第2話

 そんな時、歩道の向こう側から少し速いスピードで自転車が向かってきた。自転車はサングラスをかけた男が運転していた。まだ三月になったばかりで早朝になるこの時間、空はまだ真っ暗で、都会でもこの道は街灯などなく、かろうじてまだ営業している個人店の居酒屋やスナックの看板などの灯りが僕らを正確に導くわけであり。このままだと僕か涼君のどちらかに自転車はぶつかってしまうと思い、僕らはちょうど離れるよう歩道の両脇にお互いずれて、僕らが空けたスペースを自転車はスピードを落とさずに通り過ぎて行った。

「けったいなやつだなあ。こんなに暗いのにサングラスをかけてるなんて」

 僕は自転車が真横を通り過ぎる瞬間、チラッとだけ運転している男の顔を見た。サングラスをかけた若い少年だった。少年には聞こえないだろうと思いながら僕は呟いた。涼君は優しいからこういう時も争いにならないようにする。現在働いている居酒屋でもいつも愛想よく笑顔しか見せないし、それは作り笑顔には少なくとも僕には見えない。まだ五年、もう五年の付き合いだけど、彼の優しさを僕は知っているつもりだった。

「そう言えば裕也君は家に帰ったの?今日は」

「多分…、あいつ今日は実家じゃないですか?彼女と一緒だったんで。あいつ、今は千葉の会社の寮に普段は住んでるんです」

 裕也君は涼君の中学からの友達で、僕は涼君から裕也君を紹介され、すぐに彼とも親しくなった。

「そうなんだ。でも裕也君は今でも俳優になる夢を捨ててないの?そういう話はしないの?」

 裕也君は僕が人生で会った男の中でも三本の指の中の一、二を争うほどのイケメンだった。僕が裕也君を紹介されたのは今から二年ちょっと前でその時は涼君の働いている居酒屋に涼君の紹介で裕也君がアルバイトとして働くようになり。

 最初はお互い中学からの付き合いで、気が合って今も一緒につるんでいるとの説明だけは僕は聞かされて。それから顔を合わすたびに裕也君もだんだんと僕にもよく喋るようになったと言うか。それは裕也君から聞かされる涼君の昔からのいいところとか、昔から芸能界に興味を持っていて、本気で俳優になりたいと言う夢を持っているとか、彼の趣味であるバイクの話だとか。

「どうなんでしょうかね。あいつは多分まだ諦めてないと思うんですけど。でも二人で話す時やあいつの彼女と三人で話す時もあいつはそういうのは曖昧に答えると言うか、ぼかして違う話にしちゃうと言うか…」

「千葉の寮って、もう完全に正社員でしょ?」

「はい」

「就職してどれぐらいなの?」

「えっと、三か月…、過ぎたぐらいです」

「なんか休みがないとか。今日も昨日まで九連勤だったみたいだね。ブラックなんでしょ?」

「ええ、はい」

 いつもニコニコしている涼君がさらに笑いながら答えた。僕は裕也君からあと少しで夢が叶いそうだとつい最近まで聞かされていた。実際、そういうことに詳しくない僕でも彼の夢は叶うんじゃあないかと割と本気で思っていた。そりゃあ、芸能の世界で世に出ることがどれだけ可能性の低いことであり、それこそ実力よりも運の要素が現実として大きなウエイトを占めているんだろうなと僕は思っていたし、それと同時に実力がないと例え一瞬であろうとその世界で輝くことは絶対に出来ない厳しい世界であるとも思っていた。

 赤信号の前で僕らは並んで信号が変わるのを待った。横断歩道を渡ってしまえばそこは涼君の住むマンションである。僕は信号がいつまでも赤のままだったらいいのになあ、と思った。

「こないだですね」

 涼君が言った。

「うん」

「常連のお客さんが草野球チームを持ってまして。その人に誘われて草野球の試合に参加したんです」

 少し嬉しそうに涼君が話す。

「そうなんだ。どうだった?」

「代打で出してもらいました」

「え?代打の一打席だけ?」

 僕も東京で草野球チームに長く所属していたし、僕の所属しているチームはまあ、草野球なりに本当にぬるいチームであり、でも本来の草野球とはそういうもんだと僕は思っていたし、僕のチームは助っ人や野球のやりたい人は大歓迎で未経験者のどんなにフライも捕れない人でも助っ人に来てくれた時は必ずチームの誰かが順番にベンチに引っ込んで、助っ人の人には試合にはフル出場してもらい楽しんで帰ってもらうのが当然だと思っていた。だから僕は涼君にそんなことを言ったのだと思う。

