竜狩り

 竜には八十一枚の鱗がある。そのうち、八十枚は順当に生えているが、一枚だけ顎の下から逆さまに生えている鱗がある。逆鱗と呼ばれるその鱗に触れると烈火のごとく竜は怒り、触れるものをたちまちに殺してしまう。


 西日の光が砂漠を照らす頃、身の毛もよだつ咆哮が不毛の地に響いた。それは灼熱の業火に身を焼かれる地獄とはまた違った、氷点下にまで冷え込む無音の暗闇がどこまでも身体を飲み込み、虚無と不安で精神を狂わす地獄の夜の始まりを告げるかのようだった。男は緩んだ靴紐を結び直しつつ、地上の地獄とは無縁に光り輝く満天の星の中でひときわ目立つ星を探して自身の立ち位置を再確認し、目的地の方へ視線を向けた。暗闇の中で暖色の灯るその集落は、やはり日中のオアシスとは趣きを変えても夜の楽園として十二分にその存在感を放っていた。口を麻縄で縛った革袋を背負い、男は夜の砂漠の中を歩いた。内側から光が淡く漏れ出るテントの立ち並ぶ集落の外には煉瓦を組み上げて造られた外壁があり、人とラクダ一頭がやっと入れるほどの出入り口の前に二人の門番が立っていた。

「止まれ!」

門番の一人が手に持った長槍の先端を男に向けて叫んだ。男は手に持った革袋の紐を離し、両手を挙げた。

「何者だ?」

「竜狩りだ。おたくのおさから呼ばれて来た」

「な、そんな話は聞いてない! 確認するので待たれよ」

チッと男は舌打ちして頷いた。門番の一人が集落の奥に向かった。男は砂を被った革靴のつま先を眺めた。砂の粒が震えて革靴からするりと落ち始めた。身体の芯に響く低い音が鼓膜を震わせ、再びあの咆哮が集落にまで轟いた。

「お待たせした。確認が取れたのでお通りください。彼が長のもとへ案内する」長い黒髪を頭頂部で丸く纏めた青年が男に会釈した。男は頷いて彼の後に続いた。門の内でひしめき合うテントの合間を縫うように二人は歩いた。白い麻地の内からぼんやりと見える明かりがすっかり陽が落ちて訪れた闇と急激な冷えを忘れさせる。

「何人くらいが住んでる?」男は前を進む青年に尋ねた。

「百の家長とその家族なので、三百人くらいでしょうか」青年は振り向きもせずに男の問いに答えた。よく通る、中性的な見た目からは想像しがたい低く格調のある声だった。

「そんな人数じゃすぐに竜に喰われて滅びてしまうな、確かに」男の言葉に青年は応えず、やや歩調を速めた。長のいるテントは集落を見下ろす少し小高い場所に立っていた。門番の二人より倍ほど体の大きな黒い長髪を後ろに撫でつけた屈強な男が青年に頷きかけて青年は男に一礼し、その場を去った。屈強な男は男の革袋を預けるように促し、男の身体を弄って武器の有無を確認した。屈強な男がテントの外に垂れ下がる太い縄を引くと、入り口を覆っていた麻布がまくり上がった。円状になったテントの内側の真ん中、掘り込まれた地面の下でくべられた薪が燃えていた。

「遠路はるばるよう来なさった」豊かで長い白髪を後頭部でまとめて縛り、白い口髭をたっぷりと蓄えた小さな老人がしゃがれた声で男を迎えた。体の大きさには違いがあれど、その耳に残る声と髪型で男は道案内の青年が長の親族であることを悟った。

「細かい話は無しだ。約束の報酬を先に払ってもらおう」男は釘を刺すように話を切り出した。長は黙って頷き、骨と皮ですぐに折れそうな両腕を上げてパンパンと両手を叩いた。先ほどの屈強な男が巾着袋に入った金貨を男の前に置いた。

「よし。明朝、さっそく仕事に取り掛かる。竜の元に案内する者を一人つけてくれ」男は巾着袋の金貨をじゃらじゃらと一掴みして言った。

「明日の朝、ちょうど生贄として捧げられる予定じゃった娘が案内する。竜に悟られぬ為にも最適じゃろう」賢明で冷徹なジジイだ。一族をまとめるだけある。男は何も言わずに頷いた。

屈強な男に連れられて年は十くらいだろうか、麗しさというより幼さが勝る少女が男の前に現れた。こんなに幼い子を捧げるのか、この集落は。男は眉を寄せて少女の顔を眺めた。少女はつぶらな瞳で男を見返して屈託なく笑った。男は思わず目を逸らした。

「今宵はこの者のテントで休むがよい」長の言葉に従い、男は少女に連れられて集落の外側近いテントに向かった。長のテントの半分もないくらいの狭い空間で、少女の母親らしき女がくべられた焚火の上に吊り下げた土鍋の中の乳白色の液体をかき混ぜていた。

「ようこそいらっしゃいました。大したおもてなしもできませんがゆっくり寛いで下さい」女は土鍋を火から外し、手をついて頭を下げた。木の器に注がれた土鍋の液体を男に差し出した時、女は右足を引きずっていた。自分の娘を生贄に差し出さねばならない理由を男は勝手に想像しながら白い汁を啜った。ほのかな甘みが口内に広がり、夜の砂漠ですっかり冷えた身体の芯をじんわりと温めた。

「おいしい?」少女が男に尋ねる。男は黙って頷いた。満面の笑みを浮かべて少女は母親の方を見上げる。母親がこくりと頷くと、少女は小さな器を両手で持ち上げて汁を啜った。勢いよく飲んだために、むせ返る少女の背中を母親が優しく撫でている。最後の晩餐か。男は感傷的になるのを嫌うように心の中で毒づいた。

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