水平線のちょっと手前で

くろかわ

水平線のちょっと手前で

 青い。

 こういうときに語彙が少ないと困る。困った。困っている。

 けど、青い。ひたすらに青い。そうとしか言えないくらいに。

 空と、海と、そして、


「なんか言ったー!?」

 後ろから声がする。バイクのエンジンが不意に出た独り言を掻き消してくれたらしい。こんな言葉を聞かれでもしたら、恥ずかしくてかなわない。

「なんでもなーい!」

 大声で応じる。はっきりと、明確に伝わるように。


 ただ風に吹かれて二人で走っているだけで楽しい。楽しかった。

 昼日中も真っ昼間、普段なら学校だ。

 座って黒板を眺めたり、先生の眠たくなる呪文に耐え続けたり、解答用紙とにらめっこしたり、今は解けない問題に頭を悩ませたり、そんな時間。


 そこから抜け出して、二人きりで短い旅に出る。

 授業が終わった頃にしれっと帰って来て、家路に着くまでのとてもとても短い逃避行。

 それもそろそろ、半ばまで来た。


 初夏の風が、バイクと、俺と、後ろの子の間を撫でて遠ざかっていく。汗ばむヘルメットは少し匂いが気になるけど、どうせお互い様だ。それよりも強くなっていく潮の匂いを感じる。海にはなんの思い出も無いくせに、懐かしさだけを覚える不思議な感覚。


『多分、人には──』


「そろそろ着くぞー!」

 大声で、誰もいない往来で、背中にしがみつく小さな身体に響くよう、精一杯声を張り上げる。

「おー!」

 旅が終わる。



 学校の授業というものはとにかく退屈で、特にうちみたいなエスカレーター式は顕著だ。

 中学の頃から面子もほとんど変化無し。男子三日会わざれば刮目して見よ、とは言うものの、二週間会わなかった連中とすら同じSNS眺めている。会ってた連中に至っては昨日の話の続きだ。


