第7話

 バスルームは綺麗に片付けてあった。いつも乱雑に置かれていた石鹸やシャンプーがきちんと並べられてあった。彼女の気遣いだった。シャワーを浴びながら彼女が言った言葉の意味を考えたが理解する事が出来なかった。しばらくしてシャワーのお湯がいつもよりぬるいことに気が付いた。彼女が温度調節をしたためだった。振る舞いや考えよりずっと等身大の彼女がそこには感じられた。それは聡子の時には感じられなかったことだった。今はそれらが悪くないものとして私の体に受け入れられていった。お湯は渦巻きを作りながら排水溝へと流れていった。その様子に気をとられた私はしばらく渦巻きをじっと眺めていた。お湯は私の体を伝い、床を流れ排水溝へと流れてゆく。時々石鹸の泡を混ぜると渦巻きは綺麗に際立った。次第にスピードを増しては吸い込まれていく泡。唾を垂らしてみる。同じように円を描きながら吸い込まれていく。際限なく溢れ、流れていくそれは永久運動のようであり、その美しさに私は私も一緒に吸い込まれていきたい願望に駆られると同時に、その向こう側を知りたい衝動に激しく取り付かれてしまった。それほど、気持ちよさそうな渦巻きだった。シャワーを止め、溜まっていた最後のお湯が流れた後、渦は消えてしまった。

 流れるものが無くなってしまったからだ。

 

 体の滴を拭き取り、まだ火照りが残るうちに部屋へ戻ると彼女は眠っていた。彼女は私を試しているように見えた。私は髪を乾かし、煙草を吸い、電気を消して蒲団に入った。私は彼女の期待を裏切らないことより、彼女の私への興味がなくなることを恐れたため、彼女に手を出さなかった。

 私は蒲団の中でしばらく暗闇を見つめていた。いつもの癖でとりとめのないことがいくつも浮かんでは消えていった。それらはいくつもの過程を試みることと結果を予測することと考えを打ち消すことの繰り返しだった。時間というベクトルの消えた空間は何者にも勝る開放感で溢れていた。暗闇はやがて私の思考をも消し去り、現実と空想の狭間を架け橋のように私がいた。向こう側にもこちら側にも私は存在できた。それは特権のようなものであった。それを許すのも私だったが、どちら側にも初めから罪は存在しなかった。そしてそれらは何よりも優しかった。なぜならそこは私だけの世界であり、隅々まで私は知っていたからである。そして今日はいつも以上に心地よさを感じることが出来た。

「お兄ちゃん」

 彼女の声に私は現実に引き戻された。私はそのまま動かずに返事だけした。彼女も動く気配を見せなかった。お互いをそのままの姿勢で確かめ合った。

「帰らないの?」

 私は彼女の質問に単純に驚いた。質問の意味はすぐに分かったがそれ以外には様々な疑問があった。それらの思考を巡らせている間に彼女は続けた。

「ごめんなさい、留守電に入っていたの聞いちゃった。帰らないの?」

 家の留守電だった。説明はついた。そうなるとそのことはもう、どうでもよかった。残ったのは煩わしさだけだった。

「帰るよ」

「いつ?」

「もうすぐ」

「だめだよ」

「そうだね」

「じゃあ質問を変えよう。なんでお兄ちゃんは普通なの?」

「痛みを感じないからじゃないかな」

「そうなんだ。それじゃあしょうがないね」

 そう言って彼女は黙ってしまった。息遣いで分かった。彼女は泣いていた。彼女が泣いた訳は分かる気がした。それは彼女が私と自分自身をダブらせたためだと思った。彼女はフィルターのように私を通して痛みを感じたのだ。

 それは私にはどうしようもなかった。

 彼女はいつまでも泣いていたので私は途中から風呂場で見た渦巻きの事を思い出していた。やがて暗闇が全てを包み込んでくれた。

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