第一章。胎動。

第一話。リリー・エピフィラム。

 美しい女が吊るされていた。

 異臭を放つぼろ切れを着た、長い黒髪の女だ。

 頑丈な手枷は天井と鎖で繋がれ、右足首は過剰な大きさの鉄球と結ばれている。

 月夜に輝く虚ろな瞳は、睨んだ男をどこまでも下へ下へと堕としてしまいそうな、妖しい光を湛えている。満身創痍のありさまでも、女の美貌は息を呑むほどだった。牢屋の奥につながれた女は、そのうつくしさ、その儚さも相まって、野蛮な囚人や粗暴な看守から大切に大切に、守られているようにも見えた。

 独房に穿たれたたったひとつの窓が、濃い鉄格子の影を石の床に刻んでいた。

 今や世界を支配せんと破竹の勢いで猛進を続ける帝国の、重罪人をぶち込む孤島の監獄。アルカルソラズと呼ばれる世界の果てに、女は一年ほど前から幽閉されていた。


「おい、リリー・エピフィラム」


 女の独房の中に、いつの間にか気味の悪い格好をした男が立っていた。

 黒い礼服に、頬まで口裂けた不気味な笑顔の仮面。その男は拘束された美女をリリー・エピフィラムと呼んだ。

 リリー・エピフィラムは、声なく目だけで返事をした。


「帝国は、フロミシタイトに明日にでも攻め入るつもりだ。そのままお前の国まで進軍するつもりだぜ。どうするんだ、軍神ヨルムンガンド?」


 リリーはそれだけ聞くと、目を伏せてしまった。

 軍神ヨルムンガンド。

 かつてそう呼ばれていたこともあった。

 徹底的な下準備によって、蛇の毒が回る如くいつの間にか敵軍に壊滅的な打撃を与える、リリーの策士としての才能。その異質な才能を湛えて、人々は神話の大蛇の名前でリリーを呼んでいた。

 その伝説の軍神が、汚物にまみれた風体で帝国に幽閉されている。重罪人の中に、放り込まれている。


「何もできない」


 薄汚れた外見とは打って変わって、凛々しい声ではっきりと喋ってみせた。

 穢れが無く透き通った、それでいて張りつめた一本の糸のような、凛とした声色だった。

 石を積み上げて粘土で固めただけの底冷えする独房に、美しい声が反響する。


「国が、祖国がいま滅びようとしているのに、私は……」

「俺が連れて行ってやろうか?」


 仮面を被った男は、リリー・エピフィラムに問いかける。

 この冷たい石の独房から連れ出してやろうかと。


「あなた……アルフね……道化師アルフ……いったい、今ごろ、エピフィラムに何の用。『預言者』から世界を守っているんじゃなかったの」

「預言者じゃなくても帝国がお前の国を滅ぼしちまう。もう気にしてらんねえよ。もっと大きなことをするための条件が揃ったんだ。二百年ぶりだ」

「条件……ラグナロクのこと」


 仮面の男は頷いた。

 神と魔人の大戦争。雌雄を決する決戦に巻き込まれ、地上の人間は全滅すると言われている。

 飽くまで、ただの伝説だ。子どもをしつけるために使われる程度の、他愛も無い話のはずだった。それも今や知るものはほとんどいない。


「神をも殺す『魔王計画』を完成させるのは、この時代しかない。二百年前でも、ここまではなかった」

「だから、私に協力しろと」

「しろとは言わない。聞いてるんだよ、リリー・エピフィラム、お前の意思を。エピフィラムには義理があるが、悪いがそれはリリー、お前じゃない。あんまり滅茶苦茶動き回られても俺が困るかもしれねえからな、ここから逃がすのは、今後、俺に協力するってこと前提だ」


 リリー・エピフィラムは、ぼうと暗い目で仮面の男を見た。

 軍神と讃えられながらも、最大の敵である帝国に囚われ投獄される。国が滅ぼされるというのに、敵地で指をくわえていることしかできない。

 その無力感たるや。力を持っていた時代があるゆえに、その記憶がリリーの心を余計に締め上げる。

 一体、どれほどの血が流れるのだろうか。

 世界で唯一、帝国に対して抑止力を持っているとさえ言われたペルジャッカという国は、その力の源であるはずの軍神ヨルムンガンドがいないまま、恐らく最後の最後まで戦い続けるだろう。

 学術に秀で、各国から優秀な学徒が集う国土は軍靴に犯され、これまで帝国に抑止力を奮っていた国軍は蹂躙される。世界の技術を停滞させるためにたった一人で壮絶な破壊活動を繰り広げる『預言者』の猛威に負けることなく、ここまでの文明を築き上げた気高き国が。

 リリーの顔を見る事ができた数少ない近衛騎士たちも、帝国軍がかざす重槍の錆になる。

 噛みしめた唇が血が流れても、リリー・エピフィラムが痛みに気付くことはなかった。


「帝国軍が、いつ隣国フロミシタイトを突破するか、わかるか、道化師」


 仮面の男は、リリー・エピフィラムに道化師と呼び捨てられた。

 リリー・エピフィラムは戦況を尋ねてきた。フロミシタイトはリリーの祖国であるペルジャッカの西に位置する。陸路ならばペルジャッカと帝国の間に位置することになる。フロミシタイトを突破されれば、ペルジャッカまで一週間とかからない。帝国の進撃速度で言えば、恐らく、五日で見積もるのは悠長過ぎる。


「もうすぐだ。一日は保たねえよ、間違いなくな」


 がしゃりと、手枷を繋ぐ鎖が鳴った。

 わなわなと震えるこぶしは、行き場の無い怒りを握りつぶすようだった。


「間に合わない。どう考えても間に合わない。どうしてこんなに遅かった、道化師!」


 感情の昂りを押さえきれず、リリーは道化師に罵声を浴びせた。

 罵声はそのまま、自分が堪えてきた弱音を浮き彫りにする。驚くほど止まらない涙を拭う手は中空に繋がれ、吐いて出る嗚咽を飲み込む気力は、もう、無い。

 気高き軍神ヨルムンガンドは、年相応の少女のように泣き声を上げた。

 この孤島に投獄され、始めて『実験体』として扱われた夜よりも多くの涙を流した。祖国の友人を、祖国の国民を、祖国の家族を想って、しゃくり上げながら泣き続けた。

 道化師は腕を組んで俯き、リリーに声をかけようとはしなかった。

 泣き止むまで、涙が枯れ果てるまで待った。月を隠し始めた叢雲が、やがて散るまでそうしていた。


「……あなたの言うことなんて聞かないわ」


 水を打ったような声が、独房内に響いた。

 道化師は驚いたように顔を上げる。

 リリー・エピフィラムは泣き止んでいて、疲れ切ったはずの両足でしっかと地面を掴んでいる。あぶらでぬらぬらと光る黒髪の隙間からの眼光は、見た者の魂を射抜かんばかりの鋭さだった。


「私は私の意思で……リリー・エピフィラムの名の元に、全ての責を背負ってみせる」


 道化師は組んでいた腕をいつの間にか解いていた。

 目はリリーに釘付けになり、そこから一歩も動けない。

 優位に立っていたのは誰だと、道化師の頭の中が真っ白になる。


「協力するのはお前だ、道化師」


 遂に道化師は後ずさった。鉄格子に背中がぶつかる。

 この目を知っている。道化師は確かに知っている。

 青い夜にぎらりと光る、魔的な光を知っている。


「まさか、お前……」

「私の敵は、私が殺す」


 蛇腹を失くした大蛇が、いま再び立ち上がる。

 自ら犯した大罪と、自ら招いた災厄の、その責任を果たすために——

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