「僕も野球なんてずっとやってなかったんで。試合前にはバッティングセンターに打ちに行ったんですよ」

「え?歌舞伎町?大塚?秋葉?東京ドーム?」

「いや、埼玉のバッティングセンターです。中学まではやってたんですが、もう十年以上ブランクがありまして」

 僕はその時初めて、涼君が昔、野球をやっていたことを聞かされた。僕は少しだけ驚いた。涼君、野球やってたんだ。でもそんなことはこの五年間、一度も聞いたことも聞かされたこともなかった。

 信号が青に変わった。僕らは歩き始めた。いつだって信号待ちの時は早く青になれと僕は思っていた。だから信号が青になって残念な気持ちになったのもこの時が初めてだった。時間は実は二種類あって、『ニュートン時間』と『ベルクソン時間』。前者は実際の時間のことであり、後者は感覚での時間のことだ。学校の退屈な授業が長く感じるのも楽しい夏休みがあっという間に感じるのも全て後者の時間である。

 涼君はすごく僕に何かを伝えたそうだったのが僕には分かった。

「で、その代打での一打席の結果はどうだったの?」

 僕は涼君に誘導尋問の様に問いかけた。

「センター前ヒットを打っちゃいまして」

 少しはにかみながら、それでもいつものようにニコニコしてて、そしてすごく嬉しそうで。

「へえ、すごいじゃん。一打席で結果を出すなんてすごいよ」

「いやあ、まぐれですよ」

 そう言いながら嬉しそうな涼君の表情は僕も嬉しかった。

 特別な時間はもう終わってしまう。でもそれは仕方ないことであり、別にまた次もあることであり、でも次回に続くみたいにこの空気は作れるかどうか分からなくて。

「なんかすいません」

 涼君の住むマンションの前に立ち止まった時、涼君が僕に言った。彼はこのマンションの一室に母親と弟と三人で住んでいる。間取りは2Kで六畳のキッチンと四・五畳のフローリングの部屋と六畳の畳の部屋。三つの空間がそれぞれ一直線につながっており、奥の六畳の和室からキッチンやトイレに行くには必ず四・五畳のフローリングの部屋を通らなければならない作りであることを僕は知っていた。別に彼の部屋に遊びに行ったことなど一度もない。でも僕はそれを知っていた。彼の弟は少し歳が離れていてこの春、高校を卒業する。JRに就職が決まっていた。僕にも兄と姉がいたが、僕は家を出るまでは田舎の一軒家に住んでいたから家族全員にそれぞれの専用の部屋があり、いろいろと一人になりたい時や家族に秘密にしたいことなど誰だって当然持っているものだと思っていて、涼君はそういうことでいろいろと不便を感じているんだろうなだとか、お金を貯めて一人暮らしをすればいいのにだとか思っていた。そういう話になった時、彼はいつも同じセリフを口にした。

