29.石川様のルミエールに対する想いは
◇
食堂で私に『片桐さんを引き抜きたい』という話をしてからの数日間、田村様は殆ど私達、従業員の前に姿を見せなくなっていた。
あれから彼女が個人的に片桐さんと話をしたのかは分からない。
片桐さんに再度、誘いの話をしたのなら、今度こそ、はっきりと断られたのかもしれない。
だから姿を見せないのか……
今日は水曜日で、田村様がルミエールに滞在されるのは、明々後日の土曜日の午前中まで……
気まずい状態のまま、彼女を見送りたくなかった。
――そういえば長谷川様は……
田村様と最近、話をしているんだろうか……
田村様と話す長谷川様の姿も見かけなくなっていた。
コンシェルジュデスクに向かい、先ほどまで作成していた経理の書類を仕上げ、作成画面を閉じると、インターネットのホーム画面に表示された沢山の『クリスマス』という文字に目を引かれる。
(そうだ! 平日なら……)
私は、あることを思いついた。
「長谷川さんも田村さんのことだけじゃなく、いろいろと考えることが多いでしょうしね。彼女のことだけ考えて一喜一憂している訳じゃないのかもしれないわね……」
思春期の頃、大人になれば精神的にも余裕ができて、悩みごとは徐々に少なくなるものだと思っていた。
けれど……
実際のところは、年齢を重ねるごとに悩みは増すばかりだった。
「そうですね……お母様の介護のこととか、何か御自身のことでも悩まれていることがあるのかもしれないですね……」
「皆、生きていればいろいろあるわよね……私も美里さんのことで、環ちゃん達に恥ずかしいところ見せちゃったじゃない? あの時、本当は……みっともないし、皆と顔が合わせづらくて、また引っ越しでもしようかと考えたりもしたの……」
「……⁉」
驚きで言葉を失った私に、石川様は微笑みながら深く頷き、
「でもね……私にはルミエールの従業員の皆と長谷川さんがいてくれた……それが、どんなに私の心の支えになっていたか……もし、一人で何処かに暮らしていて、ああいうことがあったら、孤独を感じてどうしようもなかったと思うの。私や長谷川さんくらいの年齢で一人暮らしをしていると、誰かにしょっちゅう会いに行ったり、傍にいてもらったりできないから……」
と言い、そっとテーブルの上に目を落とした。
「……まさか、石川様があの時、お引越しまでお考えになられていたなんて思ってもみませんでした」
「ふふ、驚いた? 実はね、ルミエールに住んでみるまでは『外観と内装が自分好みだし、コンシェルジュさんがいれば防犯面で安心かも……』くらいにしか思ってなかったの。それに入居者や従業員の人とは挨拶ぐらい交わせればいいかなって」
「……そうだったんですね」
――私は石川様と初めてお会いした日のことを思い出していた。
「それが、こんなに心を打ち明けられる人達に出会えるなんてね……人生、何処でどんな出会いが待ってるか分からないものね」
いつも通り穏やかな口調ながらも、石川様の目は希望に満ち、輝いていた。
――ふいに涙が滲んできて視界がぼやける。
「環ちゃん、ごめんなさい……私、何かまずいこと言っちゃったかしら?
」
石川様はテーブルに身を乗り出し、私の顔を心配そうに覗き込んだ。
「いいえ……石川様がルミエールのことを大切に思ってくださっているのが嬉しくて……」
「……環ちゃん。田村さんにも長谷川さんにも、きっと伝わると思う……何か私でも力になれることがあったら言ってね」
「はい、ありがとうございます」
その時ちょうど、悠馬さんが厨房から出てきた。
彼は何か楽しいことでもあったのか、私達にひらひらと手を振り、軽やかな足取りで近づいてくる。
「ねぇ、環ちゃん……悠馬君みたいな人を『パリピ』って言うのよね?」
「ふふっ、そうですね……」
何も知らない悠馬さんは首を傾げ、
「なになに? 楽しそうに何、話してたの?」
と言い、不思議そうに私と石川様の顔を交互に見ていた。
「秘密よね、環ちゃん?」
「はいっ、秘密です!」
――先刻まで私の目に朧げに映っていた食堂の風景は、いつの間にか、その色を取り戻していた。
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