第3話 ストラトフォード・アポン・エイヴォン🇬🇧
2021年5月8日
富樫はストラトフォード・アポン・エイヴォンの街を散策していた。富樫は大学時代、演劇をやっていたことがきっかけでシェイクスピアを好きになった。シェイクスピアゆかりの地で、生家や晩年の家、墓地のある教会や妻の家、劇場などをめぐった。
ウィリアム・シェイクスピア(1564年4月26日(洗礼日) - 1616年4月23日(グレゴリオ暦5月3日))は、イングランドの劇作家、詩人であり、イギリス・ルネサンス演劇を代表する人物でもある。卓越した人間観察眼からなる内面の心理描写により、もっとも優れた英文学の作家とも言われている。また彼の残した膨大な著作は、初期近代英語の実態を知るうえでの貴重な言語学的資料ともなっている。
ウィリアム・シェイクスピアは1564年にイングランド王国のストラトフォード=アポン=エイヴォンに生まれた。父ジョン・シェイクスピアはスニッターフィールド出身の成功した皮手袋商人で、町長に選ばれたこともある市会議員であった。母メアリー・アーデンはジェントルマンの娘であり、非常に裕福な家庭環境であった。2人は1557年ごろに結婚し、ヘンリー・ストリートに居を構えていた。ウィリアムの正確な誕生日は不明であるが、1564年4月26日にキリスト教の洗礼を受けたことが記録されている。
エリザベス朝時代には出生証明書が発行されていなかったため、これがシェイクスピアに関する最古の公的記録となる。洗礼式は生誕後3日以内に行うのが当時の通例であったため、伝統的に誕生日は4月23日とされてきたが、直接これを示す歴史的な証拠に基づいているわけではない。この日は聖人暦においてイングランドの守護聖人である聖ゲオルギオス(聖ジョージ)を記念する聖ジョージの日にあたるため、イングランドの最も偉大な劇作家にふさわしい日であることや、シェイクスピアは1616年の4月23日(グレゴリオ暦では5月3日)に没しているため、誕生日も4月23日であったとすると対称になることなどがこの推定を支持している。
シェイクスピアの両親には全部で8人の子供がいた。ジョン(1558年)、マーガレット(1562年 - 1563年)、ウィリアム、ギルバート(1566年 - 1612年)、ジョーン(1569年 - 1646年)、アン(1571年 - 1579年)、リチャード(1574年 - 1613年)、エドモンド(1580年 - 1607年)である。
父はシェイクスピアの生まれたころには裕福であったが、羊毛の闇市場に関わった咎で起訴され、市長職を失った。いくつかの証拠から、父方、母方の両家ともローマ・カトリックの信者であった可能性が推測されている。
シェイクスピアはストラトフォードの中心にあったグラマー・スクール、エドワード6世校に通ったであろうと推定されている。校名に冠されているエドワード6世と学校の設立の起源に何ら関係はなく、創設に関与したのはローマ・カトリックであり、エドワード6世の時代を大きく遡る15世紀初頭に開校されている。エリザベス朝時代のグラマー・スクールは学校ごとに教育水準の高低差はあったが、この学校はラテン語文法や文学について集中学習が行われていた。講義の一環として学生たちはラテン演劇の洗礼を受ける。実際に演じてみることでラテン語の習熟に役立てるためである。
シェイクスピアの最初期の戯曲『間違いの喜劇』にプラウトゥスの戯曲『メナエクムス兄弟』("The Two Menaechmuses")との類似性があることも、シェイクスピアがこの学校で学んだと推測される根拠の一つである。1482年にカトリックの司祭によってこの学校がストラトフォードに寄贈されて以来、地元の男子は無料で入学できたこと、父親が町の名士であったためそれなりの教育は受けていただろうと考えられることなどがその他の根拠である。家庭が没落してきたため中退したという説もあるが、そもそもこの学校の学籍簿は散逸してしまったため、シェイクスピアが在籍したという確たる証拠はなく、進学してそれ以上の高等教育を受けたかどうかも不明である。
