008話 勇者始動その1

 神歴885年のある日の昼、信庁本殿に一人の青年がやってきた。


 青藍の瞳に藍鉄の髪をした青年だった、とその門兵は記憶している。中背だが、鍛えた者特有の体格をしていた。足運びからも戦闘経験が伺える。


 青年はユヴォーシュとだけ名乗ると、神聖騎士筆頭ディレヒト・グラフベル氏への面会を希望した。そのようなアポイントメントがないことを理由に門兵がそれを拒否すると、では言伝を頼む、と青年は言った。自分の名前と風体をディレヒト氏に伝えて、「俺は帰ってきたから、今晩、酒場“テグメリアの花冠”亭で一杯どうだ。二階の席で待ってる」と告げるよう頼んだ。


 その後、青年は特にゴネることもなく、あっさりと立ち去った。その奇妙な存在感に圧されてか、門兵は番を別の門兵に代わってもらうと、ディレヒト氏の執務室へと向かい、青年の言う通りにした。


 ディレヒト氏の反応は激烈だった。


 名前を聞いて椅子を蹴り、容貌を聞いて口を押え、内容を聞いてどっかりと重厚な椅子に倒れ込んだ。門兵が心配して何か声をかけるよりも早く、ディレヒト氏は両手で頭を押さえて───門兵はその様子を、悩みの種が芽吹いて頭が割れそうに見えたと後に語った───ぶつぶつと口の中で呟いた。伝言を持ってきた門兵がそこにいるのが頭の中からぽっかりと抜け落ちていたのか、少しの間そうしていたディレヒト氏はそこでやっと門兵がまだ自分の執務室にいるのに気づくと、何をしている出ていけと彼らしくもなく声を荒げたという。


 門兵はその夜オフだったので、“テグメリアの花冠”亭に赴くことにした。別に深い理由はない、二階席にしたのも気分ということにして。


 “テグメリアの花冠”亭は、門兵も何か祝い事があれば行く程度の庶民的な酒場である。彼の懐事情でも奮発という認識であるからして、神聖騎士筆頭たるディレヒト氏からすれば足も踏み入れないような低俗な場と言えよう。


 故に、門兵は自分の二つの眼を疑った。


 昼間に信庁本殿を訪れた青年───ユヴォーシュとディレヒト氏が同じ席についていたのだ。


 二人が何を話しているのかは、生憎と酒場特有の喧騒で聞き取れなかった。あまり近付けばディレヒト氏にもユヴォーシュ青年とやらにも見咎められかねない。門兵はそれ以上の接近を諦めたが、しかし彼の席からでもどのような話し合いをしているかは見て取れた。


 ユヴォーシュ青年は淡々と、事務的に報告するような態度を崩さない。


 対するディレヒト氏の顔色は、赤くなったり青くなったり。時には殴りかからんばかりの形相すら見せて、丁寧に撫でつけられた頭髪が乱れ放題なのを構うものかと振り乱している。ディレヒト氏であると知らなければそこいらの酔客と言われて疑いもしまい。


 《信業遣い》として高名な彼がそこまで激し、そして歯を食いしばって理由が門兵には分からなかった。もしもユヴォーシュ青年がディレヒト氏を脅迫などしているとしたら、ディレヒト氏がその《信業》を存分に振るって青年を排除しない理由が想像できない。


 二人は何か食物を頼むでもなく、入店した際に注文したであろう酒に手を付けることもなく、話すだけ話してその場はお開きとなった。


 ユヴォーシュ青年は机に硬貨を置いて立ち去り、ディレヒト氏は全財産を一時に失ったか、あるいは神から破滅を宣告されたかのように項垂れる。


 門兵に、かけられる言葉はなかった。

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