第3話 死の予感

 鳥肌が立つ。


 寒くないのにこごえそうな空気。


 背筋がヒヤリとする感覚の中、ヴィルヘルムは周囲の異変を必死にぎとろうとしていた。


 何かにおびえるように逃げ出し、その途中で忽然こつぜんと気配を消したグレイトベア。


 あれはザンズにおびえていたのか。


 いいや、違う。もっと別の何かを恐れていたような……。


 今自分たちは、何かおかしなことに巻き込まれているのではないか。


 冒険者としての勘が、そうヴィルヘルムに告げている。


 森の奥から吹いてくる冷たい風が、サラサラと桃色薬草ピンクハーブを揺らしている。


 先程のグレイトベアの獣臭さも、もう感じられない。


「あの熊、どこ行ったんだ……?」


 ザンズが構えていた大剣を下ろし、警戒を解いた。


「さっきのは私の間違いだったのかしら……」


 小さくそう言うと、リーネも索敵魔法を解除した。


 そんな中、ただ一人。ヴィルヘルムだけがまだ感覚を研ぎ澄まし続けていた。


「いや、まだ何かおかしい気がする……」


 この肌がヒリヒリするような雰囲気は、まさしく死の予感だった。


 長きにわたって死地を巡ってきたヴィルヘルムだからこそ分かる、確かな予感だった。


 視覚、聴覚、嗅覚。何も捉えることができない。


 モンスターの気配はない。


 目の前に生えている桃色薬草ピンクハーブの上に剣を突き立て、ヴィルヘルムはその場にしゃがみ込んだ。


 そして、剥き出しになっている地面に左手の指先をわせ、目を伏せる。


 触覚――些細ささいな振動でも逃さないように注意深く生体反応を探った。


 ……。


 額に冷や汗がにじむ。


 口の中が渇く。


 


 それも自分たちのすぐそばに。


 ヴィルヘルムは最悪の状況を察し、目を見開いた。


「ザンズ、リーネ!! 今すぐ俺の近くに寄れ!!」


 そう叫んだのも束の間。


「なっ、なによ、急に……」


 と、うろたえているリーネの背後――何もない空間に、突如水平にひび割れが入った。


 そして、そのひび割れは、まるでリーネの頭部を狙うかのように、音を立てず大きく開いた。


 空間の裂け目の内側は赤く、無数の鋭い牙が並んでいる。


「リーネ、危ないっ!!」


 今度はザンズが大声を上げる。


 しかし、その口のようなひび割れは、リーネの反応を待ってはくれなかった。


 彼女の頭部を食い千切るように、勢いよく閉じられるひび割れ。


 ザンズは、凄惨な光景を目の当たりにしないように、反射的に目をつむってしまった。


「リーネッ!!」


 ザンズは目を開き、リーネが立っていた場所に焦点を合わせる。


「あれ……?」


 ただ、そこには誰もいなくなっていた。


 もちろん、血液の痕跡なども残っていない。


 まるで存在ごと完全に消滅してしまったかのような……。


 先程のグレイトベアを思い返し、ザンズがそんな恐ろしいことを考えていると――


「いいか、ザンズ。落ち着いて、あそこを見てみろ」


 すぐ隣に、リーネを小脇に抱えたヴィルヘルムが立っていた。


 おっさん、いつの間に……!?


