70話:人は見かけによらない
その翌日。大学から帰る途中で、鈴木さんのお母様のバーに寄った。名刺と店の看板を照らし合わせて、恐る恐るドアを開ける。カランと鈴の音が鳴って、白いシャツに黒いベストを着た彼女が私に気付いて「いらっしゃい」と笑った。彼女の他にもう一人いる。
「おや?笹原先輩?」
古市さんだ。
「あ……古市さん……こんばんは」
「こんばんは。お好きな席へどうぞ」
店内の一番奥のカウンター席に座ると、古市さんが水を出してくれた。
「とりあえずお水どうぞ」
「あ、ありがとう」
時刻は六時過ぎ。開店したばかりだからなのか、他にお客さんは居ない。店内には私と鈴木さんのお母様と古市さんの三人。
「……あの、未成年って、バーで働いても大丈夫なんですか?」
「夜の十時以降働かせなければ大丈夫だよ。笹原さんもうちで働く?」
「い、いえ……私は別の場所でアルバイトしてるので……」
「そっか。残念。ところで、その様子だとカミングアウトの件は大丈夫だったのかな」
「あ、は、はい。全然、あっさり終わりました」
「……そっか。良かった。……何か飲む?」
「えっ、えっと……えっと……」
せっかく来たのだから何か頼まないと思いメニューを見る。ノンアルコールカクテルの欄を見るが、カタカナばかりでよく分からない。
「あははー。分かんないよねー」
「す、すみません……」
「良いよ。こっちで適当に作るから。アレルギーはない?」
「は、はい」
「炭酸は平気?」
「は、はい。大丈夫です」
「甘いのが良いとか、苦いのが良いとか、抽象的で良いからなんか希望があったら言ってね」
「えっと……えっと……あの……あまりお高くないものなら……」
「そう来るか。なるほど。値段は大丈夫だよ。ノンアルなら一律一杯500円」
「そ、そうですか……じゃあ……えっと……爽やかなのが良いです……」
「爽やか系ね」
「す、すみません……ざっくりしすぎてて……」
「良いよ。抽象的な希望すらなく全部お任せしてくる人も居るから。ちょっとでも系統を絞ってくれるだけありがたいよ。ハーブ系平気?」
「あ、は、はい。むしろ好きです。ハーブティーとか、よく飲みます」
「ん。じゃあ……喜子」
「はい。何を作れば良いですか?」
「ジントニック。ノンアルのジンね。間違えんなよ」
「はい」
どうやら古市さんが作ってくれるらしい。まずはグラスに氷を入れて、少し待ってから水を切り、砂時計のような形をした見慣れない変わった測りで液体を測り、注いだ。
それを軽く混ぜてから、また別の液体を氷が浸る程度まで注ぐ。ラベルはよく見えなかったが、しゅわしゅわと炭酸が弾ける音が聞こえてくる。炭酸水だろうか。
最後にライムを絞って軽く混ぜ、グラスの中に落とした。
「はい。ヴァージン・ジントニックです」
「ヴァージン?」
「業界ではノンアルコールの意味」
「へぇ……」
一口飲むと、口の中にハーブや花の香りが香る。少し辛口だが、美味しい。
「……美味しいです」
「気に入った?」
「はい。これ好きです」
「それは良かった」
「ありがとうございます」
「喜子、僕にもなんかつくって」
「ノンアルコールで良いんですか?」
「うん。お前が得意なものを作りなさい」
「……うわっ。プレッシャーかけてきましたね」
「ふふ。何作ってくれるのかなー」
「……スクリュードライバーでいいですか?」
「アルコール抜いたらただのオレンジジュースじゃねぇかよ」
「おや。バレましたか」
「あ?なめてんのか?」
「はい。作ります。すみません」
苦い顔をしながら、古市さんはバーカウンターの下からボトルを取り出した。そこに、先ほど鈴木さんのお母様が使っていた砂時計のような形の測りでノンアルコールのジンを測り入れて、ライムを絞って蓋を閉め、シャカシャカと振り始める。ドラマなどでよく見るバーテンダーの姿だ。
「……ギムレットか」
「はい。好きですよね?海さん」
「……」
