嘲笑

ロッドユール

にやけたあいつ


 彼は僕と目が合うと、いつも笑っていた。にやにやと、粘つくような嫌味な口元を嬉しそうに曲げながら―――。


 彼はいわゆる優等生だった。勉強もできて、スポーツもできる。優等生という具体的な枠があったとして、その枠は彼を自明として常に囲んでいた。しかも、まじめに親や先生の言うことをただ聞くだけでなく、自分の意思も意識もしっかりと持っていた。

 小学四年生の時だった。授業中、僕と彼と二人が立たされた。何で立たされたのかは覚えていない。彼は優等生、僕は気の小さい真面目な小学生だった。

 そして、なにかと体罰の好きな担任の中年男性教師は、校庭を走ってこいと僕たちに言った。そういうことを命じる時の、その男の口元にはいつも軽い優越と快楽の笑みがあった。

 常に無精ひげを生やしたその男は、僕たち小学生相手に、思いっきり髪の毛をひっつかみ、振り回し、殴りつける、そんなことが当たり前にできる男だった。それを正義だとさえ思い込んでいた。それでも、なぜか若い新人男子教師たちには、妙に尊敬されていた。若い新人男子教師には、生徒思いの熱血教師に映るらしい。

 クラスの生徒全員が僕たち二人を注視していた。

「・・・」

 僕たち二人は一瞬ためらった。普段と違うことをするには何かと勇気がいる。特に日本の学校に流れる独特の同調圧力の空気感の中では、先生の命令と言えど、なかなかためらわれる。だが、彼は意を決するといち早く教室から出ていこうとした。それを見て僕も後を追うようにして出ようとした。それを、担任は見逃さなかった。

「ちょっと待て」

 担任は鋭く言った。教室の入り口で彼も振り向く。

「こいつは、あいつを見てから動き出した。見たか」

 クラスメイト全員がうなづいた。その口元にはあの嬉しそうな嗜虐的笑みが浮かんでいた。

「こいつは、あいつの動きを見てから動き出した。こいつは卑怯者だ」

 担任は、さも世界の真実を見抜いたかの如く得意になって言った。

「人の動きを見てから動く、こいつは卑怯者だ」

 クラス全体の空気が、それに同意しているのが分かった。

「・・・」

 僕はうつむくしかなかった。

 遅れて校庭に向かった僕は下駄箱のところで、すでに校庭を走り終えた彼と出会った。僕は同じ、走らされている者同士、親しみを込めて彼に右手を上げた。彼とは少年野球でも一緒だったし、それほど親しくはなかったが知らぬ仲でもない。

 しかし、その時、彼は僕の予想と期待とに反し、僕を見てにやりと笑った。そこには明らかな敵意と、見下しがあった。

「・・・」

 それは何か未知の弾力のある生物のように、時空ごとぐにゃりとその口元深くを窪ませ、僕に迫った。

 それから彼は、僕と目が合う度、必ず口元にあの笑いを浮かべた。腐臭を放つ納豆のような、後を引きながら粘つきからみつく、あのにやにやとした僕という存在の芯を垂直に、なんの寄り道もなく真っ直ぐ否定するあの笑い――。

 中学に入ると、別々のクラスになった僕と彼だったが、廊下で目が合うと彼はやはり、何はさておき忘れずにやにやと笑った。更に増した圧倒的優越感で、全ての言葉を飛び越えて、僕という存在を見下した。

 競争社会の正にその縮図の真っ只中で、成長していくその過程の中で、僕と彼の差は、ありとあらゆる角度と価値から、歴然と開いていた。ただテストの点がというレベルではない。スポーツ、人気、人間性、その全てが僕の決して届かぬところにいってしまっていた。

 優秀だった彼は、なんの障壁も挫折もなく、風が吹くみたいに、当たり前にそのままエリートコースを進んでいった。地元で一番の進学校の高校に進み、そのまま慶応に推薦入学。野球部でも活躍し、公立高校で県大会の決勝、あと一歩で甲子園というところまで行った。

 その輝く彼の雄姿の映る決勝戦のテレビ中継を、僕は地元のローカルテレビで見ていた。その時の僕は、高校を不登校になり、惨めな醜態を晒しながら、社会から逃げるように自宅に引きこもっていた。全てに挫折し、劣等し、敗北し、そして絶望していた。圧倒的不平等と、理不尽と、その渦の中でもがきながら声に出せない切なさと、この世の全ては残酷なのだと思い知りながら、訳の分からない暗黒の中でのたうっていた。

 テレビに映る彼を見て、もう決して埋まらない何かを僕は感じていた。そして、決して成し遂げられることのない震えるほどの復讐、怒り――。


 彼は東京の大学へ行き、僕は田舎にくすぶった。

 狭い田舎町は、ちょっとコンビニに行くだけでも知り合いに会ったりする。当然、帰省した彼にも、突然、町中で出会ったりした。

 彼は笑っていた。あの――、

 極限の劣等感に侵された僕に、抵抗する術はなかった。

「・・・」

 その度、僕は黙って俯いた。そして、切られるような自尊心の痛みを抱え、唯一安全な自分の部屋へと、無惨に逃げ帰った。


 あれから二十年が経ち、それでも彼は相変わらず僕を見ると、にやにやとあの優越感丸出しのいやらしい笑いで覗き込むように僕を見た。

 彼は大学を卒業し、大手上場企業に就職、美人の奥さんをもらい、子供が二人、地元にマイホームも買った。一方僕は、高校中退後、アルバイトなどを転々とし、結婚はおろか、恋人すらいなかった。

 それは絶望を通り越した、埋めようのない壊すことの叶わない絶対強固な暗黒の絶壁であった。絶対に崩れることのない、登ることのできない圧倒だった。


 しかし、僕たちが四十を越して何年かたったある時、彼は突然がんになった。肺がんだった。狭い田舎町のこと、その話はすぐに僕の耳にも届いた。

 町で見かけた彼は、普段と変わりなかった。あの僕を見るその笑いも怠らなかった。だが、その目に、今まで当然としてあった、あのなんの揺るぎもない優越感がなかった。そう装ってはいたが、しかし、その目の奥にありありと今までにない不安の色が見て取れた。僕がそのことを悟ったと彼は悟ったのだろう。それから彼は僕の顔を見ても、笑わなくなった。

 数年後、彼のガンは何とか手術と抗がん剤治療で完治した。そして、彼は再び僕を見て笑うようになった。しかし、彼の目の中には以前のあの圧倒的余裕と優越性は消えていた。

「・・・」

 彼は知ってしまったのだ。自分という存在の小ささ、人間という存在の儚さ、脆さ、そして、人はみな平等に死ぬということを・・。

 僕が、人生の挫折の中で身を切られるようにして、気付いていったそれらのこと全てに、彼は一瞬で気付いてしまったのだ。

「ざまあみろ」

 僕は一人呟いた――。

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嘲笑 ロッドユール @rod0yuuru

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