幻影の花<OMNIBUS>

宮下ユウヤ

第1話:春の雪と春の幸い


 言葉にできない、

 心の声が、


 言葉にならない、

 心の叫びが、


 花の幻影をちらつかせる。

 彼らにしか見えない、幻の花として咲き乱れる。


 花言葉は、心の言葉。

 心に刻まれた、魂の記憶。


 音にならない、彼らの、魂の言葉。


 ***


 ――きっかけは、何だったのだろう


 何か、夢を見ていた気がする。

 夢の内容はハッキリとは思い出せないのに、目覚めた直後の、背中に氷の塊をつっこまれたかのような嫌な感覚だけは、いつもリアルで。

 夢から覚めても、心の奥が冷たく凍りついてしまったかのような感覚だけは、いつまでも消えない。

 何を見ていたのか覚えていない。

 曖昧なのに、何故かそれが、とても大切なもののような、忘れてはいけない、大事なもののような気がするのだ。

 自分は何か、とても大切なことを忘れているのではないか、と。

 胸の奥が、ツキリと小さく痛んだ。


 夢の余韻か、いつも起き抜けに心の内に浮かぶ、この感情は――……?


 頭の奥に走った鈍痛に、小さく顔をしかめる。

 もう、今夜は眠れそうにない。

 ベッドからゆっくりと起き上がり、息を吐いたハルユキはふと視界に入ったソレを見つけて首をかしげた。

 薄く、細い、赤い欠片。

 布団の上に無造作に散らばったソレを眺めて、ハルユキはどうやら花びらのようだと思った。

 けれども、自分の部屋に、このような赤い花びらをもつ花は存在しないどころか、花瓶すら置いていないはずだ。

 部屋の窓は閉じられていることから、外から入って来たとも考えにくい。

 ならば、この花びらは、一体どこから出現したのか。

 眉を顰めて、周囲を見渡したハルユキは、自分の周りの様子に思わず驚愕した。


「……これは、」


 赤、ピンク、オレンジ色の花びらが、枕元に散らばっている。

 花びらだけではない。

 花びらに混ざって、しっかりと形を遺した花も落ちている。

 なんでこんなものが、と花びらへ触れようとして伸ばしたハルユキの手は、それを掴むことができなかった。

「……え?」

 ハルユキは一瞬、おのれの目を疑った。

 周囲に散らばった花々、そのどれにも、触れることができない。

 花へ伸ばした指は、そこには何もないとでも証明するかのように、すり抜ける。


 何が起こっているのか、すぐには理解できなかった。


 ***


 音もなく散り咲いていたその幻の花々の名前を、彼は知らない。


 彼の枕元に散らばったその花の名は、ガーベラ

 花言葉は――「悲しみ」



 ***


 確かそれ以来、触れられない、自分にしか見えない幻の花が、ハルユキの日常生活において常に視界をちらつくことになったのだ。

 毎日寝起きに花を見るだけでなく、ある時は授業中、ある時は外出中、ある時は風呂の中で、ある時は兄弟での会話中。

 もはや原因どころか何が引き金になっているのかすらわからない。

 自分はおかしくなってしまったのか。

 自分しか見えない花が見えるだなんて、そんなわけのわからないおかしな現象、家族にも誰にも相談できるはずがなかった。


 ***


 あぁ、まただ。

 また、


 ――悲しい夢を視た


 頬を撫でる誰かの指の感覚で、ハルユキは目が覚めた。

 ぼやけた視界に、心配そうに覗き込んできた顔があった。

「……珍しいな。寝坊か?」

 瞬きを繰り返しながらゆっくりと身体を起こし、ようやくハッキリした視界に、弟のシュンセツの仏頂面が映る。

「……何か、悪い夢でも見たのか?」

 あぁ、花が見える。

 薄く、細い、赤い花びらの欠片が。

「ひがんばな……」

「は?」

 怪訝そうに眉を顰めるシュンセツに、慌てて首を横に振る。

「……何でもない、大丈夫」

「そうは見えないけど」

 おそらくひどい顔をしている自覚はあったが、ハルユキにはそれ以上何も言えない。

 心配させないように、笑ってごまかすしかない。

「本当に大丈夫。起こしてくれてありがとう、シュン」

 頼むからそれ以上聞いてくれるな、という願いが伝わったのか、「俺今日、部活あるから先に行く」とだけ告げてシュンセツが部屋を出ていく。

 その後ろ姿に重なるように、ハルユキの視界に、不吉なイメージの印象が強い彼岸花が咲き乱れる。

 まるで黄泉の国へ、冥界に呼ばれているみたいだ。

 目覚まし時計の時刻を確認したハルユキは、深いため息をついた。


 ***


 ヒガンバナ

 その花言葉は、――悲しい思い出。


 ***


 記憶に残らない夢を見ては、幻の花に囲まれて目を覚まし、かすかに漂うリアルな花の芳香に気だるさを感じる。

 そんな日々が何日も続いて、さすがに疲労感を覚えたハルユキは、案の定その日の授業中に倒れ、学園の保健室へ運びこまれることになった。


 ***


「――それは、幻影花だね」

「……はい?」

 白髪の保健医――ル=ジャルダン・スクレが口にした聞きなれない言葉に、ハルユキは思わず首をかしげる。

 そんな相手の反応に慣れているかのように、スクレがさらりと説明する。

「今結構、学園内で流行ってるんだよねー」

「そう、なんですか……」

 知らなかった。

 それならもっと早く相談に来ればよかったと、さんざん一人で抱え込んで倒れるまで溜め込んだことを後悔した。

 なにかの病気かと思い込んでいただけに、そうではないとわかったのはよかったが、そもそもこれは流行るような現象なのか、とハルユキは眉を顰める。

 何が引き金になっているのかはまるでわからないが、自分にしか見えない花の幻影が見える、だなんて、頭がおかしくなったとしか思えないのだが、この白髪の保健医は、思春期の生徒にはよくあることだと言う。

