海は見る場所によってイメージが変わる

工藤千尋(一八九三~一九六二 仏)

人生で最初の作品ですね

 海は見る場所によってイメージが変わる。目の前に広がる風景を見ながら時任学は思った。学の目に映る海は作業船が行きかい、煙を吐き出す工場やコンテナに四角く囲まれ工業的な雰囲気を醸し出していた。悪くなかった。昔から見続けてきた風景だ。防波堤から少し歩いた所にあるすぐ後ろが林に囲まれた砂浜。平日の昼過ぎ、学は学校をサボってこの場所に来ていた。ここは昔から学の秘密基地のひとつだった。他にも何ヶ所か彼だけの場所があったがここは特にお気に入りの場所だった。油が浮いた、よく魚の死骸が打ち寄せられるこの海では夏でも泳ぐ人間はあまりいない。学は時間さえあればいつもここにやって来た。自分だけの場所というのがよかった。別に何をするでもなかった。ただいつも変わらない風景をぼんやりと眺める、それだけで満足だった。ここより綺麗な海はテレビや写真ではたくさん見た事があった。それでもこの海が好きなのはきっと、この場所があるからだと学には分かっていた。

 彼は17歳。県下一の進学校で落ちこぼれてしまった少年だ。

 彼は別に勉強は嫌いじゃなかった。ただ、学校の勉強が嫌いだった。彼は本をよく読んだ。政治、経済、哲学、心理学、薬学、天文学。同級生の誰も知らない事を自分だけが知っているってのがよかった。けれどそれらは試験には出なかった。それが彼にはもどかしかったが、仕方がなかった。彼は偏差値30を受け入れる代わりに、人とは違った優越感を手に入れた。それは彼にとって、自分自身を隅々まで理解する事であり、同時に自分に対する理解を他者に許さない生き方であった。

 もともと人と接する事の苦手な彼は学校では誰とも話さなかった。それに加えて進学校にはありがちな順番至上主義というものが彼を分かりやすいものに変えてしまい、結局、彼と彼以外の人間がお互いに見下すという構図を作ってしまった。彼にとってそれらを解決する為に一番の近道は「諦める」事だった。

 授業をサボる事は彼にとって特権だった。その事自体に意味があった。皆が強制された時間を送っている時に、自分だけが強制から自由に逃れている事がよかった。何をするかはどうでもよかった。そしてその延長にこの場所があり、自分にだけ開かれたこの場所が彼をより一層、自由という高みに連れて行き、錯覚させ、循環を繰り返すのであった。

 海を眺める間、彼は言葉を忘れ、感覚のみが彼を支配していた。聞こえるのは波の音と時折聞こえる工業船が奏でる鈍い遠ざかる音だけだった。ここで吸う煙草も、時々聞くMDウォークマンも、難しい本も、彼の時間を演出する大事なアイテムだった。彼はここで背伸びをして、退屈な日常に戻るための準備をし、また日常で磨り減った時に自分を取り戻す為にここに戻ってくるのであった。

 彼がこの場所を見つけたのは小学校低学年の頃だった。その頃の彼はまだ、両親に連れて行ってもらった海しか知らなかった。たくさんの人が泳ぐ海、それがその頃の彼の海だった。ある日、一人だけで海を見に行こうとして、自転車を延々と走らせ、偶然たどり着いた場所がここだった。人の姿が全くない彼だけの海。その時の彼は世界中で自分だけが未知なるものを発見したような気になり、それから今までずっとこの場所の事は誰にも言わなかった。言う相手もいなかった。

 やがて遠くに見える工場から疎らな人影が現れる。終業の時間、若しくは交代の時間だった。彼はそれを見てゆっくりと立ち上がりズボンについた砂を払い落とす。もうこれまで何千回と繰り返してきた行動だった。それから諦めるように日常に戻っていく。それも何千回と繰り返した気持ちだった。


 学校はとてもつまらなかった。

 学校が楽しい奴なんてほんの一握りしかいないと学は思っていた。多分ほどほどに楽しい奴とほどほどにつまらないがその中に楽しさを見つけている奴がほとんどだと。実際、多少我慢さえすればそのほどほどは手に入ったと学は思っていた。けれど彼はそうしなかった。