複雑そうな顔をする鈴木さんのお母様。
「えっ。嫌いでした?」
「いや。別に嫌いじゃないよ。ただちょっと、遠くに行った友人達のことを思い出して」
「……友人?」
「ギムレットには『長いお別れ』とか『遠い人を想う』っていうカクテル言葉があってね。で、最後にギムレットで乾杯しようかってなって」
「あぁ、別れのカクテルとして有名ですもんね」
「そうなんだ……」
「……うん。そう。だから、思い出のカクテルなんだよねー」
そう言って、プレッシャーをかけるように古市さんをじっと見つめる鈴木さんのお母様。
「……やっぱり別の物にしてもいいですか」
「今更変えんなよ」
「そんな話聞かされたらプレッシャーですよ!」
「ははっ。知らずにそれ選んだのが悪い」
「うぅ……酷い人だ……」
古市さんは苦い顔をしながら、テレビでしか見たことないようなカクテルグラスにボトルの中身を注ぎ入れ、鈴木さんのお母様に差し出す。彼女は一口飲んで、満足そうにふっと笑ってから一気に飲み干した。
「やっぱアルコール入ってないと物足りんな」
「……他に感想は?」
「無いよ。とりあえず合格」
「ありがとうございます」
「ん。言っておくけどとりあえずだからな。他のカクテルでも合格もらえるようにこれからも頑張りなさい」
そう言って古市さんに優しく笑いかける鈴木さんのお母様。その優しい表情が、鈴木さんに重なる。
「あの、鈴木さんのお母様」
「海で良いよ」
「あ、はい。海さん」
「ん。何?」
「えっと……私、鈴木さ——海菜さんに言われたんです。カミングアウトして味方になってくれそうな人からカミングアウトして、そうやって味方を増やしていくと良いよって」
「へぇ。海菜がそんなことを……」
「海菜らしいですね」
「それで……私、あの子に沢山勇気を貰いました。その……えっと……ありがとうございます」
「ははっ。なんで僕にお礼言うの。本人に言いなよ」
「そう……なんですけど……あの子があれだけ堂々としていられるのはきっと、優しいお母様に育てられたからだと思うので……。だから……ありがとうございます」
「……約束したからね」
「約束?」
「そう。友達と約束したの。……僕らみたいなマイノリティなセクシャリティを持つ人達が絶望してしまわない国にするために、セクシャルマイノリティの物語を美しい悲劇で終わらせないために、希望を振りまき続けるって」
「希望を……振り撒く……」
「……うん。異性愛だけが正解じゃないって、恋や愛に正しい形なんて無いって、死ぬまで訴え続ける。それが彼女達に託された僕の使命なんだ。……だから、海菜には——君達には堂々としていてほしいし、幸せになってもらいたい。そのためなら僕はなんだってするよ」
『セクシャルマイノリティの物語を美しい悲劇で終わらせないため』という一言を聞いて、私はふと、最近見た映画を思い出した。トランスジェンダーの女性が、母親から虐待を受けていた親戚の女の子を引き取って育てるという話。やがて二人は本当の親子のようになっていくのだけど、トランスジェンダーの女性は性別適合手術の後遺症に苦しみながら、最終的には亡くなってしまう。女の子は彼女の死を乗り越えて前に進むという、絶望を乗り越えて希望に向かう終わり方をした。
そして、作中に出てきた、主人公の女の子の友人のレズビアンの少女も自殺。二人の死は、残酷なまでに綺麗な描かれ方をしていた。
その映画は、世間では高い評価を受けていた。賞まで貰うほどに。だけど咲ちゃんは、映画を見終わった時、周りのお客さん達が涙を流す中、真っ直ぐにエンドロールを見つめたまま、一滴も涙を流さずにこう呟いた。
『結局、マジョリティ様のための映画だったね』
と。
その時は彼女の言葉の意味が分からなかったし、どんな顔をしていたかもよく見えなかった。だけど、海さんの悲しみと怒りが混じったような複雑な表情が咲ちゃんに重なる。あの時の咲ちゃんもこんな顔をしていたんじゃないかと思った。