 高校三年の晩春。普通の高校生なら本気で勉強に励む時期なんだろうな、となんとなく思う。

 普通の値から外れて、家がちょっと金持ってて、都心のいいとこに住んでる。外れ値にある俺たちはそんなことをロクに意識せず、上振れの外れ値のまま生きていくんだろう。


 まぁ、幸福だ。文句ない。悲惨なニュースや治安の悪化を憂う外国の報道なんてどこ吹く風、我々資本主義の豚は餌を他人から貰って生きている。

 檻の中で自由気ままに、誰かが作った餌を日々、美味い美味いと貪っている。


「バッカおめー、筋トレは休養が重要なんだっつの」

「マジで?」

「筋肉痛になったらその日は休むんだよ。んで、他の部位をやる。それが効率的」

 教室の真ん中で長年の学友たちと本当にどうでもいいことを話していると、ふと視線を感じた。


 外れ値。

 上振れの外れ値と称したが、その中にも下振れの値がいる。

 無口で、友人もロクに作らず、ずっと一人でいる。そんなやつ。


 そんなやつがじっとこちらを見ている。

 だが、それを無視して俺たちは、

「つまりあれか、毎日同じとこやらないほうがいいのか」

「そ。日によってメニュー変えるんだよ。常識だろ。んで、そのルーチンを週単位で組む」

 なんだぁ、と友人が残念そうな顔。

「結局、ルーチンワークに終始すんのね」

「文句言うなって。そんなもんだろ」

 話を続けていると、


「あの」

 外れ値がやってきた。思いの外はっきりとした声で、無口だという印象が覆る。声を発する必要のあるときは明瞭な言葉を出す、そういうやつだったようだ。

 実は話すのも多分初めてだ。顔は何度か合わせたことがある。


 声をかけられたのは俺。理由は明白で、

「本の返却期限、過ぎてるんだけど」

 ちょくちょく、図書館で会うからだ。


 会う、と言っても顔を合わせて、合わせたところで視線が交わって、それでお終い。会話も何もない。

 お互いに、『あぁ、いるな』と思って終わりだ。


「あれ、滝沢って塩原と知り合いなの?」

 友人が茶々を入れてくる。

「あのなぁ、五年以上も同じ学校にいて知らないってことはないだろ」

 話したのは多分初めてだけど。


「で、滝沢。本」

 口をとがらせて、拗ねているように見える。本来怒るべきタイミングだろう。

「わかった、わかったって。ただあと一日待ってくんない?」

「滝沢、何読んでんの?」

 ちょこちょこと口を挟む友人。こいつのこういうところは、面倒くさくもある。

「一々うるさいなお前」


 塩原を無視する形になってしまう。鬱陶しいったらありゃしない。

「すまん塩原、明日の放課後には返すから……」

 明らかに不満顔。そう、これは怒気を孕んだ顔じゃない。現状に納得が行っていない、そういう表情だ。


「絶対だからね」

 そういうと彼女はすたすたと自分の席に戻って言った。

「たーきーざーわー」

 友人は語尾を上げて、さも何かありげににやにやとしている。

「うるせぇな、なんでもいいだろ」

「本の話じゃねぇよ。いつ塩原と仲良くなったんだ? やっぱり生真面目な図書委員の隠された一面とかそういう秘密があるのか? 恋の予感か?」


 本当にうるさいなこいつは。

「違うって。シリーズモノ借りてるんだけど、俺が借りてるやつをあいつが待ってるんだよ」

「んで、カリカリしてると」

「カリカリ?」

「苛立ってるってこと」

 ここぞとばかりに肩をすくめる友人。何故ドヤ顔なんだお前は。

「そ」

 首肯して、鞄の中から文庫本を出す。

「そういうわけだから、今日はお前と付き合ってる暇がなくなった。すまんな」

「まぁ、そうだよなぁ」

 うんうんと腕を組んで一人頷く友人。

「なんだよ」

 つい声に出してしまう。無視すればいいのに。


「知ってるか」

 唐突に顔を近づけて来た男から首だけで遠ざかろうとする。

「何を」

「塩原、結構人気なんだぞ」

「え、でもいっつも一人だろ」

 お前判ってない、何も解ってないなぁ、と再び得意満面になった馬鹿の顔が離れた。


「クールかつミステリアスなのがいいんだよ」

「いやそれ、ただのよくわからんやつだろ」

「馬鹿お前、童顔にあの胸。身長比に対するおっぱいだぞ」

「アホか。もしくは馬鹿か?」


 オチがついたところで、ちょうど良くチャイムが鳴る。

 親指を立てて自分の席に戻っていくアホ兼馬鹿兼友人を尻目に、一限の授業は何だったか、と授業表に視線を送る。

 塩原と目が合う。恨みがましそうな視線を送られ、思わず目を逸らした。


 仕方がないので、手元に目を向ける。

 誰もいなくなった世界で誰かを探し続けて旅をする二人の物語。

 非現実的で、起こるはずのない出来事が、色鮮やかにえがかれていた。



「あ? 本当に?」

「嘘言ってどうすんだよ。顧問、腹壊して今日は自主練。つまり休み」

 放課後に入るなり部活連中と鉢合わせし、思わぬ幸運を拾った。

「腹壊した……って何したんだ……」

「拾い食いでもしたんじゃね? しらんけど」

 適当な連中だ。人のことは言えない。