「でね、これ主に、片思いを拗らせた子に見えるらしいんだよね」

「そうですか…………って、え?」

 今この白髪の保健医は何と言ったか。

 ハルユキは、今しがた彼が口にした言葉を頭の中で反芻する。

 片思いを拗らせた子に見える、とスクレは言ったか。

 それなら自分は確実に該当しないはずだ、とハルユキは内心で思った。

 しかし、現に自分には幻の花が見えている。

「心当たりはない?」

「ありません」

 心当たりも何も、思い当たる事柄は何もない。

 そもそも相手すらいない。

 悲しいかな、彼女いない歴=年齢の男子学生である。

「身の回りに異性は?」

「幼馴染と、クラスメイトと、近所の人たち…………あ~、ナツミさん、……は、近頃喫茶店のマスターと親しくしているようだし」

「そのナツミさんに横恋慕とか?」

「いえ、それはないです」

「と、みせかけて実は無自覚だけど、本音は――」

「……スクレ先生。ふざけるのも大概にしてください」

 からかうような口調になったスクレをサクラが止めに入った。

 サクラ・秋乃は、ハルユキの一学年下の女生徒であり、保健委員だ。

 いや、実際はこの白髪保健医スクレの世話役といっても差し支えないだろう。

 サクラはスクレの対応に慣れているのか、彼に代わってハルユキに真面目に問いかけてきた。

「何か、最近変わったことはありませんでしたか?」

「……。特にないです」

 いつも通りの日常を過ごしていたはずである。

「些細なことでも構わないよ」

 ニッコリと笑みを浮かべてスクレがつけたす。

 しかし、そう言われても、思い浮かぶ事柄はない。

 顎に手を当ててしばらく考え込んでいたハルユキだが、ふいに呟いた。

「……夢を、みます」

「どんな?」

「それが……覚えてなくて」

「まぁ、夢って起きたら忘れちゃうものだしね」

 そーすると手がかりはなしか、と呟いたスクレに、サクラも難しい表情をして黙り込む。

 何かマズイのだろうか。

「……もしかして、一生見え続けるものだとか?」

「いや、いつかは見えなくなるはずだよ」

 若干の不安を覚えて問いかけたのだが、案外あっさりと返された。

「と、言っても、例えば普通の風邪みたいに、薬飲んでどうこうってわけにはいかないのが困りものだよね~」

「つまり?」

 首をかしげたハルユキに、スクレは真剣な表情になって告げる。


「幻影花はね……“深紅の薔薇”が見えたら、それが最後って噂なんだよね」



 ***


 ハルユキが保健室を退室した後、サクラは窓に歩み寄るとをガラリと開け放った。

「そこにいるのは、わかっていますよ」

 サクラが窓の外へ向かって言い放つと、クラスメイトの苦々しげな舌打ちが返ってきた。

「おっと、盗み聞きとはいただけないね、シュンセツくん」

 窓の方に視線をやったスクレはへらりと笑う。

 彼は、サクラのクラスメイトであり、先ほど診察にきたハルユキの血のつながらない弟でもある。

「黙れヤブ医者」

 低く呟くと共に舌打ちを返したシュンセツは、開いた窓から保健室へと侵入した。

 おおよそ、兄であるハルユキの体調を心配して盗み聞きをしていた、といったところだろうが。

「ハルユキに余計なことをするなよ。したら、ただじゃおかない」

「わお、怖ッ。……前にも言ったと思うけど、ここでの僕はただの傍観者だ」

