ホムンクルスはなぜ死んだ?

たけ

第1話

 喫茶店の駐車場に車を停めると、池沢は手首を返して腕時計を見た。待ち合わせの時間より二十分ほど早い。


「この店に来るのも久しぶりだな」と池沢は小さくつぶやいた。


 大学から近いため、学生の頃は頻繁に利用していたが、社会人になってから立ち寄ったことはなかった。学生時代を思い出して少し懐かしく感じる。


 店に入ると、店員が何名かと聞いてきた。二名であることと禁煙席を希望することを伝えると、彼は窓際の席に案内してくれた。

 池沢はカバンを置いて席につきコーヒーを注文した。

 そのまましばらくスマートフォンでSNSを見て暇をつぶした。


「池沢先輩」


 不意に声をかけられた。池沢がスマホから顔を上げるとテーブルのすぐ横に山瀬が立っていた。彼女は池沢が通っていた大学の一年後輩にあたる。山瀬は薄いピンクのラビットファー付きジャケットに、アシンメトリーなデザインのふわふわしたスカートという出で立ちだった。パーカーにジーンズのシンプルな格好の池沢とはかけ離れた格好だ。


「お久しぶりですー」


 舌っ足らずで少し甘えたような喋り方だった。可愛らしい彼女見た目にも合っている。池沢は『砂糖たっぷりのミルクにレモンスライスを入れたような声』だと評していた。


「暖かいですねー。店の中。なんだか、ほっとしますー」


「そうだね」と池沢は短く答える。山瀬は微笑んだ。


「三ヶ月ぶりですねー、先輩」


「最後に会ったのは、私が研究室に遊びに行ったときだったかな?」


 池沢の言葉に山瀬は不思議そうな顔をした。


「あれ? 先輩、前は自分のことを『ぼく』って言ってたのに」


「社会人だからね。それ相応の一人称にしないとね」


「あらら、大人になっちゃったんですねー」


 山瀬は可笑しそうに小首をかしげた。彼女のブラウンに染めた髪が揺れ、バニラの香りが池沢の鼻をかすめた。


「香水、変えた?」


「あっ、さすが先輩。気づいてくれましたかー」


 そう言いながら、山瀬は首を振って香りを振りまいた。


「ねえ、先輩、新しい香水と前の香水、どこがどう違うか分かりますー?」


 昔と変わらない山瀬の態度に池沢は微笑みながら答えた。


「ええと、前は柑橘系だったのがバニラっぽい香りになった、かな」


「それだけじゃないんですよー」


「他にも何かあるの?」


 池沢は少し考える素振りをしたが、さっぱりわからなかった。香水に詳しいわけではないので、香りの違い程度しかわからない。しばらく黙っていると、山瀬は両手でバツのマークを作って言った。


「ぶー! 時間切れです! 実はコロンをトワレにしたんですよー」


 答えを言われても、池沢はあまりピンとこなかった。コロンとトワレが香水の一種なのだということくらいはわかるが、詳しくないので、どのくらい異なるのかといったことは理解できない。


「実は、コロンとトワレの違い、よくわからないんだよね」


 池沢の言葉に、山瀬は「そうなんですかー?」と目を丸くした。


「コロンとトワレは、それぞれ香料とアルコールや水の含有率が違うんですよ。香りの強さや持続時間も変わるんです。トワレはコロンよりもちょっとだけ香りが強くって。普通に使うと、きつい印象を与えてしまったりするんです。だから、肌からかなり離してつけたりします。あ、でも、雨の日とか夏だったら、爽やかな方が良いから、前のコロンをつけるかも」


 山瀬は少し早口になっていた。好きな話題なのだろう。嬉々として香水の話を続けていた。正直、池沢にとってはあまり興味のある内容ではなかった。そのためほとんど上の空で聞いていた。話半分で窓の外を眺める。信号待ちの車が列をなしていた。


 不意に、池沢の手の甲に冷たい液体がスプレーされた感触があった。


「え?」


 池沢は思わず声を出した。山瀬がいたずらっぽい顔でこちらを見つめている。その手には小瓶が握られていた。香水の小瓶のようだった。


「先輩、なんかぼーっとしてたので」


 池沢は眉を顰めた。山瀬は、そんな池沢の表情をさもおかしそうに眺めていた。


「どうですか? 香水をつけてみた感想」


「びっくりした」


「先輩の驚いた顔、新鮮でしたよ」


「ヒヤッとした。アルコールが入ってるって言ってたよね。気化熱かな」


 池沢は手の甲に鼻を近づけ匂いを嗅いだ。思わず眉間にシワを寄せる。


「結構、香りがきつい。それになんだかバラみたいな香りだ」


「そのうち、馴染んできますよー。時間がたてばマイルドな香りになってきます」


 山瀬は妙に嬉しそうな顔をしていた。


「このあと仕事なんだけど……」


「その時間くらいには、ほんのりとしたバニラの香りになりますよー」


「いや、そういう問題じゃない」


 微笑んで説明する山瀬に、池沢は苦笑しながら香水のついた手の甲を軽く撫でた。


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