 ようは簡単な事で未来のために今を捨てるか、今のために未来を捨てるかのどちらかだった。だから単純に彼は今を選んだのだった。選ぶというよりもそれは消去法だった。

 始業のベルが鳴る。担任の若い教師が教室に入ってくる。新卒2年目だ。いつも馴れ馴れしい口調とつまらない冗談で生徒に溶け込もうとする。別に嫌いじゃない、でも好きでもない。どうでもいい。そんな感じだった。

 授業が始まる。学にとって一番嫌な時間だが、単位の事を考えるとしょうがなかった。大切な一日の何時間をそれらに奪われるのはとてもつまらなくもったいなかった。学は、授業中は教科書とノートを開き、いろんな事を考えた。最近読んだ本の事や自分の考えやこれからの行動についてやその他の事をただぼんやりと考える。

「社会にでればこんなもんじゃないぞ」

 僕らは傍観者だった。

「今頑張れば将来楽しい事が、待っているぞ」

 その通りだ。

 学は心で相槌を打ち、楽しい気分になった。発達する頭。心は現実に支配された。

「サンタクロースはあなたの心の中にいるのよ」

 ヴァージニアは幻想の中に真実を見出そうとした。百年前のアメリカの話。受け継がれる物理主義。追い詰める物理主義。いつから先生と呼ばずに教師と呼ぶようになったのだろうと学は思った。幼い頃の先生のイメージ。親、兄弟、ライバル、先生は何にでもなってくれた。遠い昔の話だった。それともそれは自分自身が複雑になってしまったからなのか、それは学には分からなかった。

授業を最低限だけ受けてしまう。そうすればまた自分だけの時間が始まる。それは学にとってその耐え難い時間を上手く過ごす方法であった。

長い長いベルクソン時間。


 学は図書館が好きだった。午前中の静かな図書館は学の数少ないお気に入りの場所の一つだった。制服姿でも職員は何も言わなかった。

 まず奥側の席に座り、最初にその日の新聞を読む。空いている新聞全てを読む。大体一時間くらいかけてざっと目を通す。その後時間を決めて本を読む。最近のお気に入りは傭兵ものの本だった。正規の軍隊と違って彼らには強烈で、ネガティブで、様々なバックグラウンドがあった。愛する妻子を冷戦によって奪われ、自らの死を求めて最も危険な場所に行く男。五ヶ国語を喋りハイスクールの成績抜群で、ハーバードから奨学金付きで呼ばれるがそれを蹴って戦場に向かう少年。元億万長者のギャンブラーでありながら、紙切れに賭けた人生にとてつもない虚無を感じ、己の生命を賭ける事に快楽を感じる男。彼らには戦う理由が、命を賭けた気まぐれがあった。彼らが考える事や感じるものは全て死と隣り合わせであった。愛も、友情も、希望も、そして挫折感も。彼らは学をどんどんちっぽけなものへと変えてしまう。かっこいいと憧れは別物だが、学は単純に彼らがかっこいいと思った。

 マイク・ホア大佐がいなければコンゴは共産化されていただろうし、フランクの傭兵学校はアメリカに実在する。M―16は常にクリーニングしておかないとジャミングがおきる。クレイモアが炸裂する。AK―47はセミオートにしろ。


 その日学はいつもどおり昼過ぎに学校を抜け出し海に向かった。あの場所に行くためだった。梅雨特有のはっきりしない天気に加えて、蒸し暑さだけは夏を思わせる気持ちの悪い日だったが、加速する自転車で感じる、絡みつく風は汗ばむ体の不快感をその間だけ忘れさせてくれた。学校から遠く離れれば離れるほど気分は軽くなった。それは分かりやすい自由だった。しばらくするといつもの海が見えてきた。それは工場と煙突と煙とコンテナと工業船に囲まれた何もない海だった。学は自転車を降りて砂浜を歩きいつもの場所に急いだ。急いだ分息が乱れていた。学は足がふらつき転倒しそうになり、地面に手を付きバランスをとり上半身を起こそうとして頭を上げた瞬間一人の男の存在に気が付いた。学がいつも座っている場所に自分と同じ年頃の男が学生服で煙草を咥え驚きの表情で自分を見ていた。学も全く同じ表情だった。

「誰?」それは学が思った言葉で相手の男が実際に口にした言葉だった。学は何て答えたらいいか分からなかったのでただ黙っていた。しばらくの沈黙が二人にゆとりを持たせた。やがて相手の男が喋り始めた。

