第一章 ~『初めてのお料理本』~
調理実習の講義が始まる時間になったが、美冬はまだ研究室に残っていた。血走った眼で一冊の本に夢中になっている。
「美冬、そろそろ行かないと……」
美冬に付き添って、残ってくれていた明智が、時計をチラチラと確認する。焦っているのが表情からも伝わってきた。
「もうちょっとなの。あと三分もあれば読み終わるから。由紀は先に調理室へ行っておいて」
「……本なら調理室へ持っていけばいいじゃない」
「それは恥ずかしいわ……」
「美冬が料理できないことなんて周知の事実じゃない。今更本を読みながら調理しても、誰も何とも思わないわよ」
「でも本はこれよ」
読んでいた本を掲げる。そこには『小学生でもできる初めてのお料理本』と記されていた。
「確かにこれは恥ずかしいわね……」
「でも読みやすいのよ。イラスト付きだし、解説もひらがなで書かれているから読めない漢字もないのよ」
「あなた、よくこの大学に受かったわね……」
明智は仕方ないと鞄から鍵を取り出し、美冬に手渡す。
「研究室の鍵を渡しておくから。戸締りしてから来なさいよ」
「うん。ありがとう♪」
一足先に調理室へ向かった明智を見送ると、調理本をジッと見つめて、内容を頭に叩き込む。
「ふむふむ。砂糖とみりんはどちらも甘味にしたいときに使うけど、後者は独特の旨味や風味が生まれると……あれ? お汁粉にはどっちを使えばいいのかな……」
疑問を残しつつも、本を読み進める。過ぎていく時間に焦りながらも、何とか読了した彼女は、急いで研究室を飛び出そうとするも、やるべきことを思い出して足を止める。
「戸締りを忘れるところだったわ」
窓や扉の鍵がかかっていることを確認すると、調理室へと急ぐ。調理室内では生徒たちが割り当てられた食材の前で雑談をしていた。まだ講義は始まっていないと知り、安堵の息を漏らす。
「美冬、こっち、こっち!」
明智が手をあげて、声をかけてくれる。彼女がいる調理台へ向かうと、そこには西住の姿もあった。
「やぁ、東坂さん」
「西住くん! どうして私たちのグループに!?」
「ははは、ほら、僕って友達いないからさ。明智さんが一緒のグループに混ぜてくれたんだよね。迷惑だったかな?」
「迷惑だなんて、そんなことないわよ」
「ありがとう。東坂さんは優しいね」
西住の爽やかな笑顔にドキリとさせられる。顔が赤くなっているのを誤魔化すように、調理室を見渡した。
「あれ? 立川先生はいないのね……」
「今日の講義は助手の人がやるそうよ」
「……体調でも悪いのかしら?」
「料理が下手で教えられないからだそうよ」
何だか親近感を覚える理由だった。続くように、助手の女性が講義開始の合図を送る。レシピがプロジェクタで投影され、材料通りに作るよう指示される。
「美冬、レシピ通りに作るのよ。間違っても隠し味とか入れたら駄目だからね」
「え? そうなの?」
「初心者は失敗しないことを優先すべきよ」
「残念ね。折角、隠し味にバナナを用意してきたのに……」
「注意しておいて正解だったわ……」
レシピに従い、こし餡、水、砂糖を鍋に投入し、木べらでかき混ぜていく。トースターで餅を焼いている間、ゆっくりと中火で加熱していく。
(次の手順は……塩を少々ね。でも少々ってどれくらいなのかな? この匙で一杯分くらい?)
料理下手の美冬は感覚が分からずに、塩を大匙で掬い上げる。するとそれを制するように、手が固まって動かなくなる。
「あ、あれ、手が……」
「どうかしたの?」
「金縛りになったみたいに手が動かないの」
西住は美冬の手に握られた大匙の塩を見て、何かを察したように納得の笑みを浮かべる。
「それはきっとあやかしの仕業だね」
「善狐さんの仕業なの!?」
「うん。君の調理が間違っていることを教えてくれたのさ」
西住の言葉で美冬の金縛りは解除される。大匙に盛られた塩を元に戻すと、西住が見本を示すように一つまみした塩を自分の鍋に入れる。
「塩はこれくらいで十分だよ」
「そんなに少なくていいのね」
「塩の役割は味覚を敏感にさせるためだからね。ほら、西瓜に塩を入れると甘くなるだろ。あれと原理は同じさ。塩を混ぜると少ない砂糖でも甘く感じられるんだ」
西住の助言と善狐の助けに感謝し、お汁粉づくりを再開する。レシピに従って作られたお汁粉は、甘い香りで彼女たちを包み込んだ。
「これで完成ね」
出来上がったお汁粉を赤い茶碗に注ぎ、焼けた餅を投入する。
「僕の方もできたよ、お互いのお汁粉、交換しようか?」
「う、うん」
美冬は西住にお汁粉を手渡す。彼は茶碗に口を付けると、餡子の味を楽しむように啜る。
「うん。とっても美味しくできているよ」
「本当に?」
「嘘なんか吐かないさ。僕にご馳走するために、東坂さんが頑張ってくれたことが伝わる一杯だったよ」
美冬の料理は店で出せるレベルではないが、それでも料理下手な彼女が精一杯努力したと感じられる味に仕上がっていた。愛情は最大のスパイスになるように、美冬の頑張りが、味を何倍にも引き上げてくれていた。
「僕のも食べてみてよ」
「うん♪」
西住からお汁粉を受け取り、それに口を付ける。丁度良い甘みと、餅の香ばしい匂いが食欲を掻き立てた。
「このお汁粉、プロ顔負けの味ね」
「一人で暮らしているからね。料理は得意なんだ」
「私より美味しいのが悔しいわね……けど完璧超人の西住くんになら負けても仕方ないわ」
「僕なんて完璧からほど遠いよ。東坂さんならすぐにでも追いつけるさ」
「本当に?」
「うん。なんなら今度料理を教えるよ」
「いいの!?」
「任せてよ。こう見えても人に教えるのは得意なんだ」
「それじゃあ、よろしくね、西住先生♪」
美冬は西住の好意に甘えることを決め、彼から貰ったお汁粉を飲み干す。優しい甘さが口の中に広がるのだった。
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