「ありがとな。ちょうど良かった」

 片手を上げて颯爽と、図書館に向かおうとし、

「あんだよ付き合い悪いな。もしかして女か?」

「ち、」

 違わなくもないがそうではなく、だがしかし全面否定できない。一瞬の間が命取りになった。


 部活仲間の口が一斉ににやりと弧を描く。くそ、そうじゃない。

「ちーがーうー! 本の延滞してるんだよ」

 なんだ、と皆つまらなそうな顔に戻り、

「ま、当分顔ぶれの変わらない連中と恋愛なんてごめんだよな」

「そういうこと」

 苦笑。

 まぁ、そういうものだ。


 夕日というにはまだまだ青い陽の射す図書館は静かで、さらさらとカーテンのめくれ上がる音。そしてはらりはらりと静かにページが開かれる音だけが響いている。

 今日も居た。今日も居る。明日も多分居るだろう。

「滝沢」

 珍しく、いや多分初めて、図書館で声を掛けられた。二人しかいないだだっ広い空間は少しかび臭くて、懐かしい匂いだ。

 一体何に懐かしさを覚えているのかは、自分でもよくわからない。


「よっ」

「はよ返せ」

 まるで自分のもののように言うが、この本は公共物だ。

「まだ読んでない」

「なんだと」


 結構口が悪い。塩原は誰ともつるまないから、こういうことを知る機会もなかった。

「だから読みに来た」

「あぁ、そう」

 それきり、沈黙が降りる。


 話のついでに塩原の近くに座り、文庫本を取り出す。かなり古いもので、既に絶版のそれはあっても古本屋だけだろう。

 再び、はらりはらりと音だけが静かに通り過ぎていく。


 読書は旅のようなものだ、と誰かが言っていた。

 自分が体験できない、しそうにない物事を追体験する。それはまるで文字の中を旅するようだ、と。

 言っていたのは誰だったか。


「おい」

「わ」

 急に声をかけられて椅子から転げ落ちそうになる。

「あ、ごめん。びっくりさせるつもりはなかったんだけど……読まずにぼーっとしてるなら返して」

「あ、あぁ。すまんすまん。えっとさ」


 怪訝な顔。そりゃそうだ。早く読めと言ったのに、相手が会話を続けようとしたら誰だってそうなる。

「本は旅のようなものだって、言ったの誰だっけ」

「……ありふれた言葉。いろんな人が言ってるよ」

 視線を泳がせる塩原。

 あ、と声が出る。


「そういやさ、お前中学の時の作文コンクールで」

 思い出した。

「あぅ、ちょっとまってその話止めて!?」

 耳まで赤い女の子を目の前に、気にせず続ける。

「そうだよ、お前だ。本は旅のようなもので、文字の中で起きた出来事を追体験できる、これお前だお前!」


「なんでそんなこと今思い出すんだよ! もう三年も前の話だよ!?」

「今そういうの読んでるからつい……」

 ついじゃねぇって、と悪態をつく塩原の手元を覗き見る。そういえばこいつは何読んでるんだ?


「バイク?」

「ん」

 うなずきこそしないものの、応えてくれる。会話を続ける気はあるみたいだ。

「なんでこんなもんが学校に……」

「私物。いいだろ、なんだって」

 ずい、と隠すようにバイク雑誌を横にずらす塩原。


 なんとなく、合点がいった。

「そういえばさ」

「話題、ブレるなぁ」

「この二人、燃料はどうしてるんだろうな」

 手に持った小説をひらりと振る。


 二冊しかない短いもので、面白いかと言われれば微妙だが、独特な空気感が気に入った。物語の中で二人は出会い、互いに別々の動機で同じバイクにまたがって旅をしている。

 終着点がどうなるのかはまだわからない。

 きちんと終わるのかすら不明だ。もしかしたら売上が悪すぎて途中で打ち切られたのかもしれない。


「さぁ。そこ、重要じゃないから割愛してるんだとばかり」

「重要じゃない?」

「うん。どうでもいいとこ」

 物理的にそんなことはありえないけれど、まぁこれは物語だ。

 だから、何でもありといえばそうなのだろう。


「じゃ、何で走ってるんだ?」

「二人には目的があるから……そこから説明しないといけない?」

 お前と違って書痴じゃないんだよ、とは言わない。ただ眉を寄せるだけで我慢した。


「人が行動する動機があってそっちが重要なんだから、行動のための道具がどうやって動いてるかはそこまで大事じゃない。多分、そういうの端折るタイプの作者なんだと思う」

 ふむ、と解説を聞きながら頷く。

「だから誰も見つからない世界でもガソリンに困らないのか」


 あー、と言いながら少し頭を抑えた塩原。ちょっと違ったか?

「当たらずとも遠からず。ガソリンに困らないんじゃなくて、食料にも困ってないでしょ。理由をつけて物が残ってるってことにしてるけど」

「んん、うん。あ、もしかして、目標を達成するための過程で起きる困難の種類を選んでる?」


 頷く。今度は当たったらしい。

「それだけじゃないよ。『どうやって』は『旅をする』に集約されるから、旅の障害としてふさわしくないものは排除されてる。代表がガソリン。だって、二人には動機っていう燃料があるから、それ以上のものはいらないでしょ」