「制服って事は高校生か、学校はサボりか」

「お前だって学生だろ、学校はどうしたんだよ」学は言い終わった後に口調が喧嘩腰になっていた事に気付き少し後悔した。しかし相手の男の反応はそれに応じるものではなかった。

「それもそうだよな」相手の男は自分を省みる表情をしてその後笑った。学は笑えなかった。

「ここに来るのは初めてじゃないようだな」煙草を指で弾きながら男が言った。吸殻は回転しながら海に飛び込んでいった。「パーラメントの吸殻はお前のだろう。俺はブンタしか吸わないからな。だから俺以外の人間がここに着てるのは知ってた」パーラメントの吸殻は学の残したものだ。学は黙ったままだった。学は自分だけの場所をこの男に犯されていた事にすごくがっかりし、諦めの気持ちでいっぱいになった。

共有することは出来ない。

 学は黙って男に背を向けてこの場を立ち去ろうとした。

「待てよ」男の声。学は立ち止まり表情を変えずに振り向いた。

「せっかく来たんだろ。サボりもん同士仲良くやろうや」学はそのままの姿勢で立ち尽くした。学は迷っていた。何と言えばいいのかも分からなかった。しばらくして男が言った。

「どうしてもって言うならいいよ。俺が帰るから」男はそう言って立ち上がりズボンについた砂を払った。

 違う。

 学は思った。そうしている間にも男は帰り支度をしていた。学は何とか何かを伝えようといろいろと考えた。

「いや、帰らなくていいよ」それは学の頭ではなく本能が言った言葉だった。一瞬、男は呆気にとられた様な表情をし、その後に、それならいいやと言って再びその場に腰を下ろした。それから何かの本を取り出し学の事を気にせずにそれを読み始めた。学の事を意識しない男のその行動に学は多少気が楽になった気がした。学は男から少し離れた所に腰を下ろし、いつものように海を眺めた。

 しばらくの間、聞こえるのは波の音と遠ざかる例の音だけだった。二人は共有したそれぞれの時間を過ごした。時々煙草を吸った。風が吹いた。潮の香りがした。不思議と学はだんだん時間が自分だけを切り離していく気がした。学は男の存在を忘れた。

「お前名前は?」男の声に学は我に返って男を見た。男は読んでいる本から目を離さずに言った。

「時任」学は無愛想に言った。

「時任何て言うの?」

「学」

「ああそう」

男の興味が自分と本のどちらにあるのか学には分からなかった。自分と本とどちらがついでなんだろうと学は思い、自分の方がついでだったらいいなとも思った。男は続けた。

「竹里高のお坊ちゃんがサボり?」制服でばれていた。学も言い返した。

「工業はサボってもいいのかよ」

「いいんだよ」男はその間もページを進めた。本のタイトル。『方丈記』。工業の生徒と古文の名作のギャップが学に男に対する興味を持たせた。

「よく来るの、ここには」男が言った。

「たまに」

嘘。

「歳は?」

「十七」

「学年は?」

「三年」

「ためか」

「ああそう」

男は本から目を離さない。いつの間にか男が黙ると学は時間を持て余してしまう。男の質問を待つ自分に、学は気付かなかった。男はそれを楽しんでいるかのようであった。

「お前、童貞だろ?」

「えっ」学はそんな準備はしていなかった。男は初めて本から目を離し、学を見た。

「冗談だよ」男は表情を変えずに言った。学は男が悪い奴じゃないと思った。けれどそれをどう態度に表せばいいかが分からなかった。

「お前、面白いな」男が言った。「俺の名は吉田啓二。ここはいい場所だろ。多分ここは俺とお前しか知らないと思う。まあ、たまに来るからよろしくな」

そう言って啓二は鞄を持って立ち去った。学は黙って啓二の後ろ姿を見送った。彼は学にとって新しい種類の人間だった。その時学は微かにこれまで自分一人だけで大事にしてきたものに、初めて彼と言う他人を共有してもいいという気持ちを感じた。それは彼に対して理解を求める事であり、それを彼がちゃんと理解してくれる事を望む事であり、彼を認める事でもあった。それを期待する事はとても危険な事であったが、そう認識する事は学にはまだ無理であった。