咲ちゃんと付き合って間もなかったあの頃は分からなかったけど、一年以上経った今なら分かる。
性別適合手術の後遺症で苦しんだり、命を落とす人が存在しないわけではないかもしれない。だけど、実際に手術を成功させて元気に過ごしている人もいる。彼女には生きていてほしかった。生きて、女の子と一緒に幸せになってほしかった。その結末では、駄目だったのだろうか。私の望んだ結末で終わっていたら、つまらないとか、ご都合主義だとか言われていたのだろうか。
「……どうぞ」
古市さんにティッシュを差し出されて、ようやく自分が泣いていることに気づく。急に泣いてしまった理由を話すと二人はうんうんと頷いた。
「……私も見ましたよ。その映画」
「僕は見なかった。最初から期待してなかったから。どうせそういうお涙頂戴映画だろうなって思ってたし。金落としたくなかった」
「気持ちは分かります。けど、私は見ないと批評出来ないから見る派です」
「ちなみに、僕の知り合いのトランス女性はピンピンしてるよ。普通に生きて、普通に生活してる。……僕はそういうクィア映画が見たい」
「分かります。最近、そういうほのぼのとしたゲイカップルの日常を描いただけのドラマありましたよね」
「あったね。けど、女同士で見てぇんだよなぁー。喜子、作ってよ」
「とんでもない無茶振り」
「役者として出てやるからさ」
「……じゃあ、女たらしのクズ女役をお願いします」
「悪役かよ」
「いえ、本人役です」
「あー?失礼な。僕はいつだって一途だったよ」
「いやいや……遊んでたって自分で言ってたじゃないですか」
「でも、本命はいつだって一人だったよ。気持ちが傾いたことは一度も無かった」
「いや、浮気してる時点で説得力ないですからね?」
「いやいや。浮気じゃないよ。遊びだよ」
「やっぱりクズじゃないか……」
「なははー。しょうがないしょうがない。どうしたってモテちゃうから。当時の彼女も僕が遊んでること知ってたし」
「うっわ……私が海さんの元カノの友達なら全力で反対しますよ」
一途な鈴木さんの母親とは思えない最低な発言だ。しかし、散々優しい一面を見てしまった後だからなのか、素直に最低な人だと思えない。咲ちゃんも言っていたが、確かに柚樹くんにそっくりだ。いうほど彼と関わったことはあまり無いけども。
「二人は僕みたいになっちゃだめだよ」
「「なりません」」
「うん。それで良い。恋人のことも……それから、自分のことも大事にしなさい。君達は幸せになりなさい」
海さんは優しい声でそう言ってから、ウィスキーを煽った。やはり私には彼女が恋人の想いを踏み躙って遊び歩いていた過去があるようには思えなかった。
もしかしたら海さんが自分で言っているだけなのではとも思ったが、のちに来た女性客が彼女の過去を語ってくれた。
「あの海がまさか男と結婚するなんてねぇ」
「本当だよ。人生何があるか分からないね」
目を合わせずに海さんは答える。すると女性はカウンターに肘をついて海さんの手を取ってこう言った。
「男じゃ満足出来ないでしょ。久しぶりに相手してあげようか」
「結構です。僕はもう遊びはやめたの。可愛い夫を悲しませたくないからね。てか、娘の友達の前でそういうこと言わないでくれるかなぁ」
「はぁー?何よそれ。あんたにそこまで言わせる男って何。てか、娘の友達?娘ってもうそんな年なの?」
「高二」
「ふーん。じゃあその子達もしかして、未成年?」
「まぁ、そうだね。……あ、喜子。そろそろ上がる時間だよ」
「……興味深い話なのでもう少し」
「駄目。帰りなさい。笹原さんも。そろそろ帰りな」
「あ、は、はい。今日はありがとうございました」
半ば追い出されるような形で店を出る。
人は見かけによらないものだなと改めて感じた。
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