 そういうものか。

「いいなぁ」

「いいなぁ……ってなんだ」

「バイク持ってるんだけど」

「持ってるの!?」

 がたりと音を立てて立ち上がる塩原。びっくりした。


「あ、ごめん。……持ってるの?」

「持ってる。……燃料代のかからないバイク、いいなぁって」

 そういうロマンのない事言うなよ、と彼女は愚痴りながら座る。


「塩原もバイク好きなの?」

「滝沢と違って秋産まれだからまだ」

 まだ。なるほど。


「なぁ。乗る?」

「無免許だって」

「違う」

「なに」

「後ろに」

「……え」



 文字での追体験が追体験たりうるのは、皆が皆、自分の中に物事のイデアを勝手に抱えているから。

 塩原はそう言った。いわば洞窟の中の影絵だ。

 だから彼女は自分でも走ってみたいと思ったのだろうか。

 皆から後ろ指をさされるような真似をしてでも、走ってみたい、旅をしてみたいと言ったのだろうか。


 晩春はどこかへと飛び去り、真っ青な高気圧が夏の訪れを予感させた。

 真っ昼間の誰もいない時間なんて県内では作れないから、せめて目的地の近くに行った頃に人が少ない方が良い。

 だから集合は早朝。平日。誰も起きていない時間。


 朝靄は無く、ただただ清涼な緑が陽を反射して輝いている。


 買ってもらったばかりのバイクにまたがり、

「塩原」

 相方を待つ。

「まって、ちょっとまって」

 悪戦苦闘しているらしく、後ろを振り向けば、

「……あー。脚、届かんか」

「うるさい!」


 所謂「高い高い」のポーズをとって塩原を後部座席に搭載し、バイクのエンジンに火を入れる。

 結構音が大きい。こりゃバレるだろうし、バレたらうるせぇだろうな、とも思う。

 思うが。

「電源切った?」

「おう」

 誰もいない世界を追体験するから、当然連絡なんて誰からも来ない。今回の旅はそういう設定にした。


 外れ値になって、バイクを発進させて、二人で海へ。


 大通りに出ればそれなりに人がいる。車も電車もひっきりなしに走っている。

 結局誰もいない世界なんてどこにも無いよなぁと話ながらまた走る。車が増える時間も、人が増える時間も、ただただ無言で走る。


 朝食にしようと決めた時間に、コンビニの駐車場で二人パンを頬張っている。

 陽はもう十分に昇って、ヘルメットを被ったままでは暑いくらいだ。

「思ってたのと違うねー」

 もそもそと後部座席に搭載されたままの塩原が言う。こいつ、買い物まで俺にやらせておいて何を言っているんだ。


「思ったよりつまらん?」

「いや、全然。楽しいよ」

「そりゃ何より。で、何が違った?」

 うーん、と小首をかしげる。細い首に汗が滴り、そういえばこいつは女だったな、と改めて感じた。


「匂いがある」

「そりゃ排気ガス出してるし、汗結構かくだろ」

「あと、体温。お前ちょっと暑苦しいよ」

「くっついてないと危ないだろ。我慢しろ」


「風はこんなもんかなーって想像してたけどね」

 無視したのか、それとも風に流したのか、塩原はそのまま言葉を紡いでいく。

「本だとさ、紙の匂いしかしないから」

「……そうだな」


「……でも、バイク旅ってなんか懐かしい」

 懐かしい。初めてのことを懐かしい、と言った。それは。


「想像とは違うけど、これがイデアに触れるちょっと手前なんだなって思うと、懐かしいって表現するのが適切なのかもな」

 塩原はとつとつと語る。俺は彼女をじっと見つめたままで。


「多分、人には夏のイデアがあって、夏だけじゃなくて春とか、冬とかもあって、それをどこかで……例えば遺伝子レベルでも記憶してて。きっと、それを感じて『懐かしい』って思うようにできてる……なんて、ちょっと青臭いか」


 青臭いし、馬鹿らしい。けど。

「ま、良いんじゃないか。これがバイク旅のイデアってやつのちょっと手前ってことで」

「おう、そういうことにしとこう」

 二人でにへらと笑って。




「今日は、水平線、見えそうだね」

 後ろから不意に声。

 旅は、次第に終わりへと近づいている。

 水平線はいくつかの建物の向こう側で、俺たちを待っているわけでもなくただそこにある。

 中天の日差しは強く、目的地の海沿いにある公園に日除けが無かったら風情が台無しだろうな、と頭の片隅で考えていた。


 アクセルを踏む。マニュアルで取ったが、結局乗っているのはオートマだ。勝手にギアが上がる。

 想像していたバイク旅とは違う形。一人気ままに走らせる予定だった駆動機構は、二人ぶんの重みを背負って疾走する。


 幸いにして公園には木陰もベンチもあった。

 そして当然人の姿もあったし、さらにはまっ平らな地平線は無かった。東京湾を西端から眺めているのだから当たり前だ。

 そんな当たり前のことに、俺たちは到着してから気付いて、二人して背中を叩いて笑いあった。


「千葉県! 千葉県忘れてた!!」

「まさかここで立ちはだかるとは思わなかったなー」

 水平線までは全然到達してない。それでも。


「あー、笑った笑った。アホだねー」

「楽しかったから別にいいんじゃねぇか」

 ペットボトルを一本、空にしてから遠くを見る。


「なぁなぁ、あのさ」

「おう。約束な。忘れてねぇよ」

 そういって、鞄の中から出した文庫本を渡す。


 読み終わるまで、小一時間。風に吹かれて待つ。そういう約束だ。


 本の結末は、どうしようもないものだった。だって、未完結で終わっていたのだから。

 期待に胸を膨らませて読んでいる横のやつには悪いが、ネタバレは一切してない。だから、落胆しようと、思いの外朗らかに笑う表情がまた見えようと、どっちでもいい。

 少なくとも、この旅は楽しかったのだから。


 いや、過去形にするにはまだ早いか。

 これは小説じゃない。売上が悪くて未完で打ち切られることもない。

 帰って、色々バレて、ひとしきり怒られて、それでまた明日塩原とその話で盛り上がって。

 そうしてようやく、この旅が終わる。


 水平線まで到達しなかったこの旅が。

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