 初めて啓二に会った時から何回かあの場所に行ってみたが啓二には会えなかった。回数を重ねる毎に学は啓二に会える事を期待している自分を認識した。最初はたまたますれ違いなんだろうと思い、次第に彼はもうあそこには来ないかもしれないという気持ちになり、初めて会ったあの時に素直な対応が出来なかった自分を責めるようになった。その間も退屈な日々は過ぎ、啓二の存在以外に学の中での変化は特になかった。

 夏休みも間近になり、学校の話題は夏休みの予備校の話で持ち切りになった。夏期講習、ゼミ、計画表、補習授業、それぞれがそれぞれの選択をした。

 期末テストも終わり午前授業が始まった。

 その日の授業の後、ホームルームが行なわれた。議題は『受験の夏を上手く乗り越えるには』だった。担任の後に私服姿の二人の女が入ってきた。

「彼女たちは君らの先輩であり去年の受験の勝者だ。今日は彼女たちの培ってきた受験のノウハウを教えて頂くために来てもらった。よく聞くように」

 担任が教壇を彼女たちに譲る。女はお互い譲り合って、その後かたっぽのデブの女が一歩前に出た。

「私の名前は……」

 受験により得たもの、教訓、ハッピーエンドを迎えたものが後ろを振り返りながら余裕をかますように。延々と続く。

「一浪した時自分は世界で一番不幸なのではないかと思いました」

「浪人が決まった時は『絶対にいい大学に受かって、現役で受かった人達を見返してやる』と心に誓いました。今思えばその心がばねになり合格に繋がったと思います」

 周りを見渡してみる。普段馬鹿やっている奴らも皆じっと聞き入っている。やがてデブの話が終わり教室中に拍手が巻き起こる。次に黒のTシャツを着た女が前に出る。耳にピアスをしている。前の女と似たような事を話す。学は何も考えずに大あくびをした。前の方の席だったため黒Tシャツの女と目が合い、睨まれる。学は何も考えずに目を逸らす。時計を見る。あと十五分だ。話の最後の方になって黒Tシャツの女は急に涙ぐみ鼻をすすり始めた。

「私はようやく今年志望校に受かる事が出来ました。けれど一緒に頑張ってきた親友は……。とても辛いです」

 黒Tシャツの女は泣き崩れてしまった。デブの女がそれに寄り添って泣き始めた。周りを見ると皆が深刻な顔をしていた。中には泣いている奴もいた。何か狂ってると学は思った。あと五分。学はそわそわした。学は鞄に入れ忘れていた筆箱に気付きそれを鞄にしまおうとした。それは今の空間には合わない行動だったらしく、担任が学を注意した。回りの奴らが退いていくのが分かった。担任がちゃんと話を聞いているのかといった。学は聞いていませんと言った。自分がなんでそう言ったのか学は分からなかった。学にはそれが利口な答えじゃないと分かっていたが利口な答えはその時したくはなかった。担任が学の頬をビンタした。回りから陰口が聞こえた。デブと黒Tシャツが睨んでいた。味方はいなかった。学には最初から分かっていたし、別に覚悟もいらなかった。学は時が過ぎるのだけを待った。


 啓二に会えたのは夏休みの前日の午後だった。いつものように期待を胸に抱いてあの場所に行くと啓二はあの時と同じように煙草を咥え、本を読んでいた。学は最初平静を装って軽く挨拶をした。

「やあ……」

「おう、久しぶり、……時任だったっけ」

 それから会話を重ねる度に学は分かりやすいほどに饒舌になった。一時間もすると二人は並んで会話を楽しんでいた。学は本当に楽しんで啓二はそれに合わせていた。学は質問と自分の知識や経験を話したが学校の事は何も話さなかった。学は話す度に啓二の理解を喜んだ。ただ話を聞いてくれるだけでよかった。いつもの海は気にも留めなかった。どれくらい話していただろうか。辺りはすっかり暗くなっていた。時間だけは感情を持たずに冷静に進んでいたのだ。啓二が立ち上がりそろそろ帰るわと言った。学は慌てて自分も帰ると答えた。

