とある精神異常者の脱走 File.22

@KoumiHukorome

1話完結

ㅤ精神病院での監視カメラの映像は、患者の突発的な危険行動や脱走を防ぐ目的で、それなりに散らかった一室で幾つも垂れ流されている。

ㅤ本来その映像を注視していなければならない夜勤担当の二人の職員は、敷地内では禁止されている煙草を──煙感知器が故障していることをいい事に──肺までたっぷりと満たし、トランプに興じている。

ㅤ片方の男はイカサマを働いて息子のクリスマスプレゼントの金を稼ごうとしており、もう片方はイカサマに勘づいて暴く為の証拠を眼を皿にして探している所だった。

ㅤ彼等はせめてBGMにでもカメラ音声を流すことが最低限の職務ではあったが、聞いているだけで狂人の悲鳴や妄言を聞かされていれば、長く此処で働くことが出来なかっただろう。

ㅤましてや頭の冴えた狂人はカメラに向かって話しかける事すらしてくる。それで精神に異常を来たした職員が指示をした狂人を脱走させ、代わりにその一室へ患者として放り込まれたこともあった。

ㅤ賭け事に熱中する職員達の自己防衛は賞賛するべきでは無いが、責めるには精神を患った患者の対応とは特殊ではあっただろう。

ㅤしかし、今日だけでも彼等の思考の外にあるカメラの映像の一つは、偶然にでもどちらかが視線をやるべきだった。


ㅤ小さな四角い画面の中では一人の患者が何事かを喚き散らしていた。

ㅤ白い部屋の中は、黒いペンと途中で取り上げられた為か患者自身の血で書かれた眼玉が壁や床を埋め尽くすように書き込まれており、残されたのはカメラに映らない天井ぐらいしか綺麗な所は残っていないだろう。

ㅤその床に手足を拘束された男が転がっており、何時になく激しく真っ白な天井へ罵声を浴びせている。

ㅤ患者は──ジニー・ジョゼフという本名は最近ではあまり呼ばれなくなった、彼が望んだように犯行現場に残していた“Eater”の血文字の通り名を周囲は呼ぶのだから──よくよく見れば、頻繁に彼を逮捕し精神病院へ放り込んだ刑事の名を喚き散らし、そしてその時々で熱に浮かされた眼で何かを思い返しては口を僅かな時間閉ざしていた。


ㅤジニー・ジョゼフは精神病院で拘束されているが、元は化学薬品の会社で開発に携わる研究員だった。

ㅤ嘘か本当なのかも解らない彼自身の証言をアテにするならば、学生時代に旅行で訪れた某亜細亜の大国で、高い金を払って人肉を食べたことが彼の食の転機だったそうだ。

ㅤ“Eater”、ジニーはよく好んで薬品を使い殺人と死体損壊を繰り返していた。

ㅤそれも彼独特の拘りがあるらしく、初めて食べた肉が成人した男の肉だったからと、例え巻き添えで死んだ女や子供がいても口を付けることは無かった。


ㅤ徐々に喉が涸れてきたのか咳き込むようになったジニーは、また怒鳴り始める前の普段の気取った傲慢な笑みを浮かべ、小さく唇を動かして呟き始める。

ㅤ聴く者がいれば書き留めて脱走の予告だと上司への報告も忘れ、警察へと電話をかけに走っていただろう。運悪く誰も狂人が映った監視カメラの映像は見ていなかった。

ㅤ男の口許はとうとう監視の担当だった職員二人の名前を順番にのぼらせ、そして冥福を祈るように「Amen.」と呟いて満足げに微笑んだ。

ㅤ拘束され動けないと思われていた男は、解かれた知育玩具のように手枷を外し、同様に足枷を遠くへ放る。

ㅤ自由になって立ち上がったジニーは、忌々しい洲警察のシンボルの鷲を象って壁の眼玉を手で滲ませて消す。

ㅤ黒いインクの汚れがすっかり鷲になった後、ジニーは最後にその鷲の腹を指で撫でた。

ㅤ黒いだけの鷲の腹に赤茶けた古い血の跡が弧を描いている。ペンを取り上げられた後に血で描いていた眼玉の跡だ。

ㅤ目立たないそれは“Eater”の謎にこれから挑む警察へのヒントして描き込んでいたが、これの意味する所はどの道最後まで辿り着くことは無いだろう。

ㅤそう満足した男はくるりとカメラに視線を向けると、カメラの向こうでトランプに白熱している職員二人におやすみの挨拶を告げて扉のある方へと踵を返した。

ㅤ扉は初めから鍵などかかっていなかったのか。すんなりと開いてジニーの姿をカメラの外に連れて行ってしまった。




「“Smile.”」

ㅤカメラの音声が入っていれば、監視カメラを忘れて博打に白熱する職員達は狭い煙感知器の壊れた室内でこの言葉を聞いた筈だった。

ㅤその室内は、いつか誰かが持ち込んでいた安っぽい芳香剤の容器から溢れ始めた無色無臭のガスが、ゆっくりと満ちようとしていた。







“とある精神異常者の脱走” File.22

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