 と、内心で驚きが隠せないザンズだったが、なんとか冷静さを取り戻し、ヴィルヘルムが指示する方向を見た。


 そこには、泥に輪郭りんかくかたどられ、うごめいている何かがいた。


 ◇ ◇ ◇


 少し時間はさかのぼる――


「リーネ、危ないっ!!」


 というザンズの叫びが放たれた瞬間、ヴィルヘルムの身体はすでに動いていた。


 ヴィルヘルムは足に力を入れると、索敵のために屈んでいた状態から、リーネのもとへと一気に跳躍した。


 そして、リーネを左腕で抱えると、素早く反転。


 得体の知れない何かから距離を置くため、まだ衰えの知らないSランク級の脚力に頼った。


 その直後、リーネの頭があった場所を狙って、空間の裂け目が閉じられた。


 牙がくうを切り、噛み合わされる音が鳴る。


 危なかった……。本当に間一髪のところだった……。


 と、焦るヴィルヘルムの脳裏に浮かんでいたのは、Sランク級のモンスター、ストームドラゴンとの戦闘だった。


 レイナをかばい利き腕を失った、そう遠くない過去の記憶である。


 一流の冒険者は、二度と同じ間違いを繰り返さない。


 その言葉が、まるで喉元に突き立てられたナイフのように、ヴィルヘルムの重圧となっていた。


 リーネは無事で、自分の身体にも特筆すべきダメージはない。


 大丈夫だ。同じ間違いは繰り返されていない。


 ザンズの近くに着地したヴィルヘルムは、自分の心も同時に落ち着かせるように――


「いいか、ザンズ。落ち着いて、あそこを見てみろ」


 そう言って、怪しげな何かの方を指さした。


「なっ、何なんだ……!? あの泥だらけの化け物……!?」

「サイレントドラゴンだ。間違いない」

「サイレントドラゴン……!? Aランク級のモンスターじゃねぇか!! どうしてこんなところに!? っていうか、なんであいつ泥塗どろまみれなんだ?」

「可視化するために、リーネを助けるときにぶっかけておいた。あいつは完全に気配を消すことができるモンスターだからな」

「あの一瞬で? 化け物かよ、おっさん……」


 ヴィルヘルムがかつてSランクパーティーに属していたことなど知るよしもないザンズは、その説明に動揺が隠し切れなかった。


「ギギギ……」


 サイレントドラゴンは、ヴィルヘルムから大量の泥を浴びせられ、不服そうな鳴き声を上げている。


「おじさん、ありがとう……。助かったわ……」

「あぁ、間に合ってよかった」

「けど、凄いわね。咄嗟とっさの判断で泥を掛けるなんて」

「本職に魔法を褒められるなんて光栄だな。ちなみに、俺は水の魔法を出そうとすると泥が出る」

「それはそれで凄いわね……」


 ヴィルヘルムの太い腕から解き放たれたリーネの頬は少しだけ乙女の色に染まっていた。


「それにしてもサイレントドラゴンなんて、私たちの手には負えないわよ……」

「いいや、おっさんが見えるようにしてくれたんだ! 俺たちでもやれる!」


 不安そうなリーネの言葉を打ち消して、ザンズが駆け出した。


 大剣を構えて、ドラゴンの形をした泥のベールに向かって一直線。


「おい、待てっ!! ザンズ!!」


 ヴィルヘルムの制止の声が虚しく響く。


「ぐえっ!!」


 ザンズは、サイレントドラゴンの身体に気を取られすぎていたせいで、泥を浴びていない透明の長い尻尾に横腹を叩きつけられ、ヴィルヘルムたちの方へと吹き飛ばされた。


 片腕だけでは受け止めきれず、ヴィルヘルムはザンズと共に、桃色薬草ピンクハーブ絨毯じゅうたんの上に倒れ込んだ。


「ザンズ! おじさん! 大丈夫!?」

「全く大丈夫じゃない……」

「俺は大丈夫だ、問題ない。ただ、ザンズが上に覆い被さっていて動けん」

「ちくしょう! 許さないっ!」


 リーネはそう言って激高すると、自分の両掌を青白く発光させた。


 私がしっかりしないと!


 そんな強い思いを抱きつつ――


「喰らえっ!! クリスタルランス!!」


 大声で叫びながら、掌をサイレントドラゴンに向けた。


 彼女の小さな手の先に尖った巨大な水晶の欠片が出現し、それが物凄いで射出された。


 しかし――


「えっ!? なんで!?」


 金属が擦り合わさるような嫌な音の後、美しく輝く無色透明の槍は、風景に溶け込むサイレントドラゴンの硬質な皮膚に弾かれ、地面に落下してしまった。


「ギギギ……」


 いら立ち、威嚇いかくするような声を喉の奥から絞り出すサイレントドラゴン。


 泥と空中の境界が、一切足音を立てず、ゆっくりと三人のもとへ詰め寄り始めた。


「どうしよう……。私、魔力使い果たしちゃった……」


 抵抗するすべを失い、身を強張らせるリーネ。


「ぐうぅ……」


 ヴィルヘルムの上で、苦しそうにもだえているザンズ。


「ギギギ……」


 一歩、また一歩と、Aランク級のモンスターが近づいてくる恐怖。


 泥の中に横一文字の切れ目が生じ、おびただしい数の牙がのぞく。


 その隙間からよだれしたたり落ちる。


「死にたくないよぉ……」


 リーネが泣きそうな顔で声を震わせる。


 すると、それを聞いたヴィルヘルムが一言。


「安心しろ、リーネ。もう決着はついている。


 そう言って、彼はザンズを腹の上に乗せたまま、ふっと柔和な笑顔を浮かべた。

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