「啓二はここにはいつ来るの?」学は勢いに任せて聞いた。対等な関係でいるためにはそれを聞く事はあまり気が進まなかったが今日までのジレンマが学を強く後押しした。啓二はそんな学の気持ちに気付き、傷つけないように表情を変えずに少し考え雨が降らない限り毎日来るよと言った。


 夏休みになった。学は毎日補習に出た。そうすればそのあとの時間が引き立った。試験に出る知識を頭に詰め込み、そのあと啓二に会った。啓二は涼しくなる夕方くらいに現れるのでそれまで教室に残り一人居残りで知識を詰め込んだ。それは啓二と会うようになり時間を持て余す事が以前より辛くなった学の見つけた規則正しい生活だった。

 その日の午後も学は教室で一人教科書を開いていた。しばらくして人の気配がし、それはだんだん近づいてきてやがて教室の入り口で止まった。クラスメートの山内だった。クラスに友達のいない学は当然山内と話をした事もなかった。山内は缶コーヒーを二本持っていた。

「はい」山内は缶コーヒーを学に差し出した。

「あっ、と」学はポケットから財布を取り出そうとした。

「おごり」山内はそう言って学の前の席に座った。

「ありがとう」

「最近すごいね」

「何が」

「君のがり勉」

「みんなやってるだろ」

「以前と全然違う。前はもっと……」

「馬鹿だった」

「……利口じゃなかったよね。授業も聞いてなかったし」

「よく見てるね」

「そう、まあいいや。それでどうなの?手応えの方は」

「普通さ」

「そう」

 それから山内はしばらく窓の外を眺めていた。沈黙が続く。やがて山内が口を開く。

「君はクラスの奴らをどう思っているの?」

「別に、普通じゃないの」

「君と同じかい?」その時初めて山内が考えている事、学に期待している答えが分かった。

「同じだろ」間をおいて学は答えた。山内は笑った。

「そう」

 そう言って山内は空き缶を教室の隅のゴミ箱に向かって投げ捨てた。空き缶は壁に当たって転がった。


 啓二との会話は楽しかった。啓二は学の話をよく聞いてくれた。学にとって理解される事はとても心地よかった。彼だけは自分の本当の事を知ってくれている。それだけでよかった。

 夏休みの終わりに近づいたその日も二人は夕方からあの場所にいた。

「学は卒業したらどうするんや」珍しく啓二の方から学に質問した。学はそんな事をはっきりと考えた事がなかった。

「多分大学に行くと思う」

「そのあとは?」

「分からない。考えた事ない」

「そう」啓二は言った。

 啓二から先の事を聞かれるのは学にとって嫌な気がした。先の事は余り考えたくはなかった。今が楽しかった。先の事を考える事は今の楽しい時間の終わりを想像する事であり、避けられない現実だった。

「啓二はどうするの?」学は探る気持ちで言った。

「多分就職する」

「どんな仕事?」

「さあ」

 いつかこの場所に来る事もなくなり、啓二との関係もなくなってしまう。そう考えると学はどうしょうもない気持ちになった。学はそういう気持ちにならないようにその事を考えないように、出来るだけ気付かないようにした。


 夏休みが終わった。その頃には学の偏差値は急激に上がり、教師は喜び、学ぶに賞賛の声を浴びせた。それでも学の気持ちは何ら変わらなかった。クラスの奴らと仲良くなれる気はしないし、いい気もしなかった。

 それでも学が望まなくともクラスの中での学の存在は前とは違うものになってしまった。それは二学期の始め頃だった。その日いつもどおり教室に行くと黒板に小さな文字でこう書かれてあった。

 KILL 時任

 学は最初、その事の意図が分からなかった。授業に来た教師がそれに気付き何も言わずに消し、何事も無かった様に授業を始めた。学自身そんなに気にも留めなかった。学は昼休みに数人のクラスメイトにトイレに連れて行かれた。トイレにも数人の男子生徒が待ち受けていた。その中には山内も交じっていた。学にはその光景の意味が分からなかった。

「お前、何調子に乗ってんだ」

目の前にいた男が学に唾を吐きかけた。同じクラスの内田だった。

「目障りだよ」

誰かがビンタをしてきた。痛みは感じなかった。よろめいた学を山内が受け止めた。彼はそのまま学に膝蹴りを浴びせた。学には何も分からない。そのあと回りにいた男たちが一斉に襲い掛かってきた。

