1-2.  地上に遺すもの

 ヒョーガがイライザを伴って入ったのは、パーティー会場に隣接する小部屋だった。パーティ会場の四分の一ほどの広さしかないその部屋には、やはりふわふわの赤絨毯が敷かれていた。けれど部屋を照らすのは白色灯で、オフィスのような硬い印象を与えている。四方に吊るされているのは立体写真パネルだ。横から見ると薄い板にすぎないが、正面から見れば中に収められた写真が立体的に見える代物で、写真展示によく使用される汎用品だ。部屋の中央にはぽつんと一本、棒が突っ立っている。

「これは科学都市の内部写真?」

 壁のパネルを見回してイライザが首を傾げれば、そう、とヒョーガは満面の笑みを浮かべた。入ってきた扉を、後ろ手に閉めながら。

 パネルに並べられているのは、モデルルームのように誂えられた居住区や、つい昨日までイライザたちが最終調整を行っていた管制室、洒落た造りが売りのカフェテラスや、人々の憩いの間になろう中央公園など。ひとたび移住すれば、いやになっても親しむしかない場所の写真を、わざわざ確認する理由がイライザには分からなかった。

「まぁな。そっちの写真も色々とあるんだが、本命はこっちだ」

 にやりと笑うと彼は中央に立つ棒の先に手をかざした。すると部屋の照明が暗くなり、代わりになにかがぼんやりと浮かび上がる。青空を模した丸いドーム。四方に伸びた、木目調の廊下。それはイライザも通ったことのある、西エリアの居住区画内にある公園だった。

「これ、歩けるらしいんだ。あちこち回ってみよう。十三地区とかが近いんじゃないか?」

 ヒョーガの声に反応したのか、映し出されたそれがゆっくりと動き出す。見ている風景が変化していくものだから、動く歩道にでも乗っていて、実際の建物内を移動しているように思えた。

「誰がなんのためにこんなものを……?」

「さぁてね」

 ひょいと肩をすくめたヒョーガは、何が気になったのか、映像の窓に手を伸ばす。すぐに触れられないことを思い出したのか手を下ろすと、今度は数歩下がって隣の窓と見比べ始めた。

「窓と窓との間隔が短いな……」

「窓が大きいんじゃなくて?」

「どちらであっても問題だけれどね」

 海底に都市を建造するにあたって、一番の敵は水圧だった。外壁用に化学素材担当のヒョーガとイライザの二人で耐圧素材を練り上げたし、物理学者たちと頭をつきあわせて壁のカーブの圧力計算もしたものだ。だからこの科学都市において外壁に使える素材も形状も決まっている。透明性が問われるために素材の強度を犠牲にするしかない窓の形状、大きさ、そして窓同士の間隔には厳格な規定を設けた。もし万が一、指定した素材とパターンが使われていなかった場合は、建物全体の安全性を保証しかねる。海中を漂う何かが外壁を傷付けることすらも恐れて、一番外側にはゼリー状のコーティングまで施したのだ。

 二人が見ているこの映像は都市の設計図や予想図ではなく、建設された都市を実際に撮影したもの。ここから導き出される結論は、西エリアの担当者は安全性を無視した。

 とはいえ設計段階ならばいざしらず、完成してしまった今、二人にできることはなにもない。担当者の技術力が伴わず、完成を待つことなく計画を中断した南エリアとは話が違うのだ。

 西エリアの設計に対してそれ以上追求することなく、ヒョーガは居住区を抜け、中央エリアの管制区を通り、東エリアの居住区へと移動していく。東エリアにある公園は西と同じ丸いドームだが、こちらが模しているのは海だ。

 時折ぐりぐりと回転する映像にイライザが目眩を起こし始めた頃、ヒョーガはようやく気が済んだのか、映像を止めた。俯き、額に手を当てるイライザを見て、ヒョーガは彼女が酔いやすいことを思い出したらしい。

「おっとすまないな。君がこういうのには弱いのを知っていたのに、ついはしゃいであちこちを探検してしまった」

「あと数日待てなかったの? そうしたら本物を体験できたのに。どうせ、時間は有り余るんでしょうし」

 ピンヒールでバランスが取りにくいイライザは、そっと背中を支えるヒョーガに甘えてしばし身を預けることにした。空間に立体映像を投影する技術は珍しくない。しかし彼女は小さい頃から苦手で、すぐに酔ってしまうのだった。