 自分は無害です、とでもアピールしたいのか両手を上げたスクレは、シュンセツにニッコリと微笑んで見せる。

「……で、何の用かな?」

「――“深紅の薔薇”を見たら最後、ね……」

 おどけた口調で本題を促すスクレに、シュンセツはボソボソと低い声音で不愉快そうに呟いた。

「……何故あんな嘘をついた?」

「嘘は言ってないよ?」

 シュンセツの鋭い眼光に睨まれて、スクレがさっと視線をそらす。

 サクラは、われ関せずとばかりに保健室内の整理整頓を始めた。

 それを恨みがましげに見やるスクレを見下ろして、シュンセツはため息をつく。

「そうだな。嘘は言ってない。…………ただ、言葉が足りないだけで」

「ふむふむ。経験者は語る、だね」

 おどけた調子で言ったスクレをシュンセツは睨み付けたものの、何も言い返さなかった。

 スクレの言葉が事実であったからだ。

 不機嫌そうな顔になったシュンセツを前にして、ふいに視線を落としたスクレは淡々と語る。

「――“幻影花”の根本的な改善法は、未だ見つかっていない。ただし、心から望む想い人に出会えた時“深紅の薔薇”が見えて、それ以来、幻影の花を見ることはなくなる」

 一変して真面目な表情になって目を細めたスクレに、シュンセツは眉間に皺を寄せて舌打ちする。

 苛立たしげに睨んでくるシュンセツを横目に、スクレはクルリと椅子を回転させると、保健室に備え付けてある洗面台に視線をやった。


「ねぇ……君は、彼の想い人に、心当たりはあるかい?」


 振り返って静かに問いかけたスクレに、今度はシュンセツが視線をそらした。

 一瞬だけ表情を歪め、苦々しげに吐き捨てる。


「…………そんなの、決まってんでしょう」


 ***


 ハルユキに何かあったらすぐ連絡寄越せ、と言い捨てて出て行こうとしたシュンセツを、スクレはふと呼び止める。

「あー、わかってるとは思うけど、一応言っておくよ。……君が警戒すべきは、ってこと、頭の片隅にでも置いておいてくれるかな」

「……言われるまでもない。俺はあんたを信用してない……今も昔も」

 そう低く吐き捨てて、今度こそシュンセツは、保健室を出ていく。

 睨まれたスクレも、肩をすくめるだけで呼び止めることはしなかった。

「う~ん、シュンセツくんは、ほんとブラコンだなぁ~。サクラくんもそう思わない?」

「黙秘します」

 サクラの素っ気ない返答に、スクレはつれないな~といじけた様子をみせる。

 しばらくクルクルと事務椅子で回っていたスクレだが、ふと先ほど診察にきたハルユキが、退室際に呟いた言葉を思い出した。

「キキョウ、か……。ねぇ、サクラくん。君は、キキョウの花言葉を知っているかい?」

 唐突なスクレの問いかけに、眉を顰めながらもサクラは小さく首を振る。

「……いえ、そこまで詳しくありません」

 サクラの返答に、スクレはどこか遠くを見るような眼差しをしながら、窓の外に見える青空に視線をやって、静かに呟いた。


「キキョウの花言葉はね、……――“変わらぬ心”」


 スクレは窓の向こうに見える空へと手を伸ばしながら、そっと眩しそうに瞳を眇めた。


            <春の雪と春の幸い:終>

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