 拳が次々と顔面に入る。足のつま先がわき腹に刺さる。学は混乱した。何故。かろうじて客観的な事実として自分が殴られ、蹴られているという現実しか理解出来なかった。認める事は出来なかった。学は丸まりながら啓二の事を考えていた。ただ、啓二に今の自分を見られたくないなあと思っていた。男たちの目はぎらぎらしていた。全員が歯を食いしばって笑っているように見えた。気が付けば口の中は血だらけであった。男の中の一人が他の男に何かを命令していた。よく聞こえなかった。二人の男が学の両脇を固定した。違う男が学のズボンを降ろし始めた。学は何も抵抗しなかった。やがて下着も脱がされ性器をむき出しにされた。男たちは笑っていた。その中の一人がカメラを取り出し学の姿を撮り始めた。学は虚ろな目でレンズを見ていた。皆笑っていた。学は何も抵抗しなかった。全てが学の理解を超えていた。何も分からなかった。ただ、啓二に今の姿を見られたくないなあと思っていた。やがてチャイムが鳴り、学は掴んでいた男の手から解放された。男たちは衣服を学に投げかけながら出て行った。唾を吐き掛けながら出て行くもの、蹴りを入れて出て行くもの、様々だった。全てが学の理解を超えていた。


 学は放課後、いつもの場所に向かった。何故だか分からないが啓二に会いたかった。啓二はいなかった。学は待った。時間はゆっくりと進み、あたりは暗くなってきたが啓二は来なかった。学は啓二の事を考えていた。啓二は他の友達と会っているのだろうか、そう考えると学は苛立った。耐え切れない嫉妬心と孤独感。学は啓二を待った。ひたすら待った。待つしかなかった。知らない間に学は涙を流していた。暗闇と時間と単調な波の音が学を消し去ろうとしていた。ちっぽけな存在。学は自分自身の存在さえ一人では見出せない事に情けなさを感じた。微かな潮の香りを感じる。それは自分を認めているのだろうか。自分の存在は彼にしか……。そこに自分は存在していなかった。

「何してんだ」

 啓二だった。彼のその言葉はその場の全ての暗闇を取り払った。学の中に新鮮なものが吹き込まれていく。自分の中に自分が戻ってくるような感じ。

「お前こそ何やってんだよ」眼を擦りながら学は立ち上がった。目は真っ赤に腫れ上がっていたが暗闇がそれを隠してくれた。

 啓二がいる時間。その時間だけが学が存在できる唯一の時間であった。


 奴らの行為は日増しにエスカレートしていった。教科書は切り裂かれ、体中痣だらけになった。奴らは優等生だった。ほとんどのものが成績上位のものだった。学は何の抵抗もしなかった。奴らはいい気になった。学はやがて想像の中で彼らを一人ずつ殺していった。学の頭の中は殺戮の館となった。

 体を端から切り落としていく。指を切り落とし、手首を切り落とし、腕を切り落とし、段々体が小さくなっていく。奴らの引きつる顔を思い浮かべてみる。学はたまらなくおかしくなって笑ってしまう。学は自分が正常だと思っていた。学の偏差値は六十を超えた。成績上位者の貼り出しに名前が出るようになった。それと共に奴らに呼び出される回数も増えていった。

「スカッとするぜ」

 皆が口々にそう言った。学ははけ口だった。それでも辛くはなかった。自分には啓二がいる。それだけでよかった。彼とは毎日会った。彼は自分の全てを受け入れてくれた。彼は自分の痣を見ても何も言わなかった。学は自分の凄さを彼だけが分かってくれていると思っていた。学はたくさんの読んだ本の話をした。自分は世界一頭がよかった。それが自分だと。自分は天才だと。そしてそれを彼だけが分かってくれていると。学は信じて疑わなかった。

どんなにひどい事をされても顔色を変えない学に男たちの行為はどんどんエスカレートしていった。髪の毛を切られ、ゲロを浴びせられた。それでも学の態度は変わらなかった。

啓二。

ケイジ。

けいじ。

それだけでよかった。


「卒業したらどうするんだ」その日も学は二人だけの場所に来ていた。学は海を眺めながら言った。この質問は学がいつも繰り返していた質問だった。啓二がその質問にまともに答えた事はなかった。学はいつもの癖で答えを期待せずに漠然と尋ねたつもりだった。

