第6話

 部屋に入ると彼女は泣いていた。私は何も言わなかった。彼女は泣き続け、私はそれをずっと見ていた。部屋は彼女の泣き声だけだった。しばらくして彼女は泣くのを止めた。余韻を残さなかった。あるのは彼女のつい先ほどまで泣いていたとは思えないほどの笑顔だった。

「どうして何も言わないの?」

「別に」

「なんで泣いたと思った?」

「分からない」

「じゃあ、違う質問。人は何故泣くと思う?」

「さあ?泣きたいから泣くんじゃないかな? 別に悲しいからだけで泣く訳じゃないし、人それぞれだと思う」

「涙っておしゃべりよね」

「そのとおりだと思う」

「じゃあ話を戻すよ。私が何故泣いたか? 私は悲しみってことがよく分からないの。どこからが悲しみでどこまでが悲しみなのかが判断がつかないの。昔、母親の葬式で泣かなかった為に死刑になった男の話を読んだことがあるわ。卒業式で泣かないと冷たい人?花が枯れて泣くのはいい人?」

「さあ」

「私は自分の母親が死んだ時、お店で客を取っていたわ。でも後悔も懺悔もしないよ。私は自分の為に生きた、ただそれだけ」

「ああ、そう」

 彼女は微笑みながら私を見つめた。彼女の言わんとすることも分かったし、彼女は正しいと思った。私は彼女の微笑みを正面から受け止めた。その時私は、すごく下らないことだと自分では分かっていながらも私の心が少しずつ動かされるのが分かった。それは無意識のうちに私の心の奥底に積み重ねられていったものが理由なのか、それともまったく理由などない気まぐれなものなのか私にはその時分からなかったが、自分一人でどうにか出来るものではなかった。しかし、それに気付かない振りをすることは容易であった。

「でもね、悲しみは分からないけれど痛みなら分かるわ」

 彼女が付け足すように言った。

「痛み?」

「そう、私は痛みを感じて堪えられなくなった時、泣くの。辛かった記憶や楽しかった記憶、思いや振る舞い、私を通り過ぎていくものを私はどうしても受け入れなければならないの。誰だって、そうよね。痛みは感じるものだからしょうがない。私は母の死に痛みを感じることが出来なかった。だから泣かなかった。男たちに乱暴されていいようにされても私は泣かなかった。それは私には痛みじゃなかったから」

 彼女は言葉を選ぶようにゆっくりと、私がちゃんと分かるように言った。私は何も言わなかった。彼女も返事を必要としなかった。向き合うことだけで他には何もいらなかった。

「人の命は平等じゃないよね。自分の命は価値がある。他人の命には価値が無い。それじゃあ、その中間は?その中間の中間は?ランキングを付けると?親や兄弟だと価値が見出せるの?彼氏や彼女なら価値を見出せるの?」

「どうだろう」

「私には中間が無いの。ただそれだけ」

「難しいね」

「それで、私がさっき泣いた訳を知りたい?」

「どちらでもいい」

「つまんない」

 彼女のテンションが一気に下がっていくのが見てとれた。彼女はそのまま体を投げ出すように後ろにひっくり返り、またビールをこぼした。彼女はびっくりして私に真顔で謝り、二人でそれを拭いた。畳はすでに十分すぎるほどビールを吸い込み変色していた。

「お兄ちゃんはあ、私を、愛してえ、くれ、る?」タオルで畳を叩きながらこちらを見ずに彼女が言った。わざとそう喋る彼女はよく見れば畳の濡れていない所を叩いている。

「いいよ」

「嘘だ」

「そうだよ」

「じゃあ、言い方を変える。私を理解して。そして私を許して。そして愛して。決して順番を間違えないでね。お兄ちゃんはきっと私を分かってくれると思うの。その可能性を持っていると思う。だって私と似ているもん。私もそうするから。うん、私もお兄ちゃんを分かってあげられるようにがんばるから」

「別にいいよ」

 私は彼女の言っている事の半分も理解していなかった。彼女は畳を叩くのを止め、私を見つめた。

「いい、お兄ちゃん。愛は理解することと許すことなんだよ。それらによって愛が成り立つの。ここで大事なことは決してその順番を間違えてはいけないの。愛より後に許してもだめ。愛より後に理解してもだめ。だから愛は美しいんだよ」

 彼女の目が私を捉えて放さなかった。

 私は先程から感じ、気付かないふりをしていたものが、次第に隙間を見つけ心の隅々に染みこんでいくのが分かった。私はそれに耐え切れず、ごまかすように言った。

「セックスは?」

「セックスはお楽しみ会よ。親子や兄弟でセックスする?飼い猫とファックするの?セックスと愛は全く別物よ」

 立ち上がって彼女は付け足した。

「セックスが愛なら私は救われない」

 そう言って彼女はトイレに行って思い切り吐いた。トイレはすぐ隣だったから呻き声が筒抜けだった。私はそのまま彼女をバスルームへ連れて行き、バスタオルと歯ブラシを渡し、シャワーの使い方を教えてシャワーを浴びるようにと言った。ありがとうと彼女は言った。彼女がシャワーを浴びている間に私は空き缶を片付け、蒲団を二組敷いた。彼女のためだった。

シャワーを浴び終えて部屋に戻ってきた彼女は少し驚いた表情をし、お兄ちゃんも浴びてきなよと言った。ビールをこぼし過ぎたためタオルはもうなかったので、彼女が使い終わったものをもう一度使った。

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