死に際の言伝人

若奈ちさ

1 無常の時の中であなたは出会う

1-1

 今日はちょっと眠い。

 電車の中では吊革につかまりながら目を閉じていたが、いくら信号待ちをしているからといって、半分寝ているわけにはいかなかった。


 うわーんと、紫乃しのが真夜中に泣き出したとき、どちらも身じろぎしなかった。どちらだって疲れている。いつもなら、すっと立ち上がるのは夏帆かほのほうだった。

 こんな日だってあるだろう。拓司たくしは紫乃の相手をするために布団を抜け出した。リビングのソファに腰掛け、紫乃を腹の上にのせる。ゆりかごのように包んでやると、大抵は泣きやんで眠りについた。

 甘えん坊になっちゃうと夏帆には怒られるが、こんなに密着していられる子供の時期も、あっという間に過ぎてしまうのだから大目に見てほしいものだ。


 そうして暗闇の中、テレビを付けて、うつらうつら、そのまま夜を明かしてしまったのだった。

 夏帆が起きてくると、こんなところで寝てと、小言をいわれるかと身構えたが、ばつが悪そうに拓司のためのコーヒーを淹れ、紫乃のためのミルクを作った。今日の夜はデミグラスソースのオムライスとコーンスープだからなんて、好物を並び立てるのだから、かわいいところがある。


 寝違えた首をもみ、あくびとともに思い出し笑いまで引っ込めた。

 ふと視線を感じて横に立つ男を見やる。

 勘違いだったのか、男はまっすぐ向こうにある赤信号を見ていた。

 つばが広めのおしゃれな中折れ帽をかぶっているが、この陽気にフエルト素材はどうだろう。テーラードジャケットはコートかよってくらい、裾が長め。襟元にはループタイ、だろうか。若そうなのにクラシックな格好をしている。

 ペンダントトップのようなものが首元についているので、どんなデザインか見てやろうとしたら、自分の胸元でスマホが震えた。

 夏帆からメッセージが届いていた。


『目を離した隙に!』


 一気に眠気が吹っ飛んで肝が冷えた。

 ずっと一緒に家にいるといったって、片時も目を離さないなんて無理だ。だけど、なにかが起こらないように万全にしておくことは絶対だ。

 なにが起こったかも想像がつかない。次の文章が送られてこないので、『どうした』と打ち込んでいる最中にメッセージが届いた。


『つかまり立ちしてるんですけど!』


 一瞬、何のことかわからず呆然とする。

 つかまり立ちだって?

 すぐに写真が送られてきて、今度こそ声を上げて笑いそうになってしまった。

 角にクッションを付けたローテーブルに、両手でつかまって立っている紫乃が、カメラの方を見てどや顔をしていた。


 やっぱり、育児休暇を取るべきだった。

 紫乃の初めての○○に遭遇した瞬間が今まで、とはいってもこの7ヶ月間、いやそれ以上、一度もない。紫乃がまだ生まれる前、夏帆のお腹を初めて蹴ったときからずっと逃し続けているのだ。


『なんだって!』


 と、打ち返したところで人の流れが前方へと進んでいった。信号が青に変わったのだ。

 拓司もその流れに乗って歩きながらメッセージを打つ。


『うちの娘は成長が早いのがたまにきずだな』


 横断歩道を渡りきるころには返信してスマホを内ポケットにしまった。

 右方向へ行こうとすると先ほどの中折れ帽の男とぶつかりそうになった。

「失礼」

 と、男がいうので拓司も軽く頭を下げた。


 その時だった。

 派手なクラクションがして今来た道を振り返ると、横断歩道の真ん中でベビーカーを引く女性がもたついていた。車輪に何かがからまり、動かなくなってしまったようだ。

 左折しようとしている車の運転手が、イライラしたようにハンドルを指先でトントン叩いている。信号は点滅をはじめたところだった。


 せっかちなヤツだな。


 拓司は横断歩道に取り残されている女性の元へ走り出していた。

「手伝いますよ」

 女性に声を掛けてベビーカーを持ち上げると、クラクションにも平然としていた赤ん坊がいきなり鳴き声をあげた。

「すみません」と恐縮する女性に「とりあえず、渡っちゃいましょう」と促して横断歩道を渡ると、女性もドライバーに頭を下げながらついてきた。


 安全な場所にまで運んで下ろすも、火がついてしまった赤ん坊の機嫌はなおらない。泣き散らして暴れている。手に持っていたガラガラまで振り飛ばしてしまった。

「あ!」

「大丈夫、拾ってきますよ」

 女性を制止ながらガラガラを追って道路に飛び出した。

 まずい、と思ったときにはもう遅かった。

 目の前に車が突進してくる。


 どういうわけか、少年時代のことを思い出していた。

 あのときは左右を確認したつもりで道路を渡ろうとしたが、車が迫ってきていることに気づいていなかったのだった。寸前のところで車が止まり事なきを得たが、あれほど飛び出すなといっているのにと母親にこっぴどく怒られた。


 紫乃にも教えなきゃいけないのに。

 まだまだなにもやってあげてないのに。

 ここで死ぬわけにはいかなかった。


 車に跳ね飛ばされ、人が集まってきているような気がする。

 赤ん坊の泣き叫ぶ声が聞こえ、女性がうろたえるように顔を覆い、運転手が血相を変えてドアを開けている、そんな光景をぼんやりと感じるが、人の合間を縫ってやってくる男の姿がはっきりと見えた。


 中折れ帽の男だ。

 男は片膝をつき、拓司に顔を近づけた。

 男の首元についていたループタイは鷲をデザインしたものだったのかと、死に際にどうでもいいことを思った。


 男は中折れ帽を手に取って胸に当てると、うやうやしくいった。

「この世に未練を残すことなく成仏するため、最後に伝えたい人に気持ちをお届けする、言伝人です」

「ことづてびと……聞いたことないな」

「そうでしょう。誰しも死ぬのは一回きりですから」

「そうか……オレは……死ぬのか?」

「残念ながら」

「娘が……でも、娘はまだ小さくて、『死』どころか、言葉さえも理解できない。オレはまだ、死ぬわけにはいかないんだ」


 未練……か。

 これが自分の未練。

 死ぬことなんて想像したこともなかった。


 遠のいていく意識の中、拓司は娘に思いをはせた。

「大丈夫です。あなたの気持ち、きちんと受け取ります」

 中折れ帽の男に、拓司は見送られた。

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