「この街を出るよ」

 その答えに学は驚き啓二の顔を見つめた。啓二は視線を変えずにじっと海を見ていた。

「でてどうするんだ」学は興奮気味に尋ねた。

「考えていない」海を見たまま啓二は言った。

 しばらくの間沈黙が続いた。学は焦った。啓二が自分の前からいなくなる事に対しての恐怖を感じていた。逃げ場がなかった。その先は考えられなかった。

「俺も一緒に行く」すごく馬鹿げた台詞だとは自分で分かっていたが言わずにはいられなかった。

「考えとくよ」そう言いながら啓二は軽く笑った。学はその言葉を信じ、自分を安心させようとした。信じるしかなかった。そしてしばらくの間沈黙が続き、啓二が口を開いた。

「そういえば学とは遊びに行った事がなかったな。これからどっか遊びに行こうぜ」

 そう言って啓二は立ち上がって歩き始めた。学は啓二のあとに続いた。あたりはすっかり暗くなっていた。


 学は啓二と夜の街を歩いていた。学にとってあの場所以外のところで啓二といる事は不思議な感覚だった。自分と啓二とあの場所。その三つが揃った時に初めて自分の存在が見出せていた学にとってそれは冒険だった。

 ネオンが照らす街には様々な人達が歩いていた。背広姿のサラリーマン、道に座り込む若者、化粧の濃い女、チンピラ風の男、作業服を着た男、いろんな人達が街の人波を作っていた。

 啓二に連れられるまま一軒のパブに入った。学にとってこんなところに来るのはもちろん初めてだった。それは学の知らない啓二の顔だった。カウンターに座りお互い目を合わさずに黙っていた。古い音楽が流れていた。学は味の分からないただ苦いだけのお酒をひたすら飲んだ。お酒を飲めば嫌な事は忘れられるものだと思っていたからだ。啓二はそんな学の姿を見て強いねえと言った。学は返事をせずに飲んだ。心の中の不安を振りほどくためにアルコールを淡々と胃の中に流し込んでいった。

「ついていくからな」

 グラスを叩きつけ学は呟いた。それは自分に言い聞かせるようで、啓二に伝える言葉でもあった。啓二は学を微笑みながら学を見た。学には笑う啓二の目が子供を見る大人のように感じられた。

 店を出て二人は宛てもなくただ歩き続けた。夜風が火照った顔に当たり気持ちがよかった。ふらつく学を啓二が支えてくれた。学は例えようのない切ない気持ちがこみ上げてくるのを感じた。酔ってなんかいなかった。学は支えられた腕を振り解き啓二に向き合い目を見つめた。いつもの何でも聞いてくれる啓二の目だった。

「啓二は俺の唯一存在できる場所なんだ。啓二が……」

 言葉が続かなかった。学には恥ずかしさも照れくささもなかった。啓二の目は変わらないままだった。学はその目に耐え切れなくなり視線を逸らした。その時繁華街には似合わない真面目そうな二人の若者と目が合った。クラスの奴らだった。二人とも散々自分を殴った奴らだった。多分塾帰りなのだろう。二人ともびっくりした顔をしてすぐにこちらに近づいてきた。学は啓二を連れて逃げようとした。啓二を汚されたくはなかった。いつもの自分を啓二に知られたくなかった。

「啓二、行こう」そう言って走り出そうとした時だった。

「こいつらなのか」啓二が言った。学は驚いて啓二の顔を見た。啓二は何もかも全て分かっているという顔をしていた。

「おい、時任。何やってんだよ」相手の男そうが言った瞬間、啓二の拳が男の顔面に強く入った。二発、三発、一方的だった。啓二の手はあっという間に血だらけになり、男は地面に倒れた。一瞬の出来事のためもう一人の男は呆然と立ち尽くしていた。

「お前もやれよ」啓二が言った。今まで想像の中でしかなかった暴力。その想像と現実の狭間で学は戸惑った。立ち尽くしていた男は逃げようとしたが啓二が後ろから捕まえ羽交い絞めにした。

「早くやれって」啓二の言葉が学の背中を押す。学は様々な自分の中の不自由なものを全てぶつけるように男に殴りかかった。拳が次々に男の顔面を捉えていく。その度に得体の知れない快感が学の体の中を満たしていく。腹を殴る。男が口から汚物を吐き出す。蹴り上げる。悲鳴を上げる。学は止まらなかった。自分の手がどんどん赤に染まっていく。たまらなく気持ちがよかった。