「家には結構お金を入れているんです」

 僕はその言葉は都合のいい甘えたセリフだと思っていた。

 ここで少しだけ涼君と裕也君のことで僕が知っていることを。

 涼君は大学を辞めた後、ずっとアルバイトを、世間で呼ばれるところの職業フリーターであり、それは高校を卒業した後に進学せず、どこかの劇団に入って実家暮らしでアルバイトをしながら自分の夢を追い続けた(今もその夢を諦めずに追い続けているのか僕はしらないけれど)裕也君も同じ職業フリーターであったこと。今の時代、ニートや「働いたら負け」なんて言葉もあり、職業フリーターなんて別に二十代の若者だったらよくあることであるし。それでも弟がJRに就職が決まったことや、元々その道があっていたのかセンスがあったのかは分からないけれど、涼君が今働いている居酒屋で、店主の人から学ぶことも実にたくさんあるみたいで。涼君が料理の道に魅力を感じているのは確かであって、将来はぼんやりとだけど自分の店が持てたらいいなあぐらいに今は思っていることや、その店の店主からもその気になるような言葉をいつもかけてもらっていること。裕也君は実はあんなにイケメンでたまに劇団でならった時代劇での殺陣を見せてくれている時はすごく強そうに見えるのに、中学の時はひどい虐めを学校では受けていたこと。それが理由なのかは僕には分からないけれど裕也君の感性はとても敏感であること。涼君と同じぐらい人に優しい裕也君は決してその場にいない誰かを悪く言うことはなかったし、喋る時もその発言に責任を持つように、いったん考え込んで言葉を選びながら喋る。それは涼君と裕也君が同じ店で働いている時に何度か見たこともあり、お客さんの他愛のない質問や言葉にも彼は必ず一度考え込んでからゆっくりと自分の考えを口にする。それでも涼君と話をしている時だけはそれがない。二人の間には駆け引きみたいなものは一切なく、お互いにポンポンと二十代のその辺にいる若者同士であり、それを友達だからと僕も二人も思っていること。あと、僕が裕也君のような見た目をしていたら多分異性に対してかなりルーズになると平均より少し劣るぐらいしか異性経験のない僕は思う。なにしろ僕は今の嫁さんを含めて、ちゃんとお付き合いをした女性の人数は片手で余る。実際に今まで見た目だけはいいけれど中身は最低な奴でもいつも違う女を連れていた知り合いも何人かいた。そういうこともあって僕は裕也君の夢はいつか無責任にも叶えばいいなあとは思っていたこと。だからたまに会う裕也君から「どこそこのプロダクションのオーディションで何千人の中の最終オーディションの八人に残りました!」や「どこそこの事務所に入ることになりました!」の言葉を聞かされると僕は素直に嬉しくなり。でも詳しく話を聞くと事務所と言ってもギャラが出るわけでなく、逆に裕也君がその事務所に毎月決まった金額の月謝を払わないといけないことや、舞台のチケットはノルマ制で役によってノルマは差があって裕也君は一枚五千円のチケットを五十枚売ることがノルマで、売れなかったチケットは全て自腹で買い取らないといけないことを聞くと僕には裕也君の夢は都合のいいものに操られている様にも感じることもあり。そして僕自身もずるいからそんな裕也君に心の中で思っていることは口にすることが出来なくて、「すごいじゃん」とか「もうあと少しでデビューだね。今のうちにサイン貰っておいた方がいいかなあ。サインしてよ」みたいなことばかり言ってしまう。

「明日も仕事だろ?すぐ寝た方がいいよ」

 立ち止まって原付を支えたまま僕は言った。涼君は丁寧に頭を下げながらマンションの中に入ろうとした。僕は自分の気持ちを抑えきれず思わず言った。

「涼君!」

「はい?」

 涼君は振り返って僕を見た。

「明日も頑張ってね」

「はい!おやすみなさい!」

 そう言って涼君はマンションの中に消えていった。僕はそのまま左手で原付を支えたまま、右手でポケットからマルボロを取り出し、それを咥えてライターで火を点けた。僕はもう大人になってしまったのだろう。あんなことを言うために涼君を引き留めた訳じゃないことは僕が一番よく分かっていた。そして『あの時』の僕だったら間違いなくこう言ったと思う。


「大人になんかなるなよ」


 僕はさっき、ほんの数分前に見た暗闇の中、サングラスをかけて自転車を漕ぐ少年を知っていた。あの少年は僕だ。そして僕がその時口にしたセリフもずっとずっと昔、僕が言われたセリフであることも僕は知っていた。覚えていた。

 ズボンのポケットに入れたスマホが震えた。振動が続くから嫁からの電話だと僕は思ってそれを無視し、火の点いたマルボロを咥えたまま原付のシートからヘルメットを取り出し、それを頭にかぶり、顎ひもを結ぶなど面倒くさいのでそのまま原付のエンジンをかけて自宅に向かって走り出した。

 ほんの少しだけ原付を走らせれば到着する距離にある僕の自宅。その少しの時間、僕は昔の記憶を辿った。

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