1582年11月29日、18歳のシェイクスピアは26歳の女性アン・ハサウェイと結婚した。ある公文書において彼女はストラトフォードにも近い「テンプル・グラフトンの人」と誤記されているため、結婚式がそこで行われた可能性が高い。ハサウェイ家の隣人であるフルク・サンダルズとジョン・リチャードソンが、結婚には何の障害もなかったという保証書を書いている。このとき、アンはすでに妊娠3か月だったため、式次第を急ぐ必要があった模様である。
1583年5月26日、ストラトフォードで長女スザンナの洗礼式が執り行なわれた。1585年には長男ハムネットと、次女ジュディスの双子が生まれ、2月2日に洗礼が施された。2人の名はシェイクスピアの友人のパン屋、ハムネット・セドラーとその妻ジュディスにちなんでつけられた。ハムネットは1596年に夭折し、8月11日に葬儀が行われた。
結婚後、ロンドンの劇壇に名を現わすまでの数年間に関するその他の記録はほとんど現存していない。双子が生まれた1585年からロバート・グリーンによる言及のある1592年までの7年間は、どこで何をしていたのか、なぜストラトフォードからロンドンへ移ったのかなどといった行状が一切不明となっているため、「失われた年月」 (The Lost Years)と呼ばれる。この間の事情については、「鹿泥棒をして故郷を追われた」「田舎の教師をしていた」「ロンドンの劇場主の所有する馬の世話をしていた」などいくつかの伝説が残っているが、いずれも証拠はなく、これらの伝説はシェイクスピアの死後に広まった噂である。
シェイクスピアがランカシャーで教職についていたという説は、1985年にE・A・J・ホニグマンによって提唱されたもので、ランカシャーの貴族アレグザンダー・ホートンが1581年8月3日付で異母弟トーマス・ホートンに記した遺言書にもとづいている。この中に戯曲や舞台衣装についての言及と、弟が役者たちの面倒を見ない場合はこれらを親族サー・トマス・ヘスケスへ贈ることを書いた部分に加え、「現在同居しているウィリアム・シェイクシャフト(William Shakeshaft)」の面倒を見てやってほしいというヘスケスへの要請があり、このシェイクシャフトなる人物こそシェイクスピアのことではないかというものである。ストラトフォード出身のシェイクスピアとランカシャーのホートン家を結びつけるのは、かつてシェイクスピアの教師であったジョン・コットンである。ランカシャーの生まれで、ホートン家の隣人であったコットンがシェイクスピアを教師として推薦したとホニグマンは主張している。マイケル・ウッドは、約20年後にシェイクスピアのグローブ座株式の受託者となるトマス・サヴェッジがその遺言書の中で言及されている隣人と結婚していることから、何らかの関係をもっていたであろうことをつけ加えているが、シェイクシャフトという姓は当時のランカシャーではありふれたものであったとも述べている。
ランカシャー説を取る研究者(ジョン・ジョゼフ・バグリー、結城雅秀、河合祥一郎など)は後にシェイクスピアと交流を深める役者たちが別の劇団に入っていたことに注目、シェイクスピアも彼等がいた劇団で役者として入ったと推測している。ホートンやヘスケスと親しい第4代ダービー伯爵ヘンリー・スタンリーがヘスケスの隣人で、長男のストレンジ卿ファーディナンド・スタンリー(後の第5代ダービー伯爵)が抱える劇団『ストレンジ卿一座』に前述の役者たちが所属、かつシェイクスピアの初期の作品が上演されているからであり、ホートン家を去ったシェイクスピアはヘスケスの紹介でストレンジ卿一座に入り、リチャード・バーベッジら役者たちと知り合い、戯曲を書きあげていったとされている。なお、1592年3月3日にシェイクスピアのデビュー作である『ヘンリー六世 第1部』はストレンジ卿一座がローズ座で上演している。