 相手の男は二人とも地面に倒れてしまった。無防備にむき出しにされた横腹を蹴り上げる。男が呻き声を漏らす。学ぶが蹴り上げる。男が許しを請う。その度に学の中を何かが走りぬける。

「もういいだろう」啓二が言った時だった。

「あそこです!」こちらを指した男と警察官の姿が見えた。

「逃げろ!」啓二が叫んだ。学はその声に弾かれ走り出した。走りながら拳の痛みがたまらなく心地よかった。気持ちよかった。学は笑っていた。


 次の日、昨日の二人のクラスメイトは学校を休んでいた。学は何も言われなかった。自分の中のジェノサイドを啓二が解き放ってくれた、そう思っていた。学は学生服に中に鉄パイプを忍ばせていた。やがて奴らに呼び出される。頭の中の、殺戮の光景が現実になる。自分は許されたのだ。学は呼び出しをじっと待った。呼び出しはすぐにかかった。学の体は期待のため震えていた。トイレの中には五人の男がいた。

「今日も痛ぶってやるぜ」奴らはニヤニヤしていた。学もニヤニヤしていた。

 学は鉄パイプを取り出した。男たちの表情が驚きに変わる。堪らない。

「死ね」

 狙いを定めて鉄パイプを振り下ろす。男の頭が大きく弾かれる。真っ赤な液体が体や壁や床に噴水のように噴出す。

 止まらない。

 頭、顔、腕、足、逃げ惑う奴らを一人も逃がさず学は凶器を振り下ろした。赤に染まる空間。

 止まらない。

 床の上に這い蹲り動かなくなった奴らにいつまでも凶器を振り下ろす。学の中を昨日と同じ快感が走った。なんともいえない興奮。啓二に認められている自分とは違った自分の存在がそこにあった。確かに自分は存在している。

 学は笑っていた。

 学は叫んでいた。

「僕は狂ってなんかいない。そうだよね、啓二」


 学は鉄パイプを放り投げ、学校を飛び出しあの場所を目指した。啓二に会いたかった。啓二の顔が見たかった。学は急いだ。潮の匂いを感じる。海が見える。あの場所に行けば啓二が待ってくれている。学は急いだ。自転車を放り出し、砂浜を走り、あの場所を目指した。

 啓二はいなかった。

 学はその時初めて自分が血だらけなのに気が付いた。それから一冊の本を足元に見つけた。『方丈記』だった。学は拾い上げると一枚の折られた便箋が挟まれていることに気付いた。血だらけの手でそれを広げるとそこには大人びた字が書かれてあった。

『時任へ

 俺は今日この町を出る。学校もすでに辞めていた。お前にも本当は言うつもりはなかった。お前は俺についてくると言った。昨日ずっと考えてみたがやはりお前を連れて行くことは出来ない。お前は俺に全てを求めたと言った。でもそれじゃ駄目なんだ。お前のために俺は一人で行く事にした。お前は俺に存在を求めたと言った。俺だけにそれを求めたと言った。けれどそれは臆病な存在ではなかっただろうか? ただ自分の中の自分を守ろうとしていただけではないだろうか? 人を殴る事も、お前が学校に行く事も、お前がおまえ自身であることを認める事も全てがお前の存在であり、生きている証だと俺は思う。

俺だってそんなに強くはない。

求めるなら全てのものに求めてみろ。

強くなったお前ともう一度会える日を楽しみにしている。


俺もお前のように誰かを求めてみたかった。

           啓二   』

学はしばらくの間その手紙を呆然と眺めていた。啓二からのそのメッセージは学を突き放すようでどこかに優しさと学には見せた事のない弱さがあった。学は立ち尽くした。解く事の出来ない方程式。

僕は啓二に……。

潮の匂いが学を包んだ。波の音と工業船の鈍い遠ざかる音が学を包んだ。

学は便箋を海に向かってそっと手を離し、波がさらっていくのをじっと見守っていた。















 いやー、今でもこの作品が一番好きです。著者より。

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海は見る場所によってイメージが変わる 工藤千尋(一八九三~一九六二 仏) @yatiyo

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