 あまりにもぐらぐらと視界が揺れるので、イライザは目を閉じる。回っている視界を閉じてしまえば平衡感覚は通常通り、ちゃんとしているのだ。視覚を閉ざす代わりに敏感になった聴覚が、耳の奥で鳴るしゃらしゃらとした音を拾い上げた。

「ないな。オレは子猫ちゃんを迎えに行かないといけない」

 大真面目な声音で返され、イライザは思わず目眩も忘れ、いつもより近くにあるヒョーガの顔を見た。声音の通りヒョーガは大真面目な顔をしていて、彼が冗談を言っているようには見えない。だが冗談でないのはイライザの目眩も同様で、ぐらりと彼女の身体が傾くのを、ヒョーガが意外にもしっかりと支えてくれた。

「酷そうだな。調子に乗ってあちこち回って悪かった。歩けるか? 部屋まで送っていこう」

「えぇ、お願いするわ。まっすぐ立っているのも難しいみたい」

 イライザが俯き手で目を覆うと、やはり耳の中からしゃらしゃらと音がした。


 ヒョーガに付き添われて自身の部屋に戻ると、イライザはハイヒールを脱ぎ捨て、ドレスのままベッドに倒れ込む。しゃらしゃらと聞こえる音は更に酷くなるばかりで、目を閉じているにも関わらず視界が回転して見える。

「あとでまた来る。ゆっくりとお休み」

「ありがとう。その頃までに治っているとよいのだけれど」

「君の目眩は収まるまでいつも時間がかかるからな……ほんとうにすまなかったね。治っていなかったら話し相手になろう」

「子猫ちゃんの話?」

「それはまた別の機会に」

 冷んやりとしたベッドの上にごろりと転がった背を撫でる温かい手。ぽんぽんと彼女の背を軽く叩いたヒョーガは、「それじゃ」と部屋から出て行った。



 暗闇に閉ざされた部屋の中、ベッドに倒れ込んだそのままの格好で、イライザはパチリと目を開いた。元々彼女は寝つきが良く、ベッドに転がればすぐに寝落ちてしまうのだ。まだ頭はぼんやりとするが、目眩は収まっている。真っ暗な部屋の中で観測できる時の流れは曖昧だ。彼女が眠りに落ちてからどれほどの時間が過ぎたのかは分からない。時計を見ればいいだけの話ではあるが、その時計を探すことすら億劫だ。

 ふらりと起き上がり、自動で点灯した明かりに目を細めながら、彼女は部屋の外に出る。皆が寝静まっている朝の早い時刻なのか廊下の照明は落とされ、常夜灯が淡い光を放っていた。パーティ会場に戻る気も失せ、もう一度寝なおそうと部屋の奥に引っ込めば、彼女の背後で静かにスライドした扉の足元でくしゃりと紙の音がする。イライザが玄関扉に戻れば、ゆっくりと開いた扉の向こうに紙袋が置かれていた。

 首を傾げながら拾い上げたそれには、リンゴやオレンジがごろごろと詰められている。ヒョーガが来てくれたのだと、イライザは瞬時に理解した。惰眠を貪っていたがために無駄足にさせてしまったのが申し訳ない。彼を訪ねていくべきか逡巡するが、暗い廊下を思ってやめた。寝込みを襲う趣味はない。

 イライザが無造作に机に置いた紙袋はどさりと横に倒れた、赤いリンゴが転がり出る。袋に戻そうと手を伸ばしたイライザだったが、手にとったリンゴを何気なく口に運んだ。しゃくりとした歯ごたえとともに、瑞々しい甘みが口の中に広がる。思わずリンゴを目の前に掲げた彼女は、それをまじまじと眺めた。

 環境破壊が叫ばれる現在、農業が従来どおり屋外で行われることは滅多にない。細々と続けられている露地栽培は主に工場生産品を購入するだけの財力を持たない貧困層向けであり、工場のクリーンルームで作られた作物を購入するのが一般的だった。

 一部のマニアは工場生産品がおいしくないといって、危険を承知の上で露地栽培物に手を出すらしい。イライザは食で危険を冒す気がなかったが、今、納得した。彼女の手中に収まっているそれは、濃厚なリンゴの味がする。

 味わったリンゴの風味が信じられずにリンゴをくるくると回していれば、大小形も様々なドットで象られたリンゴ型の焼印を見つけた。工場のロット番号だ。バーコードリーダーで読み込めば、どこの工場でどんな原材料から作られたものなのか、すぐに判明するだろう。

「この味で工場生産品とか、嘘でしょ……?」

 呟いて改めて確認した事実に、ぞくりと背筋が冷える。

 イライザの知らない科学技術が、そこにはあった。

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