長の顔を面白おかしく見ていた間、夏芽はずっと黙っていた。
何かをじっと見入っているから大人しかったんだろう。
私は夏芽の視線を辿る。
「あ」
思わず、声を上げてしまった。
すっかり忘れていた。この部屋には私と夏芽、女神官の他にもう一人いたんだった。
「あ………あ………あ………」
そのもう一人である大司教が怯えながら私たちから一歩、また一歩と距離をとっていく。大司教が後ろに下がるたびに長い金髪がゆらゆらと揺れ続ける。
「あ!」
やばいと思った。さっきよりも大きな声を上げてしまった。
夏芽の中では長髪の金髪男は条件反射で殴らずにはいられなくなっているんだった。記憶喪失の男を、再び渾身の威力で殴ってしまったら昇天してしまうんじゃないのか?
そんな考えが頭によぎった時だった。
「誰?」
夏芽はじっと大司教を見ながら呟いた。
「誰?こいつ」
「え、わかんないの?」
「知らない」
「大司教様だよ、夏芽が最初に殴った」
「………………あ~」
完全に大司教の顔を忘れていたみたい。
おいおい、日本だったら示談で済まないってこと自覚してる?
でも、意外だね。殴らないんだ?
てっきり、チンピラ黄信号の時みたいに問答無用で殴りつけると思ったのに。
でもまぁ、召喚時から時間が経っているからね。
金髪の長髪を目にしただけで、頭に血が上るようなことはしなくなったみたい。
熱しやすいけど、その分冷めやすい夏芽らしいと言えなくもない。
忘れたから、大司教をじっと見ていられたんだ。
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