1592年ごろまでにシェイクスピアはロンドンへ進出し、演劇の世界に身を置くようになっていた。当時は、エリザベス朝演劇の興隆に伴って、劇場や劇団が次々と設立されている最中であった。その中で、シェイクスピアは俳優として活動するかたわら次第に脚本を書くようになる。1592年にはロバート・グリーンが著書『三文の知恵』("Greene's Groatsworth of Wit")において、「役者の皮を被ってはいるが心は虎も同然の、我々の羽毛で着飾った成り上がりのカラスが近ごろ現われ、諸君の中でも最良の書き手と同じくらい優れたブランク・ヴァースを自分も紡ぎうると慢心している。たかが何でも屋の分際で、自分こそが国内で唯一の舞台を揺るがす者(Shake-scene)であると自惚れている」と書いており、他の作家から中傷されるほどの名声をこのときにはすでに勝ち得ていたことが知られている。
1594年の終わりごろ、シェイクスピアは俳優兼劇作家であると同時に、宮内大臣一座として知られる劇団の共同所有者ともなっており、同劇団の本拠地でもあった劇場グローブ座の共同株主にもなった。当時の他の劇団と同様、一座の名称はスポンサーであった貴族の名前から取られており、この劇団の場合には宮内大臣の初代ハンズドン男爵ヘンリー・ケアリーがパトロンとなっていた。シェイクスピアの所属変更は同年の第5代ダービー伯(ストレンジ卿)急死でパトロンを失ったストレンジ卿一座がハンズドン男爵に引き取られ、宮内大臣一座として再出発したからであり、シェイクスピアは1593年に出版した物語詩『ヴィーナスとアドーニス』をダービー伯の友人だったサウサンプトン伯爵ヘンリー・リズリーに献呈、翌1594年にも『ルークリース凌辱』を献呈しサウサンプトン伯の信頼を獲得、新たなパトロンを手に入れた。『恋の骨折り損』もこの頃に作られたと言われ、オックスフォードで海軍大臣一座のパトロンである海軍卿のエフィンガムのハワード男爵チャールズ・ハワード、ペンブルック伯一座のパトロンであるペンブルック伯ヘンリー・ハーバートとサウサンプトン伯、ストレンジ卿が会った出来事を参考にした部分が多く見られる。
しかし、サウサンプトン伯との繋がりが災難をもたらしたこともある。1601年2月8日にサウサンプトン伯が友人の第2代エセックス伯ロバート・デヴァルーと共にエリザベス1世の側近ロバート・セシル(後の初代ソールズベリー伯)らを排除するクーデターを起こし、失敗して捕らえられたエセックス伯が25日に処刑された(共に捕らえられたサウサンプトン伯は後に赦免)。エセックス伯一味はシェイクスピアら宮内大臣一座に働きかけて金を支払い、クーデター前日の2月7日にグローブ座で『リチャード二世』を上演させた。エセックス伯の意図は国王が廃位される場面を上演させ民衆を扇動させようとした所にあったが、反乱が失敗するとシェイクスピアら宮内大臣一座はこの上演とサウサンプトン伯の関係で立場が危うくなり、政府の取り調べを受けたがお咎めは無かった。
1603年にエリザベス1世が死去してジェームズ1世が即位した際、この新国王が自ら庇護者となることを約束したため国王一座へと改称することになるほど、シェイクスピアの劇団の人気は高まっていた。シェイクスピアの著作からは、作中に登場するフレーズや語彙、演技についての言及に鑑みても、実際に俳優であったことが見て取れるが、その一方で劇作法についての専門的な方法論を欠いている。
シェイクスピアの前半生を頭の中で思い出していると銃声が聞こえた。
教会を見ていた観光客が次々に銃弾に倒れていく。富樫は教会の中にいたので難を逃れたが、庭には屍がゴロゴロ転がっていた。
テロが発生した!?
サイレンの音が遠くに聞こえた。
ジャックという刑事の話ではテロリストは3人いたが、3人とも特殊部隊によって始末されたという。
コロナで家族や仕事を失った人たちが怒りを爆発させたそうだ。
明日はいよいよイギリスを立つ日だ。残虐な現実が戻って来る。あゝ!旅よ終わらないでくれ!!
夢の中にかつて亡くした大切な人が出て来た。
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