137話 遣魔使節その1

 安定《経》による越界は、不安定《経》によるもの───《虚空の孔》刑やそれからの帰還での越界とは、一つ明確に違う点があった。


 不安定《経》を用いての越界は体勢も不安定だったが、安定《経》はそんなことはない。


 《人界》が遠ざかっていき、《魔界》が近づいている感覚だけが続く。《経》の黒球に一歩を踏み出し踏み終えたときの体勢で安定して、俺は界を越えていく。


 面白いのは、俺の前にいたはずのロジェスも、俺の後ろから来るはずの神聖騎士たちも、更にその後ろに続く征討軍連隊も、見回してもいないことだ。事前に祈祷神官に説明を受けていた通りとはいえ、これは不思議だと思う。


 なんでも、《経》を越えた先のこの空間には、俺たちの認識するような時間は、実は流れていないのだという。こうして思考しているのも厳密にはで、俺が考えているは存在しない。


 俺がここで思い立って、魔剣を抜いて片腕ちょん切ろうとする、とする。この《経》の中で実行しても───まあ実行した者はいないらしいが───痛みはないし、ともすれば切断したはずなのに変化しない可能性すらあるという。思い立っても行動に移せない可能性もあるから、正味どうなるか不確実だが、仮に切断に成功しても、《魔界》に出た時点で腕が切断されたという事象は存在しないことになり、俺は《経》に飛び込んだままで出てくるのだとか。


 ここに誰もいないのも、そういうことらしい。《経》に入った俺には時間経過が存在しないから、『先に入った』者も、『後から入ってくる』者も存在しないのだ。じゃあ同時にせーので入ったらどうなるかという質問には、俺は答えられない。専門家じゃないから。


 ともかく、時間が経つ錯覚だけを受けて、俺は越界する。体感的には随分とかかったように思うが、錯覚なのだから気持ち悪い。たまにこの肉体の感覚と精神の感覚を敏感に感じ取ってしまって本当に吐き気やなんかを催してしまうのが、いわゆる『越界酔い』だ。俺の後に続いてきた征討軍連隊も二千人いれば、まあ何人かはそういうやつが出るだろうと目されている。


 聞いた話では、征討軍の昇任試験には《枯界》へ安定《経》で向かう、というものがあるらしい。指揮官が越界酔いすると部隊指揮に差し障りが出るから、それを避けるためだ。とはいえ《魔界》へ積極的に侵攻することは稀だから、ある程度適性を見るだけかもしれないが。


 征討軍が展開し、その前方を神聖騎士が守る。越界してきた集団とは思えないほど迅速に、《人界》からの来訪者たちは戦闘が可能となった。


 それを、距離を置いて待ち構えている別の軍勢。


 越界してきた征討軍の連隊はおよそ二千。それに対して、魔王が迎えに寄越したのはそれを圧倒的に上回る量だ。ディゴールに待機させた師団、約八千と匹敵する規模に見える。


 仮に神聖騎士ひとりが魔族の軍勢千人と等しい戦力を保有するとして、ロジェスの配下の神聖騎士が六人と征討軍連隊でトントンといったところか。───見える魔王軍だけを考えるなら、だが。


 征討軍と魔王軍の間の空白地帯に一人の魔族が歩み出る。蒼い肌に白髪のように見える銀髪───《悪精》の男性だ。瞳も俺たちとは反転しているはずだが、この距離で確認するのは難しい。


 男は散歩でもするかのように悠々と歩を進め、征討軍と魔王軍のちょうど中間地点で止まると、


「ようこそいらっしゃいました、《人界》よりの客人よ! 私たちは貴方たちを歓迎します、どうか警戒を解いていただきたい!」


 叫んだ。矢で射かけられないほどの距離をおいての言葉に演技も何もない、張り上げているから。とはいえ頭からその言葉を信じるわけにもいかず、さりとて無視もできず、征討軍はひっそりと困惑する。ここでざわつかないあたり、さすがの訓練だ。


「……行くぞ。隊列を崩すな。そして警戒は解くな」


 ロジェスは一言呟くと歩き始める。彼と共にいた征討軍指揮官が慌てて伝令を下し、征討軍連隊も行軍を開始した。


 《魔界》の───魔王の使者と名乗る《悪精》の言う通りならば、この先は魔王軍ともに南下し、一夜を野営して過ごす。その後、翌日中にっちゅうには着くはずだ。


 魔王城カカラムに。

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